(大川をゆく遊覧船)
明けましておめでとうございます。
2024年も、よろしくお願いいたします。
…… もう2月でした。
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<大阪ウォーキング>
大阪の中之島は、私のウォーキングコースの一つ。
現役で働いていた頃、大阪の街並みには関心がなかった。京都や奈良や、いっそ遠く信州の山や高原へ出かけた。冬はスキーとか。
しかし、仕事をリタイアした今、例えばカルチャーセンターの講義を聴くために大阪に出たとき、「勉強」の後は大阪の街をウォーキングする。
古寺、古社が多く、自然も残るわが大和国を歩くのもいいが、高層ビルが建ち並び、多くの人々が忙しそうに行き交う都会の街を、キョロキョロとあれやこれやに興味をもちながら歩くのは、脳の活性化に良いそうだ。
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<大川から中之島へ>
毛馬洗堰(ケマ アライゼキ)で淀川の本流から分かれた大川は、南流して、大阪城の手前で大きく西へカーブする。
そこまでの間、大川の両岸は「毛馬(ケマ)桜ノ宮公園」と名付けられ、春は桜の名所の一つ。
もとは、この大川が、淀川の本流だったそうだ。
地形上、大川は上町台地の北端(そこに大阪城がある) にぶつかって向きを西へ変え、まもなく天満橋の下をくぐる。
橋をくぐると、すぐに中之島の東端にぶつかり、流れは二つに分かれる。
(大阪中之島の東端)
川は名を変え、島の北側を流れるのが堂島川、南側を流れるのが土佐堀川である。
こういうことは小学生のときに学習する事柄かもしれない。だが、他郷で生まれ育った人間には、「あれが淀川、こちらが〇川と△川」などと耳にしても、どうも頭に残らない。全部、淀川になってしまう。子どもの頃に勉強し、しっかり身に付けることは大切なのだ。
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<中之島の遊歩道>
堂島川と土佐堀川にはさまれた中之島の島の幅(南北)は、広い所でも300mほどしかない。しかし、長さ(東から西へ)は約3キロもある。
パリの発祥の地・シテ島の長さは1キロ程度だから、サン・ルイ島と合わせても、大阪中之島にはとても及ばない。川中島としては、なかなか堂々たる島なのだ。
シテ島がパリの要であるように、中之島は日本第二の大都市である大阪市の中心に位置し、大阪市役所も、中央公会堂も、美術館も、児童文学館も、フェスティバルホールも、明治の建築である日銀の大阪支店も、薔薇公園も、高級感あるホテルやレストランもあって、並木の遊歩道がずっと続いている。
(中之島の遊歩道)
大阪の街は縦(南北)に長い。その街に、2本の川と中之島が横に3キロに渡って横たわっている。
それで、中之島と2本の川の上を、御堂筋をはじめ主なものだけでも7本の道路が縦(南北)に走り、14の大橋が架かっている。さらにやや小型の橋や人間しか渡れない小橋などもあって、ずっと遅れて敷設された高速道路の橋以外は、一つ一つに大正、昭和の趣がある。
さて、東端から西端までの3キロの遊歩道を、一気に散策しながら歩くのはちょっとしんどい。どちらから歩くにしろ、地下鉄の駅から歩き、さらにまた地下鉄の駅まで歩かねばならないから、3キロにプラスαである。
東端の最寄り駅は「天満橋」(地下鉄の谷町線)で、西端は「阿波座」(千日前線)である。
真ん中あたりに「淀屋橋」(御堂筋線)或いは「肥後橋」(四つ橋線)があり、このいずれかを一方の起点にして、二つに分けて歩くと、ほどよい距離になる。
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<渡辺の津>
東端の天満橋の下流辺りは、昔、渡辺の津と呼ばれた水運の要衝で、渡辺党という一族が支配し栄えていたらしい。もともとこの流れが淀川の本流だった。そういう説明が川岸に設置されたプレートに書かれている。
それで思い出した。渡辺党の祖には、平安時代、大江山で鬼退治をした清和源氏の頭領・源頼光の四天王の一人、渡辺綱がいた。
源頼光の四天王には、もう一人、有名人がいる。坂田の金時。少年時代、足柄山で熊と相撲をとって投げ飛ばしたという伝説の持ち主である。
渡辺綱にも、大江山の活躍以外に、伝説が伝わる。
夜、平安京の暗い大路を (当時は、月明り、星明り以外は、まことに真っ暗闇だった) 騎馬で行っていたとき、「渡辺の綱!!」という大音声とともに、いきなり巨大な手が空から伸びてきて、綱の後ろ襟をつかんだ。綱はとっさに太刀を抜いて、背後を斬り払った。
翌日、大路に巨大な腕が転がっていたという。
子どもの頃に少年読み物で読んだ話が、このウォーキングコースと結びついた。
この辺りにはカフェ・テラスがあり、水際の風景を楽しみながら、ちょっと一杯もできる。いい気分だ。
(カフェのテラス席から)
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<中之島の中央公会堂>
クラッシックな造りの淀屋橋の上流に、赤レンガ造りの中央公会堂がある。今は国の重要文化財に指定されている。近くには、これも年代物の中之島図書館もあり、ちょっと新しい市庁舎もある。
この公会堂は大正時代に、一人の実業家の寄付で建設された。
(大阪市中央公会堂)
私がまだ若かった頃はスクラップ・アンド・ビルド、大量生産・大量消費の高度経済成長の時代で、この中央公会堂もスクラップして、新しく鉄筋コンクリートの効率的なビルを建設しようという動きがあった。そういう動きは巨大で、うねりのようであった。
詳しいことは知らないが、このとき、静かな運動が起こった。
運動の中心にいたのは、私と同世代の若い建築家や建築家の卵の男女。当時、勢い盛んだった労働組合や革新政党の旗や幟や大音量の拡声器の声はなかった。彼らはいつもごく少人数で、淀屋橋の上などで、道行く人にビラを配り署名を求めていた。人数は少くとも、知的な雰囲気があって、新鮮だった。
息の長い運動が実り、中央公会堂だけでなく、この辺りの幾つかの歴史的建造物が、補強工事されつつ残されることになった。
そういうこともあって、今の中之島の景観がある。
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<現代的なビルの景観と歴史の継承と>
都市美は、川の流れと、ビルのたたずまいと、樹木の緑との、ほどよいバランスにある。
戦後の粗製乱造のビルも徐々に建て替えられ、高度経済成長の時代も終わって、新しい価値観が大阪の景観を創るようになった。
(肥後橋付近)
上の写真の左手、黄土色のビルは三井住友銀行大阪本店で、大正から昭和の初めにかけて建てられた、この界隈では古いビルである。今ではもう大きなビルとは言えないし、少々古びているが、クラッシックで品があり、街並みに溶けこんでいる。
その右隣の背の高いビルは、大同生命ビル。効率主義の現代的なビル建築の中で、堂々として、かつ、エレガンスである。
近づいてみると、玄関付近もかなり凝っていて、その装飾的な造りはやり過ぎと思われるほどだ。多分、おカネがかかっている。
効率主義一辺倒ではなく、また、奇抜ではなく、こうした品格のあるエレガンスな建物を建て、大阪の街を美しくしてほしい。大正時代にあの中央公会堂を寄付した大阪の一実業家の心意気を見習ってほしいものだ。
(大同生命ビル)
さらに西へ歩けば、福沢諭吉誕生の地の記念碑もある。
(福沢諭吉誕生の地)
このあたりに九州の中津藩の蔵屋敷があった。中津藩は維新とともになくなったが、下級武士の子としてここで生まれた福沢諭吉の名は、こうして記念されている。
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<島の西端の風情>
中之島の西端に近づくと、ほのかに下町の風が頬に感じられる。土佐堀川の川岸には、この辺りが宮本輝の「泥の河」の舞台だったという説明板も立っている。
中之島の西端で、堂島川と土佐堀川は合流して、また名を変え、安治川となる。
(中之島の西の突端と船津橋)
川幅は一気に広くなり、河口が近いことが感じられた。
中之島の島の突端はコンクリート製の半円形で、それが船の舳のように望まれた。
二つの川が合流した安治川の右岸には、大阪中央卸売市場がある。その前の川岸は、かつては荷揚げ港だった。日本各地の港々から積まれた特産品がここに集積され、商都大阪の殷賑の源の一つとなった。
そういう種類の船ではないが、今も2、3艘の船が係留されて、波にたゆたっている。
川岸近くの石の階段に腰掛けて、中之島の突端を眺めていたら、「たゆたえど、沈まず」…… 。ふと、パリのシテ島のとん先、ヴェール・ギャランを思い出した。
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<国の都のこと>
セーヌ川の川岸一帯は、ノートルダム大聖堂が聳えるシテ島やサン・ルイ島を含めて、世界遺産に指定されている。パリという街の美しさは、セーヌの流れとともにある。
(シテ島のとん先。ボン・ヌフ橋とヴェール・ギャラン公園)
パリの歴史は古い。
紀元前、シテ島には、セーヌ川で漁労や河川交易を営むパリシィ人(ケルトの一族)がいた。パリの名の由来である。
BC1世紀、ユリウス・カエサル率いるローマ軍がパリにやって来た。
ローマ軍は、シテ島とセーヌ左岸に、道路を敷設し、水道を引き、劇場や共同浴場を建設して、小規模ではあったが、街(文明)を造った。
AD5世紀、西ローマ帝国が滅亡して、時間は逆流したように混迷の時代に入る。
6世紀の初頭、新たにゲルマン諸族の中のフランク族の王メロヴィング家のクローヴィスが侵攻してきた。ローマ時代に既にキリスト教化していたパリの住民にとって、幸いなことに、クローヴィス王はカソリックに改宗してくれた。
フランク王国は、カロリング家に代替わりしてさらに発展し、西ローマ帝国を引き継ぐような大国になった。ただし、王都はなかった。王はゲルマン風に諸国を巡りながら国を治めた。カロリング家の本貫の地はドイツ側にあった。
やがて、フランク王国は3つに分裂し、今のフランス、ドイツ、イタリアの原型ができ上がった。
987年、西フランク王国(フランス)のカロリング王家が断絶した。諸侯はパリ伯であったユーグ・カペーをフランス王に推挙した。ただし、パリ伯の領地はパリとパリ近郊部だけだった。自ずから、パリがフランス国の王都となった。王権がフランス全土に及ぶようになるのは、先のことである。
大和の大王家も、代替わりするたびに居を移したようだ。大王家の宮(ミヤ)がある所が都(ミヤコ)である。そういう意味で、大阪に初めて都(宮のある所)が置かれたのは、AD5世紀の前半である。
その場所は、中之島ではない。
「オホサザキの命(※仁徳天皇)、難波(ナニハ)の高津(タカツ)の宮にいまして、天の下を治めき」(古事記)。
「オホサザキの尊、即天皇位す。…… 難波に都をつくりたまふ。こを高津の宮とまをす」(日本書紀)。
高津の宮が、難波のどこにあったか、正確なことは定かではない。
当時、海は、袋のように内陸部深く入り込み、そこへ淀川と大和川が多くの支流をつくりながら流れ込んでいた。上町台地が半島のように南から北へ伸びて、その先に難波の津があった。
大王オホサザキは、海に向かって開く難波に宮をつくった。そこから、瀬戸内海を経て、北九州、そして大陸へ。「倭の五王の時代」とも呼ばれる時代である。
(古墳時代の倉庫の復元)
上の写真は、もう少し後、5世紀の後半にこの辺りにあった16棟の巨大倉庫群の復元である。ただし、縮尺20分の1で復元されているから、この20倍の大きさの倉庫群が並んでいたことになる。大陸から運ばれてきた品々が収納されたのだろう。
さて、当時の淀川に中之島があったのかどうか、あれば、どんな姿だったのかは、わからない。
安治川の流れを見送りながら、一度、河口まで歩いてみたいと思った。もちろん、現代の河口である。
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