「いくさんのお部屋」つぶやきNo.3

日頃の何気ない日常をつぶやいています。

今日も雪がちらちら

2008-02-27 22:55:41 | 健康
昨日は車検で京都に行ったついでに友人と北山へハイキングに行く約束をしていたが、あいにくの雨で中止となり、急遽昼食を一緒にすることになった。
そして、もう一つついでに最近調子の悪い私のMacも修理に持っていった。なんでもついでに片付けようということになると慌しい。
慌しい日々を送っていて疲れたのか、また腰や目の奥が痛かったり頭痛がしたりと危険信号が点滅している。
それでも今日、ホシダに行った。春はまだまだ遠く、今日も雪が降って寒かった。こんな日はやっぱり調子が出ない。やっぱり、かなり疲れてもいるようだ。
ちょっと、忙しくしすぎかな…。
こんなときは、おもいきり寝るに限る。


雪の高見山

2008-02-25 11:56:38 | 登山
2月も終わりになって来た。なのに雪が珍しいこの辺りでも雪の日が続いている。こんな日が続くとさすがに、岩場への足が遠ざかり、星田へ日参する日々となってしまう。しかし、昨日のように寒いと星田でもやる気は出ない。昨日の申し込みは30名近くあったそうだが、実際には十数名と少ないのは頷ける。
土曜日は、樹氷で有名な高見山に登って来た。十年ほど前に一度行ったことがあるのだが,吹雪だったというだけの記憶しか残っていなくて、どこから入山したのかも定かでなかった。
ところが帰ってから,自分のHPで探してみたら1998.2.8の日付でちゃんと報告を書いていた。
先にこれを読んでいたら、平野から入っていただろう。しかしそんなことは全く考えなかった私は、今回は杉谷から入った。冬場はこの平野から入るのが、正統派のような…。地図上のコースタイムも15分程短縮出来る。
しかし、杉谷にも車は5-6台路駐されていて,私たちが着いた頃にはもう登り始めていた人を見かけた。
登り始めはほとんど雪がなかっが、中峠の手前辺りから雪が積もっていた。頂上に近くなると,刺すような風がほほに当たって痛い。久しぶりのアイゼン歩行は、足も重かった。
頂上では前に行ったときの記憶と同じで、やはり吹雪だった。避難小屋は人でいっぱいだっが、わずかの隙間に潜り込みラーメンを作った。温かいもので,生き返った心地がした。
帰りは大峠への道を下ったが、この道はほとんど無風でなだらかなスロープの歩きやすい道だった。ちょうど高見山が風よけになってるのだろう。視界も開けて,薊岳、国見山、池小屋山が見えていたようだ。
高見峠(大峠)には、立派な駐車場もあるが雪の下だった。1台車が停まっていたが、この時期に車でここまで来るのはちょっと大変そうだ。
雪道を道路を小峠まで歩き、杉谷の車に戻った。下山途中から降り出した雪は大雪となった。たかすみ温泉に向かいながら、今頃山は大荒れだろうなぁ、と思った。雪景色の露天風呂は最高に良かった。帰り道でも木々に光っている雪はが真珠のように輝いて美しかった。
本格的な樹氷はもう過ぎ去ってしまったようだが、思わぬ寒波で雪山を堪能出来、得した気分になった。

高見山の写真へ

ご先祖さま

2008-02-18 23:22:54 | 雑感
私の実家の仏壇を、「洗い」に出すことになった。大正元年に私のひお婆さんの「おひささん」が、家を建てたときに購入した仏壇である。家と共に百年の歳月が過ぎようとしている。このお婆さんは働き者で、この人の代で爪に火をともすようにして、少しずつ田畑を増やしたそうだ。また当時の女性としては珍しく、自立した女性だったようだ。私の知っている限りでは、私の祖父も父も家長そのものの人だった。家長が男性である時代のことなのでこのことが信じられず、本当だとしたら凄いことだと思った。
私の母は、このおひささんの苦労を思うと自分の代で仏壇を綺麗にしたいと相談して来た。私は最初は当然のように反対した。その仏壇はキンキラキンで,どんな家にも収まるというようなものではない。お寺のミニチュア版のようなものだ。母はそれで満足だろうが、次の代ではいったいどうすれば良いのだろうかとかなり悩んでしまった。しかし、いくら悩んでも解決出来るものではない。
団塊の世代である私の世代は,価値観でも一つの節目だと思う。古い因習と決別した世代でもある。それが私の回りでは、時代の流れに逆行するような方向に導かれて行くようで、歯がゆい想いのすることがいっぱいある。しかし、古くさいことと言って切り捨てることも出来ない自分も自覚してしまう。
母の懇願にとうとう負けて、最後の大きな親孝行になるかなと思ってとうとう承諾した。お仏壇の魂を抜く儀式であるお正念抜きを、お寺にお願いして今日行われた。今度新しくなった仏壇には、お正念を入れる開眼法要というのをするということだ。
亡くなった人に魂があって、仏壇に入ってるということなのだが、そうしたらお墓には魂は無いと言うことなのか。それとも、魂とは自由に行き交うものなのか。
昨年流行した「千の風になって」では、「そこ(お墓)に私はいません」と歌われている。そもそも、この歌は魂がどこにあるのかが問題なのではなく、身近な人を無くして悲しみから抜けきれない人に、亡くなった人は「無」になるのではなくて「風になったり鳥になったりしてあなたの身近(心)であなたを見守っていますよ」という慰めを歌ってるのだと思う。
そう考えると、魂はお墓にあっても仏壇にあっても風になってもどこにあってもいい。残された人の心にあるもの、と考えたら母の想いも理解出来る。そういう私も,お墓参りもするし、また仏壇にもお参りする。ということは、日常として受け入れていることなのだ。
ちなみに、ネットでお正念を抜くというのを検索していたら、お坊さんのブログに「魂を抜いたり入れたり出来るような器用な坊さんはいるはずはない」というようなことが書かれていて、思わず笑ってしまった。
今日何も見えなかった私には,仏壇のお正念が抜けたのかどうかはわからない。しかし、気持ちが治まったことは確かだ。

朗読ブログ開設

2008-02-16 00:23:12 | 朗読音訳
朗読を公開しているブログを以前から見かけていて、どうしたら出来るのだろうと興味を持っていた。
生来の好奇心でいろいろ調べていたら「ポッドキャスト」という聞き慣れない言葉に行き当たった。
「ふ~ん、これって何なに? パソコンに録音した音声をブログで公開出来る。へ~、面白そう!」というわけで試行錯誤の結果、ブログで私の朗読が公開出来た。
野山に咲く花のように/朗読で遊ぶ」と今回は少し気取ったタイトルを付けてみた。あ~ぁ、またひとつ恥を晒すこととなってしまった。
一応、しばらくは大阪弁で大阪の文化がよく表れていると思って面白く読んだ「ごめんやす「大阪弁」」という本を抜粋して録音したいと思ってる。何年か前にも、テープ雑誌でも取り上げて録音したことがある。
この本を読んでいると、言葉は文化だということが実感出来る。吉本興行ではないけれど、大阪弁を発するだけで喜劇的だと感じてしまう。
パソコンを触り出して十数年がたち、最初の頃からは様変わりしてしまったが、そのお陰で私は豊かな人生を送れるようになった。パソコンの進化に伴って,私も少しは進化出来て来たと思う。脳の機能はこれからは衰えていく年齢になって来る。少しは,老化を防ぐのに役立つかも知れない。



ホシダで連休は終わる

2008-02-11 22:10:08 | クライミング
9日の大雪で、とうとう次の日も次の日もホシダで過ごした連休も終わった。「雪は好き?」と問われると、私は返事に困ってしまう。雪が降って来ると、ワクワクして子どものように落ちつかなくなるのも事実。良い歳をしたおばさんなのに外に飛び出したくなる。これって、雪には不思議な魅力があることだということだろう。
ところが、雪のモノトーンの世界はしばらくすると私は退屈になる。白と黒の世界は単調だからだろうか。どうしてなのか、私には分らない。
9日の雪解けのホシダは、もう美しくはなかった。グショグショの雪は不愉快な感触しか無い。この日は、Tさんのお孫さんが3人来ていたが、クライミングをそっちのけで雪と戯れていた。夢中で雪といつまでも遊べるのは子どもだけかな? 私も仲間に入れてもらって、雪玉投げをしてみた。投げる距離を競争したが、実力は同じ位だった。童心に帰り、けっこう楽しかった。
今の子どもは外で遊ばなくなった影響が出て来て、ボールを投げたりの運動能力が低下していると、ちょっと前のTVニュースでやっていた。しかし、この3人は心配なさそうだ。クライミングも楽しそうに毎週やっている。遊ばない子どもが増えているなら、大人はもっと遊ぶ楽しさを教えてあげなくてはいけないと思う。
ホシダでは、中高年が夢中で遊んでいる。きっとこの人たちは、子どもの頃にも夢中で遊んでいたんだろうなぁ、とふと思った。
子どもたちが帰った後には、2つの可愛い雪だるまが残されていた。
    ホシダの雪景色2008.2.10