先月発売された”新潮45” 9月号が月刊誌では珍しく増刷されたそうだ。「慰安婦像をクレーン車で撤去したい」このトップ記事を書いたのは、慰安婦問題を捏造した吉田清治氏のご長男。それで今回分ったことは、清治氏は作家でもジャーナリストでもなく、単なる投稿マニアで、反日活動のために利用された人物であったという点。このような荒唐無稽な悪質ロビー活動も、実質的に国家に影響を及ぼす事が出来ると言う、一つの実例である。
戦争を知らない者が知ったような事を言いたくないし、それに加えてこの問題に関する世間のあまりのトンチンカンさに言葉を失っていたのは事実だが、ある2人の人物についてだけは、クリスチャンとして知っておいていただきたいと思う。随分前の話しだが、アタシは従軍慰安婦に関する取材をしたことがあり、その時に、東南アジアで従軍されていた元陸軍兵士の凄まじい体験を、その人の目を見ながら直接伺ったことがある。それはアタシにとってかけがえのない貴重な体験だった。
日本で売春法が禁止されたのは1958年。それまで売春は日本では合法であり、男が街から消え、営業出来なくなった戦争中は、軍隊への出張営業があったことは事実。当然、そういった仕事をしていた女性達のほとんどは日本人(朝鮮人女性は2割り程)であった。
ところが、日本で日本人慰安婦の人権や権利が、今まで社会問題として取り上げられたことはアタシの知る限り一度もない。何故なら、軍による強制連行という事実は存在していないからである。しかし一人だけ、慰安婦として名前が上げられている日本人女性がいる。
彼女は実家の貧困を救うために、自ら台湾の遊郭に身を売り、その後もサイパンなどの慰安所で働き続けた。戦争が終って日本に帰国した後も、堅気の仕事は見つからず、アメリカ兵を相手に身体を売り続ける。しかし、借金返済の目処は全く立たず、麻薬に手を出したり、遊郭で知り合った学生と心中を図ったり・・最後はボロボロになってクリスチャンが運営する更生施設に辿り着く。そこで彼女は聖書と出会うのである。
わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
このルカ1章46-48節の言葉を目にした時、彼女はもう枯れ果てたと思っていた自分の目から、涙が溢れ出るのを止めらなかったという。このマリア賛歌に心(霊)を打たれ、彼女は洗礼を受けてクリスチャンとなった。そして今まで自分の過去に長く苦しんでいた彼女は、牧師に自分の切実な思いを手紙でこう打ち明けた。
「軍隊がいった所、行った所に慰安所がありました。兵隊は列を作り〜死ぬ苦しみ〜何度兵隊の首を絞めようと思ったことか〜半狂乱でした~死ねばジャングルの穴に捨てられ、親元に知らせるすべもない有様。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を。一年ほど前から祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私は耐え切れません。どうか慰霊塔を建てて下さい。それが言えるのは私だけです。生きていても、そんな恥ずかしいこと誰も言わないでしょう。」
兵士や爆撃でなくなっ人々の慰霊碑はあるのに、誰にも知られず、戦場で紙くずのように死んでった女性達の存在を知った牧師は、1985年、千葉県館山郊外の丘の上に、戦地で亡くなった名もない慰安婦達のための慰霊碑 “噫従軍慰安婦” を建てた。これこそが本物の慰安婦慰霊碑である。彼女の名前は城田すず子、慰霊碑を建造したのは、館山市にある社会復帰が困難な女性たちの施設「かにた婦人の村」の創設者、深津文雄牧師。
城田さん(1921-1993)の死後、彼女の体験談を、彼女の言葉にはなかった「性奴隷」という言葉に置き換えて、反日ロビー活動に利用したとんでもない輩がいた。それは城田さんの身の上を知った上で、抗議する遺族や団体がいないことを見越して、城田さんの人生を政治運動に利用した実に卑劣な人権蹂躙であった。
終戦直後のフランスやベルギ-では、ドイツ兵に身を売った女性たちが群衆の前で丸坊主され、見せ物として街中を引き回された。ドイツでは、連合軍の兵士に身を売った女性たちが髪を刈られ、男達に殴られる事件が続発した。朝鮮では日本兵と関係した女性は殺され、米兵と腕を組んだだけでも石をぶつけられた。だが、日本でそういった事件が起こらなかったことは、付け加えておくべきだろう。
人間が人間の罪を裁こうとすると、とんでもないことになる。罪は神によってのみ裁かれるべきものなのだ。繰り返すが、城田さんは自分のことを“性奴隷”などとは言っていない。彼女はただ戦争と貧困という逆境の中を、必死になって生き抜いて来ただけである。もう絶版になっているが、彼女は『マリアの賛歌』と『愛と肉の告白』という二冊の自叙伝を残されている。教会の図書館や、古本屋で見つけられた方は是非、手に取って読んでいただきたいのである。