石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 東近江市蒲生岡本町 梵釈寺宝篋印塔

2011-08-16 00:24:43 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市蒲生岡本町 梵釈寺宝篋印塔

岡本の集落の東方、近江鉄道を越えた丘陵裾に閑静な佇まいをみせる黄檗宗天龍山梵釈寺。01本尊は観音菩薩座像(重文)。宝髻を高く結い上げた菩薩形だが通肩衣に定印を結ぶ姿は異形で、実は観音菩薩ではなく天台密教系の常行三昧の本尊とされる宝冠を頂く阿弥陀如来と考えられるようになった。08平安中期以前に遡る珍しい宝冠阿弥陀如来の最古の事例として貴重な仏像とのことである。さて、今のお寺は天和年間(1681~1684年)、日野町の正明寺の晦翁和尚により復興が企てられ、時の領主の援助を受けて現在の場所に建てられたらしく、享保年間に黄檗宗萬福寺末となったと伝えられる。岡本町に隣接する鋳物師町にある湧泉寺付近の地名や同寺にあった梵鐘の銘文に寺名が出てくるというからその付近が梵釈寺の旧地だったのかもしれない。また、古く桓武天皇が大津宮付近に創建し鎌倉末頃に廃滅したといわれる同名の古代寺院の法脈を継ぐともいうが詳細は不明。02雰囲気のある山門をくぐり向かって右手の水屋の脇に立派な宝篋印塔が建っている。早くから知られた著名な宝篋印塔で、古く昭和8年に重要美術品の指定を受けている。早く相輪が失われ小型の五輪塔の部材が代わりに載せられていたが近年相輪が発見され、最近再び笠石の上に戻った。塔身の一部や基礎の下端にわずかな欠損があるが完存する。05地面に延石を組み合わせた幅約115cm、高さ約12cmの基壇を設え、その上に基礎を据えている。基壇は平面片隅直角台形の板状の石材2枚を間隔をあけて平行に並べ、隙間を小さい延石で塞いでいる。この小さい延石は最近新補されたものである。基礎は壇上積式で葛、地覆部分の幅約74cm、束部分の幅は約2cm弱小さい。高さ約50cm、側面高は約37cm。各側面の羽目部分には幅約48.5cmの大きめの格狭間を入れ、格狭間内には東面に左に頭を向けた孔雀、南面には交差する散蓮二弁、北面と西面はそれぞれ意匠を変えた宝瓶三茎蓮のレリーフを飾る。基礎上は蓮弁で、隅弁を除く各辺三弁の覆輪付単弁の主弁の間に小花がのぞく。09_3抑揚を抑えてなだらかな傾斜を見せる蓮弁の意匠は優秀である。07塔身受座は高さ約2.5cm、幅約45cm、塔身は幅約38cm、高さ約40cmで高さが勝る。各側面とも月輪や蓮華座を伴わず直に種子を薬研彫する。種子の構成は金剛界四仏だが、東面に「タラーク」、北面「アク」、西面「ウーン」、南面に「キリーク」と方角がおかしい。本来はウーン(阿閦=東方)、アク(不空成就=北方)、キリーク(無量寿=西方)、タラーク(宝生=南方)なのでウーンとアクが入れ替わっている。06_2タラーク面の左右に「嘉暦三(1328年)戊辰九月五日/大願主沙弥道一藤原□□」の陰刻がある。種子は概ね端正だが、タッチに雄渾さが認められないのは近江の傾向である。笠は上5段下2段、軒幅約71cm、高さ約53cm、隅飾は基底部幅約21.5cm、高さ約22cm。軒端から約1cm弱入って立ち上がり先端両側の間の幅は約71cm。04二弧輪郭で輪郭内に平板陽刻した径約5cmの円相を有する。円相内には何やら小さい梵字が陰刻されているようにも見えるが従前から素面とされている。円相に蓮華座は伴わず素面であれば月輪とは呼ばない。10_2上の各段形が高いのに比べると下側の段形は薄い。相輪は付近の水路から偶然発見されたとのことで、石材、サイズともに違和感はなく、別個に保管されていたものが最近、笠上に載せられた。下請花は覆輪付単弁八葉、上請花は小花付単弁八葉、九輪の凹凸は線刻で、伏鉢、宝珠を含め曲面の整形は行き届き、かつ、くびれ部分に脆弱な感じはない。枘を除く高さは約81cmであるから、塔高は約225cmとなる。元は七尺半塔、基壇を含め八尺塔であろう。石材は基壇も含め緻密な花崗岩で、日野町蔵王産のコメ石と称されるものと同じ石材である。最近、相輪を載せ基壇を修理した際に解体されたが塔内及び基壇下には何もなかったとの由で他所から移建されたとの寺伝を裏付けている。規模の大きさに加え、基礎の各側面ごとに意匠を変えた近江式装飾文様の作風は優秀で保存状態も良好。何より鎌倉末期の紀年銘を有する点、こうした基礎上の蓮弁や近江式装飾文様を考えていくための基準資料として貴重な存在である。このほかにも境内には南北朝頃の寄集めの宝篋印塔等がある。

 

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展(四)」『史迹と美術』361号

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   蒲生町史編纂委員会『蒲生町史』第3巻

  

写真左上から二番目:これが出現した相輪です。どうです立派なもんでしょう。鎌倉末の年代に不都合はありません。右上から二番目:隅飾の様子。蓮華座なしの円相。梵字があるようにも見えますが、拓本をとられたであろう先学は素面とされるのでやっぱりそうなのかなぁ。左上から3番目:基礎の意匠、スッキリした単弁反花、壇上積式の側面、凝った交差散蓮に洗練された印象を受けます。右上から3番目:刻銘のあるタラーク面。写真ではわかりにくいですが嘉暦三は肉眼でも確認できます。左下:復興の旨を記した石版が案内表示板の下にあります。

 

文中法量値は例によってコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご寛恕ください。

これまた今更小生が紹介するまでもない著名な宝篋印塔ですね。最近相輪が揃い面目を一新したことは喜ばしい限りです。相輪はいつの頃か失われ、お寺が出来た江戸時代前半によそから移建されたものと仮定すれば、300年以上を経て元に戻ったことになります。もちろん寄集めの疑いを100%払拭することはできませんが、この問題はあらゆる石塔類につきもので言い出すときりがありませんよね。サイズや石材、形状を考慮しても高い確度で一具のものと考えてよいのではないかと思います。それより基壇と相輪復興の事実関係をわざわざ石版に刻んであるのは遠い遠い未来を見据えた深い配慮だと感心しました。重要美術品の現状変更の是非や寄集めかどうかよりも、事実を事実として後世に伝えようとする姿勢が何より尊いことだと小生は思います。

文中にある鋳物師町の湧泉寺(臨済宗妙心寺派)は山号を梵釈山と号し、境内に重文指定の永仁3年(1295年)銘の九重の層塔が残っています。この層塔の刻銘に"興隆寺"なる寺名があり、梵釈寺と湧泉寺、そして興隆寺の関係が輻輳してわかりにくい。現在の湧泉寺の場所には少なくとも鎌倉時代後期頃に興隆寺というお寺があったのが室町時代に廃絶、その跡地に梵釈寺が復興されたが、それも戦国時代末頃までに退転し、その故地に今の湧泉寺が出来、梵釈寺は江戸時代になってから今の場所に再興されたという考えも示されているようですが、どうなんでしょう…?。やっぱりよくわかりませんね。ただ、石造物がこうした謎を紐解く資料のひとつになりうることだけは確かでしょう。

なお、梵釈寺のご住職には丁寧な説明をお聞かせいただき、お茶までご馳走になり恐縮至極でした。突然の来訪にかかわらずたいへん親切にしていただきこの場を借りて御礼申し上げます。


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
 いつも拝読させていただいております。 (ほあぐら)
2011-08-19 18:59:55
 いつも拝読させていただいております。
 小生も先般、蒲生の梵釈寺を訪問したばかりでしたので、いつになく
嬉しく思われたものですからコメントを投稿した次第です。
 不勉強な小生の記事と比べ、きっちりと文献を読んでおられることに
敬意を表します。
 「自分の目で見て感じる」をモットーに、石造美術にも接してきたので
すが、歴史的な事実以外にも余りにも知らないことが多く、肝腎なこと
を見逃してしまうことが多いのに気付かされています。
 今後とも宜しく御指導ください。
返信する
コメントを頂戴し有り難うございます。 (猪野六郎)
2011-08-20 01:40:05
コメントを頂戴し有り難うございます。
等閑視されがちな石造物の価値を少しでも発信したいというのが小生の思いですので、ほあぐら様のサイト、常々敬意を抱きながら拝見させて頂いておりました。お言葉を賜り恐縮しております。小生ほんの駆け出し者で、見られた数が比較になりませんが、小生も訪問後に接した文献で見落しが判明し再訪するということがよくあります。文献をあたるのは、関連情報の収集が一番ですが、見落しの防止、ひとりよがりになってないかのチェック、環境の経年変化を知る等のメリットがあります。小生の場合、寂しがり屋なのかもしれませんが、先人の労苦をしのび、石造美術に対する思いを先人と共有できるというのもあります。一方で予断や先入観から新鮮なワクワクドキドキ感が減り気味になるデメリットもあります。ともあれ石造美術へのアプローチの仕方に正解はなく、石造美術の価値を自分の目で確認するのは同じだと思います。拓本や実測図、写真といった二次的な媒体では絶対伝わらない迫力や雰囲気が実物にはあります。それはやはり理屈ではなく感じるものだと思います。長々放言失礼しました。一石造ファンとして貴サイトの益々の充実をお祈り申し上げます。また、今後ともご愛顧ご指導賜りますようお願いいたします。
返信する
はじめまして (岸田)
2013-03-14 17:58:34
はじめまして
随分たってしまいましたが、当時修復に関わった青年部に所属していたものです。

相輪は、移転時にうっかり川に落としてしまい、引き上げられなっかのではないかという話が出ていました。
当時、相輪に梵字があるという話も部員が指摘し、確かにありました。
拓本は向きが判明していない、それ以前に取られたものじゃないでしょうか?

基礎は、解体してみたら元は1つの石を、2つに割ったものでした。
大きな矢穴が裏面に残っていましたよ。
返信する
岸田 様 (猪野六郎)
2013-03-14 21:48:10
岸田 様
 コメントを頂戴しありがとうございます。
 宝篋印塔の修復に携わられたとの由、小生のごとき者も、その恩恵に与って美しく修復された宝篋印塔の雄姿を拝することができ、ひとえに皆様のご尽力のおかげと感謝いたしております。
 相輪に梵字というのは、聞いたことがありません。隅飾輪郭内の円相内の梵字でしょうか?近江の宝篋印塔は隅飾内に蓮座月輪を平板陽刻し、内に梵字を陰刻するのが本格です。梵釈寺塔のような優品であれば、隅飾内の円相(月輪)に梵字がある方が自然で、無い方がおかしいくらいです。
 石塔に刻まれる梵字の多くは、仏尊のイニシャルのような「種子」で、例えば阿弥陀如来は「キリーク」、地蔵菩薩は「カ」や「イー」等です。この種子を判読することによって尊格の特定が可能となり、その尊格の性質から、造立者の信仰のあり方を類推することも可能になるわけです。
 また、石を割る時にできる矢穴から石材加工の技法が推測でき、それに基づいてある程度の造立時期の指針にもなりえるという研究もあるようです。
 なお、梵釈寺塔の解体修理に際して詳しく観察された兼康保明先生が、基壇石について、近年、高志書院というところから出版された藤澤典彦編『石造物の研究-仏教文物の諸相-』という書物の中に「中世の花崗岩加工技術-近江・蔵王産花崗岩を例に-」という論考を載せておられてましたね。
 長々無駄口を弄してしまいました。すいません。
 祖先の思いを伝える石の造形であり、身近でかけがえのない歴史資料である石造美術は、まさに近江が全国に誇りうる地域資源だと思います。こんなにもいたるところに古い石造物がゴロゴロしているところは他にないと思います(それに引きかえ小生の住む地域の古い石造はまったく閑散たる有様で、羨ましい限りです…).。
 近江においても、とかく等閑視されがちな石造美術にもっと光が当てられ一層大切にされていくことを願ってやみません。
 今後ともご愛顧・ご教示賜りますよう、お願いいたします。 六郎敬白
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。