石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市中ノ川町 中川寺跡五輪塔

2008-02-26 00:19:33 | 五輪塔

奈良県 奈良市中ノ川町 中川寺跡五輪塔(伝・実範上人廟塔)

県道から急な坂道を下って雑木林の中を何十メートルか行くと道の行き止まりのところに悠然と建っている。覚盛、叡尊らによる戒律復興運動に先鞭をつけた実範上人の廟塔と伝承され、地元の人の話によると興福寺による年一度の供養が今も続いているという。03側面二区で羽目石に格狭間を刻んだ立派な壇上積基壇の上に、蓮弁がやや高い複弁反花座を置き、五輪塔はその上に建つ。清水俊明氏は花崗岩製とされるが石英粗面岩製に見える(不詳)。無地で無銘だが典型的な鎌倉後期仕様でその特徴を余すところなく発揮する。高過ぎず低からず適度な安定感を持つ地輪、やや重心を上におくが下窄まり感の少ないスムーズな水輪の曲線、厚く切った軒反りは力強く、椀形の風輪、空輪の宝珠形も申し分ない。総高280.cm、塔高190.cm。整い過ぎの感もあり、高い反花座、火輪の軒口中央の直線部が目立つ点、基壇羽目石の格狭間の肩がやや下がっている点など鎌倉後期でも末に近い頃のものと思われる。基壇上には小さい石塔の残欠(空風輪と宝篋印塔の笠)が置かれている。実範上人の没年は平安末の天養元年(1144年)とされ、五輪塔の造立時期とはかなりの開きがある。04五輪塔のある場所は実範上人が開いた成身院のあった中川寺跡といわれ、『招提千歳伝記』によれば天永2年(1111年)に実範上人は中川寺から唐招提寺に移ったと伝えられることから、その開基は12世紀初頭であろうか。平安末期から鎌倉時代にかけて隆盛を誇ったようだが『大乗院寺社雑事記』に文明13年(1481年)本堂を残し寺は炎上したと記載されており、その後再興されたのだろうか、江戸末期まで興福寺一乗院門跡の持寺として本堂や多宝塔などがあったらしい。明治の廃仏毀釈により退転したという。現在は雑木林で他に何も残っていないが、山深い丘陵尾根の南向きの斜面を整地した平坦面が広がり、ところどころ空堀状の窪みが廻っている。平坦地に接する湿地となった谷側はそう高くないが急な崖状になっている。五輪塔のルーツを語る上でよく引き合いに出される五輪塔形陽刻のある神戸市徳照寺の梵鐘(長寛2年(1164年)銘(※これは再鋳銘らしく当初は大治4年(1129年)銘との由である)は、元ここにあったものとされる。五輪塔形のルーツ、そして鎌倉後期に五輪塔が大きく普及する原動力ともなった南都仏教の戒律復興運動のルーツを考える時、ここ中川寺跡は抜きに語れない由緒のある場所である。今となっては往昔を偲ぶよすがも何もかも一切が地上から消えうせた雑木林の木漏陽の下に五輪塔のみが一人黙って建っているだけである。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 290ページ

   平凡社 『奈良県の地名』 日本歴史地名辞典30 655ページ

   元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告書

   近畿日本鉄道・近畿文化会編 『大和路新書別巻1南山城』 綜芸社

妄言:雑木林に一人この伝・実範塔を眺めていると、その整美さゆえか、どこかすかした感じで何やら訳しり顔をしてくすくす笑っているかのようにも感じる。中川寺のことをずっとここで見てきたあんたはさぞかしいろんな事情を知ってるんだろうな・・・。しかしそういうあんた実は平安末期の実範さんには会ったことはねぇはずだろって言い返してやりました。実範さんは、後にここを出て光明山寺で亡くなったそうですが、南都法相系でありながら密教(醍醐寺系、天台も)、戒律、浄土教という気になるキーワードを早く平安末期にアイデンティファイされたキャラ。初期五輪塔を考える上でキーパーソンの一人と睨んでます。