イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

読めるけど書けない④ 二度目は迷わない

2007年11月25日 22時28分28秒 | 連載企画
「この英単語を知っている」というときには、様々なレベルがある。文字通り、読めばなんとなく意味を想像できる、でも自分では使えない、というあやふやなレベルから、普段の会話や文書の中でときどき思い出したようには使える、頑張れば記憶化から湧いてくるレベル、あるいは完全に自分のものにしていて、正しい発音や語法で、自在にしゃべったり書いたりすることができるレベルまで。

おそらく読めるけど書けないという問題の根本もここにあるのかもしれない。つまり、「読み」にも様々なレベルの違いがあって、読めていると思っていて本当は完全に読みきれていないのかも知れないのである。ここで完全に読める、というのは、読んでいる文章と同じものを書いている自分を、心のどこかでシミュレーションしているような感覚である。

通訳には、リプロダクションと呼ばれる、聞いた言葉をそのまま再現するという訓練方法がある。これをやってみると、いかに自分の記憶や理解が不確かなものであるかということがわかるのだが、自分のボキャブラリーや表現方法のストックにあるものを聞いたときは、上手く再現できる可能性がかなり高まることを実感できる。逆に自分が知らない言葉は聞こえてこないし、知識のない分野の話は、理解をするのが難しい。

もちろん、様々な人が様々な事柄にについて様々な言葉を使って文章を書いているわけだから、それについてすべてを理解するなんて不可能だ。だから常に読む力の方が、書く力を上回るという図式は、よほど特殊な事情がない限り、変わることはないだろう。

たいていの言葉は、インプットされたときにはその場ではなんとなく理解されても、アウトプットの装置に装填されることなく、そのまま通り抜けてただ消えていく。ただし、何度も何度も繰り返し同じ言葉を浴び続けることによって、やがてそれは無意識というプールの中に蓄えられていく。ただし、それはきちんと整理されてはおらず、ラベル付けもなされていない。だから、とっさに取り出すことが難しいのだ。

だから問題は、喉元まで浮かんできているかもしれない言葉、そこそこ「出せる」というレベルにまで熟している言葉を、どのようにして釣り上げ、水面下から引っ張りだせるか、ということになるのだろう。

そして、おそらくは、なんども書くことを繰り返すことによって、言葉を釣り上げる力は上がっていくのだと思う。僕みたいな方向音痴でも、一度目は道に迷っても、二度目はおそらく迷わない。テレビや雑誌で何度も見たことがある場所でも、実際に自分の足で「行く」という行為をしなければ、永遠にリアルな記憶の回路は作られないのである。

(ロジックの迷路にはまりつつ、次回へつづく)

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