東日本大震災一周年を迎えて《宗教だより;崇徳高校宗教科T》
2011年3月11日午後2時46分,東北地方を中心にマグニチュード9を超える巨大地震が発生しました。宮城・岩手・福島の東北三県を含め関東地方にも多大な被害が及ぶという大災害でした。死者15854人:行方不明者3155人をはじめ,たくさんの方々が被災されました。当時の映像,特に津波が襲うシーンは,今でも強烈に私の心にのこっています。また,泣き叫ぶ人々の姿や途方にくれ呆然としている人々の姿が脳裏に焼きついています。こんな時,世の無常を思わずにはおれないという人々がたくさんおられると思います。
みな人の知り顔にして知らぬかな
必ず死ぬる習いありとは
『新古今和歌集』にある慈円僧正の歌です。生まれたからには死は必然で,だれ一人この道理からもれるものはいない。皆その道理を心得ているつもりでいるが,本当はだれもわかっていないのだ,と言っているのです。
無情という字の意味は,変化ということです。自然のものも,人工のものもこの世で何一つ変化しないものはありません。形あるものは壊れ,生あるものは死にます。万物は流転するのです。こういう意味で,人の世は無情だと言えなくはないのです。まさしく人間の世界で最も強烈な変化とは,人の死です。肉親や親しい人が亡くなった時,私たちは,おさえてもおさえても尽きない悲しみ,ぬぐってもぬぐっても流れる涙,人生はかくも無情なのだとしみじみ思うのです。しかし,仏教はそんなことを説いているのではありません。
仏教が教える無情とは,言葉は同じであっても内容が異なります。問題は,死がどこまでもひとごとであって,自己の問題となっていないところにあります。花の散るのを見,草葉の上の露を見ても,自己の命の問題に置きかえて,今日ばかりの命であるという絶体絶命的生き方に徹せよと言うのです。人の死を悲しんだり,いとおしく思うだけではなく,死を宣告されたものと同様の心境で,真剣に教えを聞きなさいと言うのです。人間は皆,死あることを知っているのですが,それが背後から突然に私におそいかかる性質のものということを忘れ果てているから,安閑として生きていけるのです。
今一度,私自身の命がいつ,どこで,はかなく終わりを迎えるか,誰にもはかり知ることはできません。だからこそ,一瞬一瞬を大切に生きていくべきではないでしょうか。 合掌
職を離れるため,この稿をもって『宗教だより』の紹介を終わります