石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 甲賀市水口町(旧甲賀郡水口町)泉 泉福寺宝篋印塔

2007-01-27 22:41:49 | 宝篋印塔

滋賀県 甲賀市水口町(旧甲賀郡水口町)泉 泉福寺宝篋印塔

水口町の中心部を東西に貫く国道1号沿線は、泉から北脇にかけて最近特に開発が著しいが、もともと丘陵に囲まれた盆地を野洲川や杣川が流れ、河岸段丘上の広い平坦地に水田が広がり、旧東海道沿いに点々と集落が形成され、のどかな田園風景が広がるところである。国道1号線を南に300m程いけば旧東海道が平行している。街道沿いの泉集落の北に日吉神社があり、泉福寺は境内を共有するように近接している。本堂向かって左手に稲荷の小祠があり、その脇に高さ約111cmの宝篋Dscf2934 印塔がある。切石基壇や台座は確認できないが、扁平な角ばった石4個を基礎の四隅の下に敷いてある。上2段の基礎はかなり低く、故・池内順一郎氏は幅を100とした高さの比率、側面で0.49、段を含めて0.69との数値を示されている。側面4面とも輪郭を巻き、格狭間を入れる。格狭間内は素面としている。輪郭は左右幅が広く、上下が狭い。格狭間は輪郭内に大きく表され、左右側線はスムーズであるが、中央の花頭曲線の幅がやや狭く、脚がハ字型になる。塔身は基礎、笠に比較してかなり小さく四方に月輪を平板に陽刻した中に金剛界四仏の種子を陰刻する手法は近江では少ない。東面にキリーク(阿弥陀)が来て、本来東にあるべきウーン(阿閦)は西側に、アク(不空成就)とタラーク(宝生)の南北が逆で、積み直された際に間違ったのであろう。塔身が小さ過ぎ、別物の可能性も残る。笠は上7段、下2段で、軒と区別してほぼ垂直に立ち上がる隅飾は、風化や破損ではっきりしないが二弧のようで輪郭のない素面、小さく低い。相輪は欠損し、風化の程度やサイズが明らかに異なる別物の相輪の九輪以上が載せてある。

茶色っぽい花崗岩製で、表面の風化が進み、全体にざらついてカドが取れてしまっている。素面の小さい隅飾、逓減率が大きく安定感のある7段積の笠の雰囲気は、大和系の宝篋印塔でも鎌倉中期に遡る古いもの、例えば大和郡山市額安寺塔や奈良市正暦寺中央塔などに通じるものがある。ただ近江ではあまり多くないタイプである。一方、基礎が低く、輪郭左右が広く格狭間内素面とする点は弘安8年(1285年)銘の市内岩坂最勝寺宝塔や正応4年(1291年)銘東近江市(旧八日市市)柏木正寿寺宝篋印塔などに似た例があり、やはり古式を示す要素と考えてよい。ただ、格狭間の脚が八字に開く退化傾向ともとれる表現があって造立年代の判断は難しい。塔身が小さ過ぎてバランスが取れないことも勘案すると、基礎と笠も別物で、まったくの寄集めの可能性も完全には否定できない。ただ、石材の色や質感、風化度には統一性があり、いちおう一具のものとみて、あえて鎌倉後期の初めごろのものとしておきたいがどうであろうか。

参考 池内順一郎 『近江の石造遺品』(下) 200ページ

   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』150~151ページ


滋賀県 栗東市(旧栗太郡栗東町)高野 松源院宝塔

2007-01-27 09:59:27 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 栗東市(旧栗太郡栗東町)高野 松源院宝塔

栗東は、宝塔が多い近江にあってもとりわけ優れた宝塔が多く見られる地域である。高野33 は、鋳物師の活躍した古い集落だが、宅地化が進んで、のどかな田園景観の面影は次第に失われようとしている。目指す宝塔は高野神社参道を境内すぐ手前で左に折れ狭い里道の角を曲がると突如として現れる。松源院は高野神社境内すぐ西側に隣接して元神社の別当寺というが、今では住宅に囲まれた小さい境内に小堂一宇と鐘楼があるに過ぎず、無住のようである。宝塔の手前に案内看板が設置され、市指定文化財の木造毘沙門天立像と石造阿弥陀如来坐像(室町)の説明があるがなぜかこの宝塔には一切言及されていない。

花崗岩製の見上げるような巨塔で、相輪を失い、笠の上に層塔の塔身と宝篋印塔の笠を載せている。復元すれば3mは優に超すものであったと思われ、現状で笠上までの高さ217㎝。地面に直接据えた基礎は低く側面は4面とも素面で、四石を“田”字に組み合わせている。ただ割目部に作為を感じないので当初からのものではない可能性も残る。基礎を四石分割とするものはいずれも巨塔で、守山市懸所宝塔、愛荘町金剛輪寺宝塔に例がある。塔身は高く、軸部は円筒形で、下端に地覆に当たる部分を廻らせ、四方に脚が長く大きい鳥居型を陽刻する。この鳥居型の上端から曲線を持たせ亀腹としているが、この曲線部分が塔身全体に占める割合は小さい。軸部は縦に2つに割れているが、これは当初から意図されたもので、背面側の首部との境に逆三角形の破壊穴が穿たれており、内部に大きい空洞を認めることができることから、軸部に03_3 内抉空間があったことがわかる。首部は軸部と別石で、二分割された軸部を挟み込んで乖離するのを防ぎ支える役割を持っている。首部には匂欄を大きく表し、地覆、平桁、架木などを陽刻した手の込んだ意匠である。純粋な首部は無地でやや細い。笠裏は垂木型を表現せず、また別石で斗拱型を挟むこともなく、荒たたきのままとし、首部を円形の枘穴で受けている。笠は全体に扁平で大きく、四注棟の勾配は緩やかでやや直線的。四注には降棟型を削り出している。軒口はそれ程厚い感じは受けず、隅近くでやや反る。笠頂部は降棟から連続した水平の繰り出しがあるのは通例どおりだが、その上の露盤は表現されていない。笠の四隅の内1箇所は破損している。

縦長のスマートな塔身と、扁平で大ぶりな笠が特徴で、手の込んだ匂欄、首部・軸部別石であるのも面白い。屋根の軒の形状や、いくつかの部材を組み合わせた構造が特筆される。銘文は確認できないが、低い基礎、扁平な笠、背の高い塔身はいずれも古い特徴を示し、ユニークな意匠が随所にみられることから、構造形式が定型化する直前の時期が想定でき、小生は鎌倉中期後半ごろの造立と推定したい。ただし川勝博士は鎌倉後期でも古い遺品とされている。

なお、相輪に代えて載せてある層塔の塔身は、舟形背光形に彫りくぼめた中に蓮華座に座す半肉彫で四仏をしっかりと表現しており、立派なものである。その上の宝篋印塔の笠も小さいものではない。いずれも鎌倉後期ごろのものと推定される。

なお、高野神社の社殿玉垣内右手には重要美術品指定の鎌倉時代末~南北朝初期ごろの石燈籠があるので、あわせてご覧になることをおすすめしたい。

参考 川勝政太郎『歴史と文化 近江』85~86ページ