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川越大師喜多院 「どろぼう橋」と五百羅漢

2014年04月03日 13時20分29秒 | 寺社


川越大師喜多院に出かけるときは、山門からではなく裏口に当たる「どろぼうばし」とひらがなで書いてある小さな橋から境内に入る。川越市駅や本川越駅から歩いて行くと、その方が便利だし、名前が気に入っているからだ。(写真)

橋の傍らに立て板があって、その由来が書いてある。

江戸時代、境内は御神領、江戸幕府の御朱印地で、川越藩の町奉行も中に入れなかった。ある時、それを知っていた盗賊が逃げ込んだ。

寺男たちに捕まり、寺僧に悪いことがふりかかるぞと諭された。盗賊はそれを知り、厄除(やくよけ)元三大師に許してもらえるよう祈って、真人間に立ち返った。

それが幕府の寺社奉行に知らされ、無罪放免となり、奉公先も世話されて、まじめに一生を過ごした

というのである。

喜多院には元三大師の他にも二人、合わせて三人の大師がおられるので、「喜多院はどの大師を祀っているのか」が気になっていた。

「元三大師」は通称で、「慈恵(じえ)大師」良源のことである。1205(元久2)年の兵火で炎上後、1296(永仁4)年、尊海僧正が再興した時、勧請(お出でを願う)した。喜多院の本堂が「慈恵堂」と呼ばれるのはこのためだ。

正月3日に没したので、元三(がんざん)大師の名で親しまれる。元三大師には、「厄除大師」「角(つの)大師」「豆大師」などの別名もある。

喜多院でも1月3日が初大師ご縁日。名物だるま市が開かれ、多くの参拝客でにぎわう。

一方、「喜多院」と寺号を改めた天海僧正は「慈眼(じげん)大師」で、境内の「慈眼堂」に祀られている。
もう一人は、平安初期の830(天長7)年に喜多院の前身「無量寿寺」を創建した「慈覚大師」円仁である。没後、朝廷から最初に「大師号」を授けられたのはこの人。最後の遣唐僧として唐にわたり、 日本の天台宗を大成させた。

以来、喜多院は天台宗の関東総本山である。

このどろぼう橋の立て札のお陰で、喜多院の大師は「元三大師」=「慈恵大師」と分かった。元三大師は天台密教に通じておられたので、喜多院は「厄除のお大師さま」なのである。

喜多院でもう一つ面白いのは五百羅漢である。

「羅漢」とは、「完全に悟りを開いた修行者」のことである。悟り澄ました、人間離れした顔が並んでいるのかと思ったら大間違い。一つ一つ違った仕草、表情で、いかにも人間くさいのが魅力である。

百面相ならぬ五百面相である。よくよく見ていくと、自分に似た顔も見つかるという。

川越市のシルバーガイドの説明を聞いていると、人気があるランキングは、一位はひそひそ話をしている二人、二位は大徳利でお酒を注いでいるように見えるが、実は灯油を注いでいる二人、三位は腰をマッサージをしている二人の像だという。

十大弟子、十六羅漢を含め羅漢(尊者)は533体、中央の高座に釈迦如来、文殊・普賢の両菩薩、阿弥陀如来、地蔵菩薩と合計538体が鎮座している。

中央の如来や菩薩は、すでに人間を超えた澄まし顔である。

江戸の天明から文政にかけ約50年間にわたって創られた。

喜多院の内部の拝観券と一緒になっているので、時間をかけて丹念に見ると楽しめる。