パオと高床

あこがれの移動と定住

長田弘『長田弘詩集』(思潮社現代詩文庫13)

2008-11-16 09:00:00 | 詩・戯曲その他
『ぼくらが非情の大河をくだる時』というのは清水邦夫の戯曲だったが、抒情の大河に対して、それを泳ぎ切り、対岸で振り返りながら、感傷を直立させた詩篇だ。始点はすでに傷ついている。その露出した傷は血を流さすに、流す血の変わりに言葉を沁みだしてしまう。

  花冠りも 墓碑もない
  遊戯に似た
  懸命な死を死んだ
  ぼくたちの青春の死者たちは もう
  強い匂いのする草と甲虫の犇きを
  もちあげることができないだろう。
  汗に涙が溶け
  叫びを咽喉がつかむ、ぼくたちの
  握りしめるしかなかった拳のなかで
  いま数えることのできない歳月が
  熱い球のように膨らむのだ。
  夏のサーカスのように
  ぼくたちの青春は 不毛な土地を
  巡業して廻っているのだろうか。
  ぼくたちは きっといま
  ハードボイルド小説みたいに孤独だ。
  ぼくはきみが好きで
  きみはぼくが好きだ
  そうして ぼくたちは結婚したが、
  それがぼくたちの内なる声のすべてなら
  婚礼は血の智慧がぼくたちをためす徴し、
  唯一の経験であるやさしさだった。
       (「われら新鮮な旅人」)

1965年に出された詩集『われら新鮮な旅人』。近接過去はすでに取り戻せない過去形を刻みつけている。複数の「ぼくたち」が生きた単数の時間は明日への分断のなかでも未来を志向する。その手前の痛みの現在。この始点に向けて、詩集的には数年に渡る沈黙の後、詩集の量産期に入る。そこに刻まれた言葉は、経験を受容し、経験を読書によって錬磨し、すべての経験に人があるために人となるための蓄積を見いだしていく。現在形の生は生きていく時間によって、常に「新鮮な旅人」なのだ。その痛みも含めて。
繰り返される詩句。

  愛してください、
  愛するひと。

痛烈な痛みと不安の上に言葉は舞い降りてくる。かけられるベールは露呈した傷を覆いながらうずくまる存在に屹立する時を与える。今に至る長田弘の道程はここに始まっている。今はそれが慈雨のようなのだ。
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