一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

丸田祐三九段逝去

2015-02-20 00:22:14 | 男性棋士
2月17日、丸田祐三九段が亡くなった。享年95歳。
丸田九段は昭和21年四段、23年八段。タイトル戦登場4回、棋戦優勝10回。日本将棋連盟会長にも就いた、将棋界を代表する名棋士である。
丸田九段は歩使いがうまく、「小太刀の名手」と呼ばれた。また丸田九段といえば「ひねり飛車」での新手を抜きにしては語れない。昭和39年、山田道美八段との一戦で、従来は▲8五歩と打っていたところを、飛車を成れるものなら成ってみろ、と▲9七角と上がったのが画期的な新手。この将棋に快勝し、以降「▲9七角型」は丸田流と呼ばれた。
タイトル戦は、昭和27年度の第2期王将戦が熱戦だった。大山康晴名人相手にフルセットまで戦い、最終第7局も終盤まで優勢を保っていたが、最終盤で一失あり、大山名人の逆転勝ちとなった。投了局面ももう少し粘れそうだったが、ここで投了したのも丸田流である。
連盟では経理関係を長く担当した。私が20代のころ友人から聞いた話だが、税務関係の人が対局料の件で聞き込みに来た際、丸田九段が説明した給料システムがあまりにも複雑怪奇で、税務関係者は収穫なしで帰ったという。
また丸田九段はあの「陣屋事件」の真相を知るひとりだったが、沈黙を貫いた。結局、真相は墓場まで持っていってしまったようである。
ちなみに子息の祥三氏は写真家で、列車の廃線跡や街の廃墟を切り取った「棄景シリーズ」は、氏のライフワークとなっている。私は女優やモデルの写真集しか買わないのでこのシリーズには縁がないが、哀愁を帯びた作品群は一見の価値がある。
また祥三氏は5年くらい前に、「将棋世界」の表紙に作品を提供している。それは将棋会館の対局室で鎮座している、丸田九段の後ろ姿だった。
丸田九段の名局はあまり知られていないが、河口俊彦八段は、昭和36年に指された、第20期名人戦の第4局を挙げている。その「畢生の名局」をご覧いただこう。

昭和36年(1961年)5月25、26日
第20期名人戦七番勝負第4局
於:神奈川県横浜市「プリンスホテル」
▲名人 大山康晴
△八段 丸田祐三

▲7六歩△8四歩▲7八銀△3四歩▲7七銀△4二銀▲4八銀△6二銀▲7八金△3二金▲5六歩△5四歩▲5七銀△5三銀右▲2六歩△5二金▲6九玉△4一玉▲3六歩△4四歩
▲5八金△8五歩▲4六歩△7四歩▲9六歩△9四歩▲2五歩△3三角▲4七金△4三銀▲3七桂△6四銀▲1六歩△1四歩▲6六歩△7三銀▲7九角△6四歩▲6八銀右△6二銀
▲6七銀△5一角▲6八角△5三銀▲7九玉△3一玉▲8八玉△2二玉▲2九飛△8三飛▲5九飛△8四角▲5五歩△同歩▲同飛△7三桂▲5九飛△6五歩▲同歩△同桂
▲6六銀△6四銀▲4五歩△5七歩▲5六金△5三飛▲5五歩△6三飛▲2九飛△4五歩▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2五飛△7五歩▲同歩△7七歩▲同桂△5八歩成
▲同銀△7七桂成▲同金△7五銀▲6四歩△同飛▲6五歩△7六歩▲6七金△4四桂▲5七金引△5六歩▲7五銀△5七歩成▲同角△7五角▲同角△6五飛▲6六銀△7五飛
▲同銀△7七銀▲同金△7九角▲同玉△7七歩成▲7八飛△7六金
まで、108手で丸田八段の勝ち。

かなり昔のNHK杯で、対局者が丸田九段、解説が大内延介九段のときがあった。中盤、いろいろ手のあるところで、私などには次の指し手が皆目分からないが、大内九段は「ここは(丸田九段が▲6六の銀を)▲5七銀の一手。100%そう指します」と自信満々である。
果たして丸田九段は、くちびるをゆがめるお得意のポーズで、▲5七銀。プロの感覚はすごい、と唸ったものだった。
丸田九段はA級在位24年。B級1組も長く務め、私の記憶が確かならば、68歳まではB級1組を張っていた。晩年は大山十五世名人との対局で連勝し、腕に衰えのないところを見せた。髪も黒々として、いつまでも若々しかった。
ああ、棋界の最長老、逝く。いつかは訪れることだが、いざ現実のものになると、さびしい。いまごろあちらの世界では、升田幸三実力制名人や大山十五世名人など、重鎮がお出迎えしているのだろう。
心よりご冥福をお祈りいたします。
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