パオと高床

あこがれの移動と定住

『無双の花』葉室麟(文春文庫)

2023-02-12 13:27:16 | 国内・小説

ずるいよ、立花宗茂。かっこよすぎ。
葉室麟、かっこよさをかっこよく描ききっている。
大河ドラマで取り上げて欲しい人物の一人として挙げられる立花宗茂を、
福岡出身の作家葉室麟が描く。
「立花の義」を貫き、義による行動を全うしながら、生き抜いていく宗茂。
そして、武勇にも秀でた妻誾千代。
大坂の陣では敵味方に分かれながらもお互いを認め合う真田信繁。
乱世から泰平の世へとかわる中で、お互いが交差する伊達政宗。
さらに、秀吉、家康、秀忠。と、葉室麟は独自の視点で人物を造型していく。
でてくる人物がなんとも魅力的だ。
そんな中で
「世は努めることを止めぬ凡庸なる力によって成り立っておるかと存じます」
と宗茂に語らせる、人々の日々の営為に注ぐ作者のまなざし。
また、乱世を泰平に導くために、ぶれずに大切にされる「義」という価値への作者の思い。
秀吉の島津攻め、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い、大坂の陣という時代の流れも描きながら、
尊敬し合う夫婦の姿や戦いのもたらす非情さも横溢する。一気読み必至の一冊だった。
で、
ドラマ化して欲しい。特に今、この時代に。
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『浄土の帝』安部龍太郎(角川文庫)

2023-02-10 13:49:21 | 国内・小説

後白河上皇の半生を描いた小説。
平清盛とか源頼朝を描く時に、稀代の政治力と裏工作師ぶりを発揮するキイパーソンとして登場する帝を、
正面から主役で描く、珍しい(?)一編。
院と天皇の確執や、それをとりまく摂関家の蠢きがわかって、なかなか面白かった。
今様に打ち興じる姿や、夢物語にテレパシーのように語りかける様子は、
それこそドラマでよく見かけた。
「鎌倉殿の13人」でも頼朝の夢枕に西田敏行はよく立っていた。
それが、この小説では、今様に優れた才能を持ち、人々から尊崇を得るためにその才能を生かした、
としている。
また、語りかける能力も、そんな力を持っていたとして描いている。
なんらかの古文の資料に記述があったのかもしれないし、作者が想像をめぐらしたのかもしれない。
それが崇徳上皇と後白河上皇の心の交流でうまく使われたり、
後白河上皇が庶民をどう捉えようとしていたかを描く時に有効に活用されていた。
実際に
今様が宮中にも浸潤している様子は、文化の動きとしてかなり重要な転機だと
何かの本で読んだことがある。吉本だったかな?

この作者の書いた『等伯』でもそうだったが、
視点を従来の場所から変えることで、違った立ち位置で歴史を見つめることが出来た。
保元の乱や平治の乱といった学校で習った歴史が人々の動きとして表れたのはよかった。

それにしても韓国歴史ドラマの朝鮮時代物でもそうだけれど、
王や帝が親政を行うことは、難しいもので、必ず
とりまく官僚の権力争いが起こるのだな。
で、一方でいかにして相手を朝敵にするかが、すでに古代から生まれていたことに
気づかされた。
幕末に倒幕を狙う薩摩藩が錦の御旗を欲しがった戦略もすでに、
歴史が示しているものだったのだ。

安部龍太郎の小説は比喩が抜群にいいな。
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嶋稟太郎『羽と風鈴』(書肆侃侃房 2022年1月18日)

2022-01-29 19:46:29 | 詩・戯曲その他

迷路の中を彷徨ってしまう。そんなときに突然、いや、突然というほど強くはなく、
でも確かに、すいと現れる一本道があって。

曲線のかたまりのなかに曲線を横断(?)あるいは縦断(?)するような
まっすぐな線が現れて。

どんなに不穏な空気が流れていても、ここにはきっと直線があるのだと思わせてくれて、思い出させてくれて、
と、そんなことを感じた、考えた歌たちがいた。
大辻隆弘は跋文でチェーホフを想起していた。そうか、チェーホフか、確かに。

 しばらくは地上を走る電車から桜並木のある街を見た
 午(ひる)すぎの静かな雨を通り抜け東急ストアでみかんを選ぶ
 透明なボックスティッシュの膜を裂く余震のあとの騒ぐ心で
 開かれて窓の格子に吊り下がるビニール傘が通路に光る

歌集最初の「大きな窓のある部屋に」冒頭四首。
僕は、私は、ここに今いるんだ、で、これって、この一瞬だけれど、ここまでがあって、
これからがあるんだよって感じさせる。
歌が現在形なのだ。一首目が「見た」と終えられていても、この「た」は過去形ではなく
「しばらくは」と呼応して、次の瞬間に移動していくのだ。これが迷路の日常を、迷路の表現を
凜と動かす。
だって、現在は、いまこのときまでを、きっとそのときへ、たぶんそのときへとつなげる、そんな「いま」、だろうから。
それが、裏切られたとしても、いま、このときは、僕が、私がいるいまこそ、そのときなのだ、
と、やさしく感じさせてくれる。
いいよな。それって。

表紙裏にある一首。歌集表題を表す歌だろうか。

 それぞれの羽を揺らして風鈴はひとつの風に音を合わせる

何か、はじまりをやさしく差しだしてくるようだ。もう一首だけ引く。

 乗り過ごして何駅目だろう菱形のひかりの中につま先を置く

歌集の装幀もいい。
歌人は2020年笹井宏之賞の個人賞(染野太朗賞)を受賞。
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ケン・リュウ「紙の動物園」

2022-01-15 07:57:58 | 海外・小説
『Arc ベスト・オブ・ケン・リュウ』に収録の短編「紙の動物園」。2011年発表の出世作。

母が、クリスマスギフトの包装紙を折って作った動物に息を吹き込むと、動物は動きだす。

 母さんの折り紙は特別だった。母さんが折り紙に息を吹きこむと、
 折り紙は母さんの息をわかちあい、母さんの命をもらって動くのだ。
 母さんの魔法だった。

中国人の母とアメリカ人の父の間に生まれた「ぼく」。幼い頃の世界は、大人になるにつれて齟齬を生みだす。
作者のケン・リュウは、1976年中国蘭州の生まれ。街の中央を黄河が流れる都市だ。蘭州ラーメンが美味しかった。
で、11歳の時に家族とともにアメリカに移住したと、略歴に書かれている。

小説には、英語を話せない母とアメリカ社会の中で生きていく「ぼく」とのズレが書き込まれていく。
それが紙の動物たちとの交流と離反を通して描かれる。
小さな世界と大きな世界の違和。何がささやかな生活に亀裂を入れ、そのわずかな亀裂がかなしみをもたらすのか。
読み終えてそんなことを考えた。ヒューゴ—賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞の3冠受賞作と紹介されている。
じわりかなしい小説だった。
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ケン・リュウ『Arcアーク』古沢嘉通編・訳(早川書房2021年5月20日)

2022-01-03 18:43:27 | 海外・小説

「ベスト・オブ・ケン・リュウ」という、ケン・リュウのベスト版。
映画化もされた冒頭「Arcアーク」、面白い。
折り返しのストーリー紹介を抜く。
「つらい別れを経て心身ともに疲弊した」わたしは、「ボディ=ワークス社」に就職する。
ここは、「防腐処理を施した死体にポーズを取らせ、肉体に永続性を与える仕事」をする会社で、
才能を見いだされたわたしは「創業者の息子ジョンと恋に落ちる」。彼は「老齢と死を克服したいと考えており……」と書かれている。

生きものの宿命である老化と死。いったい人類は不死を、永遠の若さの獲得を出来るのだろうか。
「アーク」はもとは「円弧」という文字が記されていたらしい。大いなる円弧として繋がっていく生命と私の生の永続性。
ボクらの感情は価値観は、どのような方向を選び取るのだろう。

不死や永遠の若さというとどうしても萩尾望都の『ポーの一族』を思い出してしまう。
あの情感と思索がどうしても中心になってしまう。
人が自らの生を選べる時代は来るのだろうか。NHKでは、確か若さの永続性を描いた科学番組(?)があったな。
また、ボディ=ワークス社の仕事は、死者と死体の境界をなぞるようでスリリングだった。
どこまでが死者でどこからが死体なのだろう。死体となったものをまた、死者に戻し、呼び戻す行為とは何だろう。

ケン・リュウの小説は描写もいい。訳も含めて。
例えば、
「爪先で踏みしめる砂は冷たく、濡れており、ときたま貝殻の破片が裸足の足裏に刺さった。
 だけどわたしは汀を裸足で歩き続けた。」とか。
で、呼応するように、
「美しい午後だ。綺麗な貝殻を取り合い、砂に残していくわたしたちの足跡で模様を描くのにはうってつけだ」
という表現があったりする。
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若松英輔『日本人にとってキリスト教とは何か—遠藤周作『深い河』から考える』(NHK出版新書2021年9月10日)

2021-12-30 21:33:18 | 国内・エッセイ・評論

若松は、遠藤周作の集大成と考える小説『深い河(ディープリバー)』を軸にして、詳細に読解しながら、
遠藤周作が語ったこと、語りたかったこと、語り得なかったこと、語るという行為の先に、
なお続こうとする〈コトバ〉の気配を考察していく。
それはキリスト教と東洋的な霊性との出会う場所に至る。そうして、それぞれの宗教が持つ神の淵源に向き合っていく。
遠藤周作の『深い河』を読んだときに、ボクが感じたスリリングな体験(?)だった。
若松英輔は、そこに思想的な背景や、この考えの特殊性と普遍性を解説してくれる。
小説を読んだときの感覚は、若松の解読によって支柱を与えられる。

若松は、『深い河』のさまざまな部分について遠藤周作の思いを読み取ろうし、また、そこに若松の思いを重ねていく。
小説は読者によって生きるし、読者は小説によって読書の意味に出会う。つまり、読者は小説によって生かされた時間に出会う。
案外それは、そのあと過ごす時間に影響を与える。過去は、現在を経て未来へとつながる。
同時に、未来は過去を可逆的に呼び覚ます。
この若松の著書の言葉にならえば、「クロノス」(生活の時間)と「カイロス」(人生の時間)に架橋すということか。

一気読み必至の小説がある。『深い河』もそうだ。でも、遠藤周作の『深い河』は、突然、一気読みしたくなくなる。
立ち止まってしまうのだ。
つまらないからではない。逆で、立ち止まらないと、見えない、感じられない、聞きとれないことがあるのではという、
ためらい=ブレーキがかかるのだ。
方法論的にはブレヒトは「異化」というのかもしれない。が、それとは違うような。
むしろ、もっと嚙まなきゃ出会えない味があるかもしれないと思わせる、やり過ごせない束の間の躊躇。
一気読みの小説は楽しい時間を過ごせていいのだけれど、一気読みしたくなる気持を、
「待ちませんか」とささやきながら、時間を脱臼させる小説っていいな。
という、読み方を示してくれる評論は、それこそ読書の快楽だ。

若松英輔の文章は、語りかけに本来性を持っている。
これは、彼が、伝達するとはどういうことか、私たちは伝え合いながらどのように他者に出会い、
また共有できるあなたに、どのように出会えるのか、
そのときに生まれる私たちの共時とは何なのかを求め続けている結果の文体だと思う。
それが、この本のこんな一節に書かれている。
遠藤周作が母から受けとったであろうことについて書かれた部分だが、
これは、単にキリスト教についてだけではない。

「遠藤にとってキリスト教は、本を開いて学ぶべきものであるよりも、人から人に伝えられるべきものだったのです。
//人から人、あるいは魂から魂へと伝わるべきもの、それは言葉になり得ないものでもあります。しかし、遠藤は、
言葉たり得ないと分かっているものを、生涯を賭して書いていったのです。」

と、若松はこう書く。
これは、遠藤周作でありながら、若松英輔の想いである。
人から人へ伝わるべきもの、言葉になり得なものを言葉で書きつづけるということ、
これは伝道者への敬意であり、作品が永遠を生きるための、必然的に取るべき態度なのかもしれない。
作品が永遠を生きるとは、作者が永遠性を作品によって付与されることかもしれないが、
作者の名のみが歴史的に刻まれるということではない。
作品の永遠性は、イエスの復活と類似的なものといえるのだろうか。
つまり、作者も含めて、作品に出会った者たちが、作品を生かし続けるという永遠性。
それを獲得したものは、つねに再来する、再帰する。
そして、語りつづけるのは、語り得ない大いなる地平を持った、今こそその時の、この束の間の、
ボクたちの立ち止まりかもしれない。
時よ、ただ流れるな、いま、このひとたびに立ち止まる時も、また、時。
時よ、振り返るな、いま、このひとたびに立ち現れる時は、また、時。

物理学的には時間の一方向性は、「?」マークがついている。
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クリスマスの約束 小田和正

2021-12-25 01:46:35 | Weblog
あっ、いきなり。
小田和正の「クリスマスの約束」2021が放送された。2年ぶりだ。
で、ラストの前に井上陽水の「最後のニュース」が合唱された。
わっ、すごっ。筑紫哲也の「NEWS23」で流れたのが確か1989年?平成元年?
番組の初代エンディングテーマだった。30年以上前になるのか。
それは、長いのか? 短いのか? どうなんだろう。
ただ、
今聴いても、すごい。
中島みゆきの「最後の女神」もよかったな。
あっ、買っている金平茂紀の本読もうっと。
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ポール・アルテ『混沌の王』平岡敦訳(行舟文化 2021年9月27日)

2021-12-16 21:01:04 | 海外・小説

探偵の名前はオーウェン・バーンズ。作者はフランスの推理小説作家で、いわゆる本格探偵小説だ。
推理を誤らない探偵の探偵ぶりがいい。

ストーリーは裏表紙に頼る。
「長女の婚約を巡り愛憎渦巻く屋敷に集まった面々は、みな〈混沌の王〉と呼ばれる存在に怯えていた。
一族を呪い、聖夜のたびに一人ずつ命を奪っていく白面の怪人……それはいにしえの伝承ではなく、三年
前にも当主の息子が完全な密室の中で殺されたのだという。そして〈混沌の王〉を呼び出し鎮めるための
交霊会の夜、新たな事件が発生し」
と、こうなる。

さらに、雪の夜の残っていない足あとや登場人物の不可解な行動。
物語の舞台になる建物の二つの塔をつなぐ空中回廊。鈴の音とともに現れる混沌の王。
吹雪の先の湖に浮かぶ小舟。そして、探偵オーウェンの友人が語り手となって事件の渦中に入っていくという設定。
おまけに、その語り手アキレスが登場人物の女性に寄せる想い。
ああ、どこまでもクラシカルな、溢れるようなディクスン・カーの世界。

ホロヴィッツが、『カササギ殺人事件』で二重構成を取りながら、アガサ・クリスティの世界を招来したように、
また他の小説でホームズを復活させたように、アルテはディクスン・カーを呼び戻す。面白いよな、本格探偵小説。
あっ、そういえば、少し前に読んだ、阿津川辰海の『星詠師の記憶』はめちゃくちゃ面白かった。
阿津川の問いと答えの論理的な積みあげも、いいよな。
で、この小説『混沌の王』の探偵が語る言葉、
「謎を解くには、ありえないことを排除していくだけでいい。そうして残った仮説は、どんなに馬鹿げて見えようが
真実にほかならないってね」という言葉は、いい。
それは、小説冒頭の「人生は偶然から成っている」と呼応して、物語世界を創りあげる。だから、読者は偶然出会うのだ、物語世界に。
ありえなさを排除しながらも、混沌が跋扈するこの時、この場所に。
それは、とても愉しい、あり得なさを排除しながら、その結果、顕わになるありえた世界の真相。
にたにたしながら読める小説だった。
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藤井雅人『孔雀時計』(土曜美術社出版 2021年10月20日)

2021-12-12 15:10:28 | 詩・戯曲その他

時間をめぐる、同時に時を刻む道具をもめぐる詩篇は、時間をめぐるほどに空間を抜け、
有限性と無限性、永遠性を往還する。
時間は私たちにとって抜き差し難いものであり、多くの場合私たちをしばる呪縛のようなものかもしれない。
けれども、同時に、想像力や思念は、時間の物理的な側面を探究しながら常に自由な飛翔を生みだしてきた
のかもしれない。哲学も詩になる。いや、もともと哲学は詩的なのかも。

藤井さんの詩句は、その時間を観念の思念に留めず、イメージと具象を縦横に駆使して、歴史性と非歴史的なもの
神話的なものを横断する。その横断が詩となり、また、そこに自ずと湧きあがる想念も詩になる。
冒頭の表題詩「孔雀時計」。孔雀がとまる。時間に向けて思いが立ち止まる、その瞬間を告げるように。

  宇宙の果てから飛んできた孔雀が
  ひとの部屋に忍びこみ
  金色の置時計のうえにとまる

そして、孔雀はまるで時そのものになるように、時を駆け、時にとどまり、羽根をたたみ、羽根を広げる。時間は
感慨や抒情に封じられずに造型されていく。
そして第2篇、「日時計」。帯にある詩句が続く。

  ひとは見つめる おのれの影を
  知らぬ間に 時を刻みつづける分身
  定めなくさまよう身もこころも
  たしかに 時に捉えられている

しかし、ここから「ひと」は我を越えるように身近な時と壮大な時を往き来する。

詩「マリー・アントワネットの時計」では時計の部品へのまなざしから
「錯乱する雑多なはたらきのうえに/かろうじて保たれる世の秩序の表徴」という詩句が紡がれる。

「アインシュタイン」、「茶席の星守り」の千利休の茶宇宙への想いや菩薩像や苔寺といった建造物への思念などから
詩句が立ち現れてくる。そして、最後の「梅花藻」での川に浮きふるえる梅花藻と時間と我・非我への道程。
最後に置かれたこの詩篇のラストをあえて引くことはしない。途中に配されたこんな部分だけを引いてみる。

  花は流れのそばで不思議に静止して、細かく顫えていた。水流と花
  をしばらく見つめているうちに、ひとつの和音がどこかで響いた。

一冊の詩集を読むうちに過ぎていったものもまた、時間だった。ただ、この時間は立ち去っただけではない。
詩を読み終わるということが、詩と過ごした時間を再帰させる。
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吉田秀和『永遠の故郷 夜』(集英社 2008年2月5日)

2021-11-21 19:54:01 | 国内・エッセイ・評論

再読する。
というのも、リヒャルト・シュトラウスの歌曲「最後の四つの歌」のCDを図書館で借りたからで、
その時に、あっ、そうだと思い出したのだ、この本を。時間を越えてやってくる思い。
『永遠の故郷』シリーズは、音楽が共にあって、これからも音楽が流れつづける時間の中にいるはずなのだが、
いつか訪れてしまう時間の終焉に、でもそれでも、時間が流れつづけるように音楽はそこにあり、あるはずで、
という、そんな音楽への思いを滲ませている。
あのときボクはこの曲を聴いていたなとか、口ずさんでいたなとか、それは、これまでの膨大に積み重なった時間なのだけれど、
一瞬でもあって、そこにはたくさんの思いが漂っていて、でも、いつか音は止まるのだろうか、
いやそれでも、死が訪れても、音は実はあたりまえに流れ続けていって。
だが、やはり、そこでは音楽は消えていき、消えていきながら、その音楽の流れた時間は、記憶は、
それも薄れながらも消えていくようで、なくしそうで、そんな心のふるえが、旋律のように、音のように
空気のふるえに、ゆれになるのだろうな。

吉田秀和の『永遠の故郷』シリーズは、文章自体が音楽のようだ。
自在さや愉しさ、なんだか切ない感じとか、強靱さとか、そんなものがある。
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