おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
今回は、アルフレッド・アドラー(1870-1937、写真)による老齢期論(拙訳)の2回目です。
加齢の時期での神経症者の不満は、たいてい次のとおりです。「侮辱された。人生からほとんど何も得られなかった。二度と何かを成し遂げられない」。それでありながら彼らは、[他者に対しては]「まだまだ意味のあることを成し遂げなければならないかのように行動しなさい」と基準をますます強固にするのです。彼らはいつもいつも、今まで未達成であったこと、これから達成不能であることに執着しています。このことが性的な領域に及ぶと―しばしばのことですが―到達不能な目標のシンボルになります。このような盛り上がる話、猥談とも呼べる性的な虚構に関して過ちを犯さないようにしなければなりません。
もう一つの虚構は、更年期に関することです。女性の更年期は、新陳代謝の具合に関わらず、劣等感を高めることで心理的な影響を与えます。代謝障害が起きると、そのことだけでなく同時に、自分だけが不全感を損なわれると感じて、神経症症状が変わったり、ひどくなったりすることがあり得ます。同様に、「男性の更年期」の神経症のために性機能の低下を直接受けるだけでなく、さらに悪化して「私はもう男ではない。女になってしまった」という信念を持つに至ります。
完全に機能を失ってしまうのではないかと恐れて身体的に老化し、心理的なショックに見舞われる多くの人達にしばしばお目にかかることがあります。女性は、更年期の危険性についての迷信の影響をとりわけ多く受けます。女性の価値が協力する能力の中にあるのではなく、若さと美貌の中にあると思っていた人達は、とりわけ苦しむことになります。そんな人達は、自分たちに向けられた偏見に立ち向かうかのような防衛的で敵意に満ちた態度をとることがよくあり、元気がなくなって抑うつ状態になりかねません。子ども達と共にいて、また、進歩発展を遂げる文化への貢献を意識していて不死を確信している特別な人を除いては、ますます老いるという恐れと死に対する恐れは免れることができません。
本来ならば、人は老いるにつれて、進歩の余地と職業や関心をもっともっと持つべきですが、私達の社会では、丁度逆のことが起きています。私達は、老人達に対して自己を継続的に広げる機会を与えていないのです。だから老人達は、後退したと感じ、いわば片隅に追いやられるかのように感じるのです。これは気の毒なことです。というのは、彼らが働いたり、努力したりする機会にもっと恵まれれば、もっと多くのことが成し遂げられるでしょうし、際限なく幸福でいられるはずだからです。誤った社会習慣のせいで、老人達がまだまだ活動できるにもかかわらず、私達は、彼らをしばしば棚の上に置いてしまっているのです。60歳、70歳、それどころか80歳の年齢だからといって、老人に決して引退を勧めてはならないのです。人生の枠組み全体を変えることよりも、職業を続けることの方がずっと簡単なのですから。
前日から引き続いてのアドラーの老年期論の特徴は、加齢の時期に自分自身の身体的な変化を含めて、ライフ・タスク(人生の課題)が変わることと、周囲の無理解な対応によって彼らが劣等感を抱き、自尊心の低下をもたらすことがあるが、ライフ・スタイルそのものが変わるものではない、とみなしていることです。
そのことをアドラーは「敵意に満ちた性格傾向が顕著になる」と言っています。
これは、アドラーの思春期論と同じで、思春期において子どものライフ・スタイルが変わったように見えることがあるが、思春期特有の状況の変化に伴い、彼らは「自分はもはや子どもではない」とアピールしているので、ライフ・スタイルそのものが変わったわけではない、ことをアドラーは述べています。
後半では、彼らの周囲にいる人達は、老年期にいる人達に引退を勧めることなく、もっともっと活躍の舞台を提供し、彼らに生涯現役でいられる勇気を与える必要性を説いているように思われます。
このことで書きたいことは際限なくあるのですが、また別の機会に。