料理人の世界では「包丁一本さらしに巻いて」店から店を渡り歩いて修行するというけれど(まあじっさい今時そんな人はいないとは思うが)、身ひとつで渡世を歩む自由業者の人は多かれ少なかれ、そんな感覚を持っているのではないだろうか。
料理人は一年間、同じ店で修行すると四季折々の食材・料理を経験することができ、一回り腕が上がるのだと聞いたことがある。二年目になると一年目の経験があるから、創意工夫もしやすくなるし、段取りも速くなる。一度経験したことは、何であれ次は上手くできるようになるものなのだ(慣れることで緊張感を失ったり、新鮮な目で物事を見られなくなったりするといったマイナス面もあるのかもしれないが)。三年目になると、それをさらに俯瞰できるようになる。ともかくそんなわけで、一年という区切りのときを迎えたとき、板さんA(角刈り、34才)は「あっしにはもうここでは学ぶことはございません」と胸のなかでつぶやき、次の店を求めて、岩場に打ち寄せられた日本海の荒波の、飛沫を身体に浴びながら、風に吹かれて去って行くのである。
翻訳の仕事をしていると、たまに「年間を通じて忙しいとき、暇なときって決まっているのですか?」というようなことを聞かれる。業界としてはいろいろあるのだろうけど、個人が請けている仕事は小さなものだから、あんまりそういう波を感じることはない。波があったとしてもそれはあくまで僕個人の仕事の受注量の増減なのであって、業界全体のそれではない。もちろん多少の影響は受けているには違いないのだが。
つまり、翻訳者は料理人とは違ってそれほど季節には左右されない。たとえばある会社の年次報告書の翻訳を毎年受注しているのであれば、それを個人的にささやかな「季節物」と呼んでもよいのかもしれない。その仕事のコードネームを、密かに「初鰹」にしてもよいのかもしれない。だが、少なくとも僕の場合はそういう毎年お決まりの仕事というのはほとんどない(そもそも、それだけのキャリアがない)。だから、残念ながら板さんのような季節情緒溢れる一年を、ダイナミックに、劇的にすごすというわけにはいかないのである。
とはいえ、最近妙に感じることがある。徐々にではあるが、まったく別の仕事のなかに、以前訳すのに苦労した語や表現、固有名詞が散見されるようになってきたのである。「ああこれは半年前にあの仕事で出てきたよなあ、あのときさっぱりわからなかったけど、やっぱり今もさっぱりわからんなあ」などとつぶやきながら、それでもやはり初めてのときよりは少しは段取りよく、その食材をさばいている自分がいるのである。そういうときは、なぜか「俺も料理人に例えるなら、二年目あたりの段階にさしかかったのではないだろうか」などとやたらと自分を料理人に重ね合わせてみたくなってしまうのである(実際の料理の腕前はまったく上がっていないってことはこの際、言いっこなしで)。
ただ、その進歩は本当にごくわずかである。1000の素材があるならば、何ヶ月かかけてそのうち3つについて調理法を覚える、しかもやや上達した、という程度であって、完全にマスターしたとは言い難い。それくらいの速度・程度でしか腕は上がっていない。ただ、実感として確かに腕が上がっていることはわかるし、逆にそういう地道は小技の積み重ねは一朝一夕ではできないものであると、妙に納得できるのだ。
ただ、進歩はこういう小さなテクニックとは別なところでも発生しているのだと思う。今月本を30冊読んだら、7ヶ月後にそれらが血肉になってなんらかの変化をもらたすのかもしれない。仕事の目標を具体的に強く意識するようになったら、3週間後には心境が微妙に変わっているのかもしれない。さらに言えば、単に年をとって様々な経験を積むことそれ自体が、やはりその人の仕事観にも大きな影響を与えるに違いない。そうしたすべてを、僕は把握することはできない。そしてその変化は毎日本当にごくわずかしか生じていないものだと思うから、自覚するのも難しいのだけど、日々、仕事で直面するひとつの単語や表現のなかに、ささやかな自分の進歩の証を見ることがあるのだ。
だが、その進歩があるのは、毎日一生懸命働くこと、生きることが前提になる。常に薪を割って竈にくべていかなければ、僕という人間の炎はすぐに弱々しいものになってしまう。冷たい雨が降れば、すぐに消え去ってしまう。庖丁人だって、修行をさぼって厨房に立つのをやめたら、すぐに腕は錆びついてしまうだろう。自転車操業、あるいは一輪車操業のように毎日綱渡り的に仕事をこなしているだけの日々が続いてはいるが、我を顧みる時間はあまりなくても、この小さな地殻変動の息吹を、わずかながらも感じることはできる。小さな職人としての成長と同時に、職業人としての大きな変化の胎動をも感じる。その大地の裂け目からわきあがるエネルギーを、いつか、うまく解き放つことができればよいのだけれど。
ちなみに翻訳者にとっての包丁に相当するものとは、やっぱり今時だったら「ノートPC」あたりになるのかなあ? クラウドの時代であると考えれば「ブラウザ」かな?
ノート1台、さらしに巻いて――バッテリーもお忘れなく
===告知===
そぞろ歩きの会6「湯島・本郷編」2/20に開催します。寒い日が続きますが、みんなで歩けば怖くない(^^) 今回は、散策の後、韓国語翻訳者Iさんに解説していただきながらの韓国料理ランチを予定しております。たっぷり歩いて話した後は、美味しい料理を楽しみながら、マッコリで泥酔、じゃなくて乾杯しましょう! みなさまよろしければご参加くださいませ。そぞろ歩きの会のブログに告知を掲載しております。
料理人は一年間、同じ店で修行すると四季折々の食材・料理を経験することができ、一回り腕が上がるのだと聞いたことがある。二年目になると一年目の経験があるから、創意工夫もしやすくなるし、段取りも速くなる。一度経験したことは、何であれ次は上手くできるようになるものなのだ(慣れることで緊張感を失ったり、新鮮な目で物事を見られなくなったりするといったマイナス面もあるのかもしれないが)。三年目になると、それをさらに俯瞰できるようになる。ともかくそんなわけで、一年という区切りのときを迎えたとき、板さんA(角刈り、34才)は「あっしにはもうここでは学ぶことはございません」と胸のなかでつぶやき、次の店を求めて、岩場に打ち寄せられた日本海の荒波の、飛沫を身体に浴びながら、風に吹かれて去って行くのである。
翻訳の仕事をしていると、たまに「年間を通じて忙しいとき、暇なときって決まっているのですか?」というようなことを聞かれる。業界としてはいろいろあるのだろうけど、個人が請けている仕事は小さなものだから、あんまりそういう波を感じることはない。波があったとしてもそれはあくまで僕個人の仕事の受注量の増減なのであって、業界全体のそれではない。もちろん多少の影響は受けているには違いないのだが。
つまり、翻訳者は料理人とは違ってそれほど季節には左右されない。たとえばある会社の年次報告書の翻訳を毎年受注しているのであれば、それを個人的にささやかな「季節物」と呼んでもよいのかもしれない。その仕事のコードネームを、密かに「初鰹」にしてもよいのかもしれない。だが、少なくとも僕の場合はそういう毎年お決まりの仕事というのはほとんどない(そもそも、それだけのキャリアがない)。だから、残念ながら板さんのような季節情緒溢れる一年を、ダイナミックに、劇的にすごすというわけにはいかないのである。
とはいえ、最近妙に感じることがある。徐々にではあるが、まったく別の仕事のなかに、以前訳すのに苦労した語や表現、固有名詞が散見されるようになってきたのである。「ああこれは半年前にあの仕事で出てきたよなあ、あのときさっぱりわからなかったけど、やっぱり今もさっぱりわからんなあ」などとつぶやきながら、それでもやはり初めてのときよりは少しは段取りよく、その食材をさばいている自分がいるのである。そういうときは、なぜか「俺も料理人に例えるなら、二年目あたりの段階にさしかかったのではないだろうか」などとやたらと自分を料理人に重ね合わせてみたくなってしまうのである(実際の料理の腕前はまったく上がっていないってことはこの際、言いっこなしで)。
ただ、その進歩は本当にごくわずかである。1000の素材があるならば、何ヶ月かかけてそのうち3つについて調理法を覚える、しかもやや上達した、という程度であって、完全にマスターしたとは言い難い。それくらいの速度・程度でしか腕は上がっていない。ただ、実感として確かに腕が上がっていることはわかるし、逆にそういう地道は小技の積み重ねは一朝一夕ではできないものであると、妙に納得できるのだ。
ただ、進歩はこういう小さなテクニックとは別なところでも発生しているのだと思う。今月本を30冊読んだら、7ヶ月後にそれらが血肉になってなんらかの変化をもらたすのかもしれない。仕事の目標を具体的に強く意識するようになったら、3週間後には心境が微妙に変わっているのかもしれない。さらに言えば、単に年をとって様々な経験を積むことそれ自体が、やはりその人の仕事観にも大きな影響を与えるに違いない。そうしたすべてを、僕は把握することはできない。そしてその変化は毎日本当にごくわずかしか生じていないものだと思うから、自覚するのも難しいのだけど、日々、仕事で直面するひとつの単語や表現のなかに、ささやかな自分の進歩の証を見ることがあるのだ。
だが、その進歩があるのは、毎日一生懸命働くこと、生きることが前提になる。常に薪を割って竈にくべていかなければ、僕という人間の炎はすぐに弱々しいものになってしまう。冷たい雨が降れば、すぐに消え去ってしまう。庖丁人だって、修行をさぼって厨房に立つのをやめたら、すぐに腕は錆びついてしまうだろう。自転車操業、あるいは一輪車操業のように毎日綱渡り的に仕事をこなしているだけの日々が続いてはいるが、我を顧みる時間はあまりなくても、この小さな地殻変動の息吹を、わずかながらも感じることはできる。小さな職人としての成長と同時に、職業人としての大きな変化の胎動をも感じる。その大地の裂け目からわきあがるエネルギーを、いつか、うまく解き放つことができればよいのだけれど。
ちなみに翻訳者にとっての包丁に相当するものとは、やっぱり今時だったら「ノートPC」あたりになるのかなあ? クラウドの時代であると考えれば「ブラウザ」かな?
ノート1台、さらしに巻いて――バッテリーもお忘れなく
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そぞろ歩きの会6「湯島・本郷編」2/20に開催します。寒い日が続きますが、みんなで歩けば怖くない(^^) 今回は、散策の後、韓国語翻訳者Iさんに解説していただきながらの韓国料理ランチを予定しております。たっぷり歩いて話した後は、美味しい料理を楽しみながら、マッコリで泥酔、じゃなくて乾杯しましょう! みなさまよろしければご参加くださいませ。そぞろ歩きの会のブログに告知を掲載しております。