「いくさんのお部屋」つぶやきNo.3

日頃の何気ない日常をつぶやいています。

地震あれこれ

2005-03-22 21:10:01 | 登山
まるで、私の状況を察知したかのように、九州の山への計画は壊れてしまった。
原因は福岡の地震と私の歯痛だが、これもモチベーションの低さの表れか?

まだ余震が続いているという。福岡の人たちは恐いだろうなぁ~。
阪神大震災の時は、私の家からはだいぶ離れているにもかかわらず、地震の恐怖もさることながら、家族が出払ったあとの余震に一人で怯えていた。
そういえば、2000年8月10日から13日まで穂高に行ったときは入山から下山まで、グラグラと地震に揺らぐ穂高連峰だった。その時も、地震と雷の恐怖に怯えながら、雨の中の白出沢から下山中、転んで怪我をしたなぁ~。
私は、本当は恐がりなんだ。

若い頃、しばらく東京に住んでいたが、やっぱり独りで住んでいると地震が恐かった。東京は地震が多いところだなぁ~、と思っていたっけ。
しかし、今回の福岡は絶対地震が起こらないところと言われていたらしい。これからは、「絶対」というのは信じないことにしよう。

今回は中止したが、立てた計画は残っている。
今度はアケボノツツジが見頃の頃に、チャンスが訪れるといいなぁ~。

歯痛

2005-03-21 10:50:57 | 健康
昨日は、歯痛ながらもハイキングに参加してきが、今日はさすがに家でおとなしくしている。まだ、歯ぐきがズキズキ痛む。
私の病名は「根尖膿瘍(こんせんのうよう)」この名前がわかったのが先週の金曜日18日。京都の大学病院に行ってやっと判明。痛くて噛めないと訴えてから約一ヶ月我慢していた。その間、他の医者にも行った。
ネットで見たら、けっこう一般的に起こる病気らしい。「なのに、なぜ???」と言いたい!!
大学病院でレントゲンを見ながら説明されたことが、ネット検索でも出てきた。「根尖膿瘍とは虫歯が進み、中の神経も死んで根の先に病気が進んだときに急性発作を起こした状態です。この場合も歯ぐきから膿の逃げ道を求めます。」ということだ。
治療が長引くということなので、最初の医院で治療を受けることになった。
今までの経緯を話すと、院長先生自らの診察治療を次の日の土曜日にしてもらえた。そこで、被せてある金属を外して削ったら、膿が上がってきたという説明だった。
しかし、まだ痛む。すでに最初の歯の治療(これは反対の歯)を初めてから2ヶ月経つが、その時よりかなりひどい。
しかし、院長先生の予約は1ヶ月先までいっぱい。その間の治療は前の先生が引き続き、院長先生と二人での治療となった。
こんなことになったのも歳のせいにはしたくはないが、前に治療済みのところがどんどん悪くなっていく。奥歯はガタガタ。まだまだ入れ歯には早いと思っていたが、こんなことでは人ごとでは無くなってしまう。
さすがに奥歯が噛み締めない状態でのクライミングは出来そうもない。
噛み締めたところで、痛いだけ。あ~ぁ、歯のいい人が羨ましい。
しばらくは、これから良い季節なのでSさんのおっしゃるとおり、お花や新緑に会いに山に行くことにしょう。
でも、ますます登れなくなってしまうだろうなぁ~~~


春の妖精セツブンソウ

2005-03-20 20:03:46 | 人間
昨日、滋賀県近江のSさんから「山で可愛らしい花に出会えるとそれだけで心まで暖かくなります、いくさんも花たちに会いにいかれては?きっと元気が出てきますよ。今日は元気の素に節分草(春の妖精)の写真贈ります。」というメールと一緒に可憐な節分草の写真を送っていただいた。
そういえば、花を贈られると大概の人の顔には笑顔が浮かぶ。私はsさんからの、このプレゼントがとても嬉しかった。
お花は心を癒してくれる。なのに、最近病院で切り花を飾るのを禁止したというようなことが少し前のTVニュースでやっていた。
それは、花瓶の水が腐って感染症などの病原菌が繁殖するということらしい。これは、本当なんだろうか? もしも本当なら寂しいことだ。私は、お見舞いには必ずお花を持っていっていた。やっぱりお花のプレゼントは、気分的にも癒される。

最初に藤原岳で出会った、とっても小さな可憐なセツブンソウを思い出す。それは、写真を撮っている人を見ないと、通り過ぎてしまうほど小さな花だった。枯れ葉のなかから健気に顔を出していた。この時に藤原岳でお会いしたsさんのことも…。人の優しさにも元気付けられる。
今日は、久し振りの京都山の子会のハイキングだった。ここでも優しい思いやりに癒された。
まだ、歯は痛むが、気分は快調になってきた。

  



劔岳・点の記

2005-03-19 21:39:31 | 登山
古本屋で見つけた「劔岳・点の記」新田次郎著(文藝春秋)を興味深く読んだ。
明治40年測量隊が立山周辺の山の測量に入り、剱岳に苦労して長次郎谷から初登を果たす。しかし、頂上では古い錫杖の頭と剱が見つかり、人の入った形跡が洞窟の中にも残されていた。
この時代の立山信仰のことや、歩いたルート、そして当時の山の装備など歴史的事実を踏まえて書かれた小説だけに納得できおもしろかった。また日頃何気なく見ている国土地理院の地図が、こんなにも苦労して作られていたことも改めて知った。
立山や剱はいろいろ思い出深い山だけに、感慨深いものがあった。1997年には、初めての剱の頂上に登り一旦雷鳥沢に戻り、雄山からザラ峠・五色ヶ原まで、縦走。そして越中中沢をピストンして黒部に降りた。
この時は剱沢では、かなりきつい台風を体験して、本来の予定は薬師岳までの縦走だったが、大幅に変更せざる終えなかった。(この時のことは、「山への想い」に書いている)剱という山の厳しさの、初体験だった。
この本を読みながら、それからも何度か行った剱のことが思い出されて来た。
そして、何よりも剱や立山にはまだまだ私の知らないところや面白い話がいっぱいあった。特にザラ峠から常願寺川の方にくだって行くと小説に出ていた立山温泉の廃墟に出会えるという。ここは、かなり好奇心が湧いてきた。ネットで調べたら、かなりの情報があった。
そしてもう一冊、夫が古本屋でずっと前に買って家の本棚に見捨てられていた古くて汚い本が、この「劔岳・点の記」を読み進むにつれて、日の目を見た。
この本は、昭和14年発行された。著者は「小笠原勇八」で、東京都岳連の初代理事長だったという。本の最後の綴じ込みの立山の概念図を見ると、アルペンルートがなかった時代ということもあり、より私の興味をそそった。
明治40年から昭和14年の間に、かなりの登山道や小屋が出来たことになる。それは、「劔岳・点の記」に出てくる、小島鳥水の日本山岳会と剱岳の初登を競い合っているように日本山岳会の貢献が大きい。このころから宗教的な登山から近代登山の幕開けとなっている。これも私には興味深かった。
この二冊の本からは、まだまだ好奇心が湧いてくる。
今年の夏は、「これだ!!」と思った。