石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 京都市左京区黒谷町 金戒光明寺五輪塔

2012-06-04 01:31:05 | 五輪塔

京都府 京都市左京区黒谷町 金戒光明寺五輪塔

紫雲山金戒光明寺はかつて白川の禅房、新黒谷と称された法然房源空上人縁の聖地で、浄土宗の大本山。今は単に黒谷と呼ばれることの方が多い。03_2境内東寄りの高台に文殊塔と呼ばれる三重塔(木造:江戸初期)が建ち、周辺には広大な墓地が広がる。01墓地の東端近く、生垣に囲まれたT家墓地の一角に古風な五輪塔が立っている。一見して近畿で一般的に見かける五輪塔とは一線を画するものであることがわかる。台座や基壇は見当たらず直接地面に据えられている。地輪下端は少し地表下に埋まっている。凝灰岩製。表面の風化が少なく保存状態は悪くない。福澤邦夫氏のレポートによる法量値は、塔高180.3cm。地輪幅51.5cm、高さ45.6cm。水輪最大径59.2cm、高さ51.6cm、火輪軒幅64.8cm、高さ41.7cm、軒厚は中央で6.5cm、隅で9cm。空風輪高さ41.4cm、風輪径29.4cm、空輪径29.5cm。各部とも四面に陰刻月輪を描き、月輪内に下から「ア」・「バン」・「ラン」・「カン」・「ケン」の大日如来法身真言を薬研彫りしている。梵字には墨の痕跡がある。火輪の軒口はあまり厚くなく、軒反は所謂真反りに近い。水輪は曲面彫成が完全とは言えず若干角張って見える。空輪は最大径が低い位置にあって押しつぶしたような蕾状を呈する。02総じて古風な造形を示す水輪以上に比べ地輪が相対的に小さいのが印象的で、幅に対する高さもある。ただし福澤氏によれば地輪の下端6cm程は表面彫成が粗く、地面に埋け込んでいたか台座の受け座に嵌め込んでいたと推定されており、その分は高さから差し引いて考える必要がある。04周囲は近世以降の墓標、石塔等がところ狭しと林立しているが、中世前期に遡るような石造物はまったくといっていいほど見かけない。現在も連綿と墓地として利用されていることから推測するに、度重なる墓地整理を受けた結果、古い石塔類が姿を消してしまった可能性は高い。しかし、その中でこの五輪塔だけがこのように良好な保存状態で元の場所で残されているとは少し考えにくく、他にも同様の石塔や何らかの残欠等が少しくらい残されていて然るべきであるが見当たらないのは不自然である。また、故Tさんが業者を通じて購入したとの話もあることから、この五輪塔が原位置をとどめているかは甚だ怪しく、石材がこの付近にはないもので、九州阿蘇石系の凝灰岩との見方もあることから、ここから遠くない場所にあったかも非常に疑わしい。加えて寄せ集めの可能性についても考慮する必要があるが、福澤氏によればいちおう一具のものと考えて支障ないとのことである。地輪東面、向かって右上に小さい文字で「天永元年/三月□□」の刻銘がある。天永元年は12世紀初め、西暦1110年である。平安時代後期、鳥羽天皇の御宇である。しかし、この紀年銘には従前から疑義が示されている。業者から購入したという経緯、文字の彫り方がやや不自然で小さいことなどから偽銘・後刻の疑念が払拭されない。福澤氏は各地の古式五輪塔との比較を試みられ平安後期に遡る可能性を排除はされていないものの造立時期については名言を避けてみえる。ちなみに天永元年は改元が天仁3年7月で、天永元年に3月は元々存在しない。形状は古風であるが造立時期についてはやはり謎とするほかない。強いて言えば鎌倉時代中期頃とみるのが穏当のようにも思うが、とにかく何ともいえない。原位置を離れ、業者を通じて取引されるような場合、商品価値を上げるために意図的な改変を受けないという保障はどこにもない。まして経緯や出自が明らかにされないモノは、えたいのしれないモノとして資料的価値がまったく失われてしまうに等しいのである。石造物にとってこれほど不幸なことはない。

 

参考:福澤邦夫 「金戒光明寺の天永元年在銘石造五輪塔-その刻銘の真偽について-

   『史迹と美術』第636号

   片岡長治 第626回例会報告「聖護院・黒谷方面」『史迹と美術』第536号

 

従前から在銘最古とされる平泉の仁安塔より遡ること59年、いちおう最古の在銘五輪塔ということになりますが…???。

天永じゃはなく文永元年くらいが適当じゃないかとも思いますがそれも怪しいです。まぁ大永はないと思いますが…。売り買いされ出自や経緯が明らかにされていないと、このように疑われてほとんど相手にされない。たいへん悲しいことです。こういうことはあってはならないことです。本来あるべき場所にあって保存・活用がはかられてこそ、その価値が最大限に発揮されると信じています。

ところで金戒光明寺の伽藍の中心である御影堂は昭和のはじめに焼失し昭和19年に再建されたもので、川勝政太郎博士の師匠であった天沼俊一博士の設計による本格的な木造建築です。なるほど優れたデザインの蟇股がいっぱい付いてます。当初は火災に強いコンクリートにすべきという意見があったのに対し天沼博士は断固木造とすることを主張され、信頼される当代一流の大工さんを起用され木材の選定からこだわってプロデュースされたとの由です。


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