ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

中華食堂 日高屋

2011年10月17日 13時42分22秒 | 食べ物・飲み物 狭山茶 イチローズモルト 忠七めし・・・

 

埼玉県のなかで、日高市はいつも気になる所である。高麗郷、高麗神社と朝鮮半島の関東地方の拠点だったことや、日本一とも言われるマンジュシャゲの自生地なので、何度も訪れた。

もう一つ気になることがあった。「中華食堂 日高屋」である。東京の山手線や京浜東北線の駅前にはほとんどあるので、行かれた人も多かろう。安くて、腹になり、注文するとすぐ出てくる。

「安さ、ボリューム、スピード」がモットーだ。深夜や早朝までやっているところが多い。生ビールも、キリン一番絞り中生が格安の値段で昼間でも飲める。

勘定を済ませると、次回用の麺類またはライスの大盛か、味付き玉子の半額のサービス券がもらえる。

ある時、「何で日高の名なの。経営者が北海道の日高地方?」と、聞いたら、若い女性店員が「埼玉の日高出身だからって聞いたわ」とのことだった。またも、日高市である。

最近、さいたま市の10周年記念で、さいたま新都心で開かれた「食の祭典」のシンポジウムをのぞいたら、さいたま市長らとともに出席していた日高屋の親会社「ハイデイ日高」(本社さいたま市)の高橋均社長が「今は290店舗を突破(12年2月末で300 19年で400を突破)。年間30店舗程度の新規出店を目指し、首都圏500店舗体制を目標にしている」と話している最中だった。

一昔前、「養老の瀧」が、テレビのコマーシャルで「目標1千店」というコマーシャルをよく流していたのを思い出した。この店は、中卒が多く、「親孝行の店」が売り物だった。貧乏学生だったから、池袋の本店にはよく通った。

偶然は重なるものだ。折りしもさいたま新都心の合同庁舎1号館で「連合大学」が開かれていて、すでに第9期を迎えている。その第一回の講師が、「ハイディ日高」の神田正会長(1941年生まれ)だというから驚いた。(写真)

中卒で、一軒のラーメン屋から東証一部上場会社の会長に上り詰めたこの人の話は、太閤記を聞くような面白さだった。

折りも折り、埼玉県立図書館で「はたらく気持ち応援」というブックフェアが開かれていて、「熱烈中華食堂 日高屋 ラーメンが教えてくれた人生」(開発社)という会長の著書が展示されているのに気づいた。講演で触れられなかったことも書いてあり、大変参考になった。

テレビなどでもよく紹介されるから、その履歴は知っておられる方も多いかもしれない。

父親が満州から胸を撃たれて傷痍軍人で帰ってきて、ほとんど働けなかった。母親が近くの名門「霞ヶ関カントリークラブ」のキャディで働いて、夫と4人の子供、計6人を支えた。

当時の日高村で「一の貧乏」。八畳一間とお勝手に親子6人が雑魚寝、いつも空腹をかかえていた。母親に習って、アルバイトとして、小学校6年から土、日には同じゴルフ場のキャディを務め、家計を助けた。

中学を出るとすぐ町工場に住み込んだ。「飽きやすい性格なので」、すぐ夜逃げならぬ”朝逃げ“。その後、喫茶店、キャバレーのボーイなど15ぐらい職を転々。キャデーをやった縁でゴルフ練習場のレッスンプロや、食い詰めてパチプロをやったこともある。

パチプロ当時、普通のサラリーマンの2、3倍の収入があったというからよほど器用な人なのだろう。

ラーメン屋の出前もやった経験から、朝に野菜など材料を仕入れて夜には現金に変わっている「現金商売」の魅力に引かれた。岩槻のつぶれたラーメン店での働きぶりを見ていた大家が、ほれ込んで銀行への100万円の保証人になってくれ、初めてラーメン店を持った。27歳だった。

夜10時閉店のところを朝2時まで店を開き、にぎわったので、スナック経営に手を出したら見事に失敗した。

次のチャンスは、32歳、大宮駅前北銀座のラーメン屋「来来軒」だった。わずか5坪、回りはソープランド街。8割が出前でソープ嬢に愛された。これが業界では画期的なチェーン店展開の第一歩になった。

早朝までがんばるまじめな社長との定評ができ、銀行からの信用も深まった。埼京線(埼玉・東京線)が開通し、埼玉と東京が結ばれた。銀行の支店長の縁で西武新宿駅前に出店できたのが、株式上場のきっかけだった。銀行だけではなく、ベンチャーキャピタルからも出資を受けられるようになった。

新宿への進出がきっかけで、東京の駅前での出店が増え、今では店舗のうち半分以上が東京だ。正社員約600余、パート、アルバイト(フレンド社員と呼ばれる)約5千人。従業員が多いのは、深夜営業が多いからだ。

「夢は見るものではなく、語るもの」という信念から、毎年1度、社員全員の前で「経営計画発表会」を開き、夢を語る。業界初の週休2日制の導入、ボーナス支給、株式上場(店頭→東証第2部→第1部)もこの席で披露した。

店舗数が増えるごとに福利厚生面を含めた従業員の待遇のレベルアップを図ってきた。「土地は買わないに限る。店舗商売は借りるに限る」と、土地も社屋もない。財産は人だけだからだ。

駅前繁華街の一等地の1階。もちろん家賃は高く、「10軒出して2軒はつぶれる」リスクはあるものの、今の夢は山手線全駅前の出店。12年2月には都営浅草線東銀座駅近くにも出店、銀座進出を果たした。最終的な夢は、「あの店がなくては困る」と言われるような、牛丼の吉野家、ハンバーグのマクドナルドと並ぶ“食のインフラ”になることだ。

12年8月には、3百店舗達成を記念して、期間限定で、生ビール中ジョッキ(それもキリン一番搾り)を税込み300円で売り出し、ビールファンもどっと詰めかけた。