イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

アサーションの逆襲

2007年12月25日 23時54分58秒 | 翻訳について
assertという語は、訳しにくいものの一つだと思う。英和辞典には、「断言する」、「強く主張する」というような意味が載っていて、大体の語感はつかめる。だが、いざ訳すとなると、なかなかぴったりした語を選ぶのが難しい。断言にも主張にも、相当する英語はほかにもたくさんある。そのためか、assertの特徴を適切に表す語、というのはなかなか見つけにくい。そして、こういう言葉は、日本語にしてしまうと、原文が何だったのかわからなくなることもある。訳文に埋もれやすい語といえるかもしれない。だから、こういう語は、いつの日かカタカナ語としての道を歩み始める、と思っている。つまり、カタギに日本語になろうとするのをやめて、いっそカタカナというやくざな道を選んでしまったほうが、――良しにつけ悪しきにつけ――自らの概念を的確に表しやすくなるのだ。

Newbury Houseでassertを引いてみると、
1.to claim, say something is true.
2.to put oneself forth forcefully, become aggressive.
と書いてある。1は「何かが正しいということを主張する」であり、2は、「積極的に自分を前に押し出す=主張する」という感じだろう。

このassertの名詞形は、assertionだが、カタカナでそのまま「アサーション」(アサシャンではない)として、コンピューターの世界では、よく使われている。「表明」とも訳され、プログラミング時に前提条件を指定するときなどに用いるのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A8%E6%98%8E

ただし、これまで、カタカナのアサーションが普通の日本語として日常的に用いられることはなかった。ところが、ついにというか、最近コミュニケーションの分野でこのカタカナ語が使われ始めているようだ。これまで、適切な語を与えられることにあまり恵まれなかったアサーションの逆襲が、とうとう始まったのだ。この場合、アサーションは、適切な自己主張のことを指す。
http://allabout.co.jp/health/stressmanage/closeup/CU20050925A/

たとえば、アサーションな自己主張、というのは、攻撃的、独善的に自己主張をするのでもなく、消極的で不十分な態度をとるのでもなく、他者との対話において、適切に自己を主張することをいう。なかなかよい概念だと思う。子供のときから、こういう概念に適切な言葉を与えて教育されていれば、日本人(というか自分)ももっとコミュニケーションが上手くなったのに、と思う。プリプリ。ともかく、他者との気持ちよいコミュニケーションのために、心がけたい考え方だと思う。しゃべりすぎず、しゃべらなさすぎず。

で、翻訳的な観点で考えると、このカタカナの「アサーション」のように、そのまま原語をカタカナにするとう方法は、なんとも芸がないというか、日本語のなかで浮いてしまうというか、とにかく訳者的にはあまりかっこよくない。ちゃんと訳さずに、ズルしたような気がする。それでも、カタカナでないと、このassertionの適切な概念を生のままで表しづらいのもまた事実である。本当であれば、ここで、「主張」でも、「断言」でもない、新しい日本語を作って、assertionに当てはめたいところなのだが、なかなかそれが難しく、こうして日本語のカタカナ語化(ルー語化)は進行していってしまうのか、と思う。

コンピューターの世界では、むしろヘタに和語化せず、カタカナとして使うほうが、英語との互換性が高くて便利、という面もある。たとえば、クリックとかダイアログボックスとかステータスバーとか、ほとんどのコンピューター用語は、和語では表現されていない(その点、中国語はすべて漢字に当てはめるのだからすごいと思う)。

脱線するが、有名な話で、中国語ではLivedoorのことを、「活力門」と訳していて、なかなかそれだけでもよい訳だと思うのだけど、その読みが、「フォーリーモン」になって、つまり「ホリエモン」の韻を踏んでいるのである。最初それを知ったとき、なんて中国人って言葉のセンスがあるんだろうと思った。そして、中国語の翻訳者がちょっとうらやましくも思った。そんな言葉遊びができるなんて、面白そうだと思いませんか?(しかし、逆に言えば毎回そんなことしているのも疲れるだろう。日本語みたいにカタカナに逃げられないし)。

中国語にならってassertionをあえて和語にすれば、「朝潮無」だろうか(あさしおむ、ではなく、なんとか、あさーしょん、と読んでいただきたい)。つまり、元朝潮の高砂親方のような煮え切らない態度をとることなく、周囲と適切なコミュニケーションをしよう! という意味である。え~、ごほん。

ともかく、一般的な日本語では、コンピューター業界のようなカタカナ化は進行していないし、そして、訳者としてはこのカタカナの氾濫を食い止めなければならない、という気もする。実際、こうしたちょっと日本語ナショナリズム的な発想を脇においても、単純にカタカナ語が多い文章は読みにくくなる。ちなみに、翻訳小説では、地名、人名がすべてカタカナになるので、ほかではなるべくカタカナを使わないようにするとよいのだと、S先生は教えてくれた。

とうわけで、いたずらにカタカナ語に頼るのでもなく、頑固に和語に固執するのでもなく、高砂親方のように自由な発想で、assertionな訳を作ること、それが大事なのだ、というあたりを、今日のアサーションな結論としておこう。

追記

アサーションな、はおかしいですね。アサーティブな、でした。失礼

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

荻窪店の隣の新書店で『GOETHE 2月号』

荻窪店で6冊
『地下鉄の素』泉麻人
『地下鉄の穴』泉麻人
『地下鉄の100コラム』泉麻人
『The Taking』Dean Koontz
『Transgressions』Jeffery Deaver/Lawrence Block
『Caught in the Light』Robert Goddard

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (iwashi)
2007-12-27 00:47:33
操作ミスで消してしまいました(T_T)
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Unknown (iwashi)
2007-12-27 10:10:59
Google デスクトップからのキャッシュで復活しました。ありがとうGoogle!
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Unknown (a.ito)
2007-12-27 17:25:55
assertion。「言明」と訳す場合もありますね。この場合、意味としては「主張」ですね。
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Unknown (iwashi)
2007-12-27 23:48:23
兄貴、なるほど「言明」もあるのですね。これはよりassertionらしい感じがしていいですね。たとえアサーションという語が今後日本語化しようとも、それをすべて受け入れるのではなく、言明のような味のある日本語で受け止める術も必要だと感じました。ありがとうございます。
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