石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 大津市葛川町居町 観音寺宝篋印塔

2008-12-06 23:38:02 | 宝篋印塔

滋賀県 大津市葛川町居町 観音寺宝篋印塔

比良山系の西、花折断層によるⅤ字渓谷がほぼ南北にまっすぐ伸びる安曇川上流、山深い別天地、葛川は古く貞観元年(859年)に相応和尚が開いたと伝える天台の修験の聖地として今日までその名を知られる。その中心である息障明王院と地主神社のある葛川坊村町の北に位置するのが葛川町居町で、安曇川の西岸、集落の北に少しはずれて観音寺(旧天台宗、現在は曹洞宗)がある。02寛文2年(1662年)、地震による山腹の大崩落で、観音寺から北側にあったという元の町居集落は壊滅的な被害を受け、その犠牲者を弔うため延宝6年(1678年)に再興されたと伝えられる。傾斜のきついトタン葺きの屋根が雪深い気候を物語る本堂の南側に立派な宝篋印塔が立っている。基礎から相輪まで各部完存しており、塔高約197cmある。元は6尺半塔であろうか。自然石を適当に組み合わせて基礎の下に敷いているが、元々のものではなさそうである。花崗岩製で基礎は幅約62cm、上端より下端の幅が1cm程度広い。基礎高さ約44cm、側面高さ約32cmを計る。側面の幅に対する高さの比は小さく、安定感がある。南側を除く各側面とも輪郭で枠取されている。輪郭内は珍しく格狭間を作らず素面としている。南面は輪郭もない全くの素面。輪郭は、束の幅約8㎝、葛約5.5cm、地覆約4.5cm。輪郭内の彫りは比較的深く、羽目は平らに調整せず中央付近が少し膨らんでいる。基礎上は抑揚のある複弁反花式で、左右隅弁と中央の主弁の両側に大きめの間弁(小花)を配する。01塔身受座は幅約40cm、高さ約3cm。基礎北面束部右に「應仁二年□□」、左に「八月十五日」と陰刻されているのが肉眼でも確認できる。また、田岡香逸氏によると、羽目部分にも上下2段8行の15ないし16名分の法名があるとされる。さらに東西の側面にも同様に束と羽目にわたって刻銘があるとされるが肉眼ではほとんど確認できない。これらの法名はスポンサーとして結縁したメンバーと思われる。塔身は側面幅約33.5cm、高さ約34cm。蓮華座上に直径約28cmの月輪を陰刻し、中に金剛界四仏の種子を弱いタッチで薬研彫している。笠は上6段下2段の通例どおり、軒の幅約51.5cm、高さ約39.5cm。軒は厚さ約5.5cm、各段形の高さは4cm前後、頂部幅約23.5cmである。隅飾は軒と区別し、かなり外反しながら立ち上がる。基底幅約16.5cmに対し高さは約14cmで3段目とほぼ同じ高さ。どちらかというと低い部類に入る隅飾である。二弧輪郭付で輪郭内は素面で輪郭の幅が薄い。相輪は、高さ約79cm、基底部つまり伏鉢下端の径約21.5cm。九輪部の8輪目と9輪目の間で折れたのを接いでいる。03下請花は複弁、九輪は逓減が目立ち凹凸はほとんど線刻に近い。上請花はやや風化しているが単弁と思われる。宝珠は先端の突起が若干大きいが概ね破綻のない曲線を描いている。伏鉢、上下請花の曲線もほぼスムーズであまり硬さは現れていない。全体のバランス的には塔身が大きめで笠がやや小さいように見える。04しかし各部の接点となる受座などを見る限りうまくマッチしているので、各部とも当初から一具のものと判断できる。なお、境内には他に石塔や残欠など見当たらず、自然石の上に置かれた様子を見る限り、原位置を保っているようには見えないので、あまり遠くない場所から移築されたものと思われる。昭和41年の川勝政太郎博士の記述によれば、「近年寺の南方崖下から発掘したという」ものらしい。(近年というのは一説に昭和14年とされる。)寛文の災害で埋まってしまっていたのだろうか。一般的に小型化や意匠の退化傾向が顕著になるこの時期の宝篋印塔にしては規模が大きく、基礎の反花や相輪の作りは概ねしっかりとしていて丁寧な出来といえる。しかし、隅飾の形状には年代感がはっきり現れている。2m近い規模で各部揃い、しかも室町時代半ば、応仁2年(1468年)の紀年銘を有する点は貴重である。特に15世紀代で、その後半以前の紀年銘を持つ宝篋印塔は近畿地方では比較的事例が少ないことを合わせて考慮すれば、文化財指定があって然るべき優品である。

参考:川勝政太郎 「近江宝篋印塔の進展」(六)『史迹と美術』368号

   田岡香逸「近江葛川の石造美術」(前)―観音寺と明王院の宝篋印塔―『民俗文化』157号

   平凡社 「滋賀県の地名」日本歴史地名体系25 242~246ページ

法量値はコンベクスによる実地計測なので多少の誤差はご容赦ください。写真上:北東側からみる。手前の隅飾、斜めからみたこの感じ、これが室町時代の隅飾の特長です。写真中右:北西からみる。写真中左:基礎北面のアップ。束の紀年銘は肉眼でもなんとか判読できますが、羽目部分並びに東西面は厳しいです。下手くそ写真なのでわかりにくくてすいません。写真下:相輪の先端アップです。そんなに悪くないでしょ。

なお、葛川明王院には石造宝塔2基、宝篋印塔2基(内残欠1基は未見)、隣接する地主神社にも石造宝塔1基、いずれも鎌倉後期~室町初めにかけての在銘の石塔が集中しています。これらも追々紹介したいと思ってます。ただし明王院は現在堂宇修理中で見学できません、ハイ。基礎東西面の刻銘について、田岡香逸氏は、風化摩滅と調査時間の都合で検討しきれないので後考を俟つ旨記されていますが、その後どなたか判読を試みた方はみえるのでしょうか?文字どおりの管見に及ばぬだけならばよいのですが、藻菌類の侵食と霜や凍結、酸性雨などによる風化摩滅は徐々に進行しています。田岡氏の調査は昭和51年でしたが、30年以上を経た現在はさらに判読が困難になっているものと思われます。祖先の思いや事跡を伝えてくれる貴重な金石文も放置すると永遠に失われてしまいます。痕跡を留めている今の間に保存保護の措置をとるとともに、然るべき立場の方が判読を試み発表されるべきかと思いますが…。


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