イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

悪訳よりも誤訳

2008年04月20日 19時41分29秒 | 翻訳について

「悪訳よりも誤訳」という言葉があるということを、近所に住む翻訳仲間から教えてもらった。卑しくも翻訳で身を立てている以上、「誤訳があってもいい」とは言わない。でも、誤訳は発生してしまう。原文の解釈を間違える。それは極力ないほうがいい。だけど、小さな意味での解釈の違いも「誤り」に含めてしまうのならば、誤訳を完全になくすことなどできない。そもそも、誰かが書いた言葉を完全に理解して、別な言語にそっくりそのまま移し変えることなんて、できるわけがないのだ。同じ言語間であっても、無理なことだと思う。Kの言葉をAは聞いてくれる。Aの言葉にKは耳を傾ける。お互い、わかりあえたと思う。心が繫がったと思う。そして、AとKは、お互いの言葉を、人となりを解釈する。でもそのとき、AとKとの理解の間には、かならず齟齬が生まれている。その齟齬は、埋められない。自分と他人が、完全に一体化することなどあり得ない。悲しいけれど、お前と俺とは、同期の桜だ、じゃくて、決定的に違うのだ。生きてきた歴史が違う、価値観が違う、目のつけどころが違う、利き手が違う、年齢が違う。だけど、だから素晴らしい。だからこそ世界には差異が満ち溢れ、多様性が輝きと驚きをもって、僕たちの前に姿を現している。そしてきがつけば、『What a wonderful world』が鳴り響くのだ。

話が脱線した。で、悪訳というのは、誤訳とは異なる。それは、不味い文章だ。不味い訳だ。何が言いたいのかが、読んでもわからない。訳している本人が何を言いたいのかわかっていないのだから、読んでる人に意味が伝わるわけがない。あるいは、訳者はわかっているつもりでも、それが上手く表現されていない。だから、何も伝わってこない。誤読されてしまう。砂を噛むように味気なく、魂の無い言葉。誰も住んでいない家。それは、翻訳という名の死体だ。誤訳だって褒められたものじゃない。だけど、悪訳をするくらいなら、原文の意味を自分なりに理解して、心を込めて訳された誤訳の方がマシ。人に何かを伝えようとして訳す。自分なりの思いを伝える。それが、訳者としての倫理なのかもしれない。あるいは、人間としての。

それでも誤訳はある。その原因は、いろいろだ。原文解釈力、常識力、専門知識、注意力、時間の制約、気力、体力、時の運。ちなみに、スポーツの世界では、試合開始の合図の時点で、結果は決まっているとよくいわれる。つまり、キックオフの時点でどれだけの準備をしてきたかによって、もう結果はわかっているのだ。試合でいくら頑張ったって、練習してなければ勝てるわけがない。翻訳も同じ。今、訳文を作っている時点で、もう勝負は見えている。日ごろの努力の結果が、目の前に現れている。力のなさを嘆いたところで、どうなるわけでもない。でも、だからといって試合を放棄するわけにはいかない。全力で、魂込めて、ボールを追いかけるべきだ。無気力なプレーをすべきではない。

なまじ魂を込めた結果の誤訳は、恥ずかしい。情けない。当たり障りのないことを言っていれば、誰も傷つかなかったかもしれない。気のないそぶりをしていれば、いい人のふりをしていれば、平凡な一日が過ぎ去ったのかもしれない。でも、やりすごし、ごまかし、嘘をついて、他人のふりをする。そうすることで、一体、誰に何が伝わるというのだろう。僕は君を誤解しているかもしれない。だけど、理解したい。もっと知りたい。そして、何かを伝えたい。そして、何かを伝えようとしてくれていたあの日の君の横顔は、本当に、本当に、美しかった。

誤訳したことに気づいて目を覚ます朝にそれでも真実の光

どれだけの言葉を費やしても、目で語りかけても、触れ合っても、誤解は生まれる。でも、精一杯の気持ちで解釈をする。そしてそれを伝えるのだ。魂を込めて。そうすれば、きっと相手は何かを感じてくれるだろう。そうすることが、トランスレータ、つまり僕たち「解釈する人」の仕事なのだ。

最新の画像もっと見る