一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

河口俊彦七段逝去

2015-02-01 00:05:44 | 男性棋士
1月30日、河口俊彦七段が亡くなった。享年78歳。
河口七段は昭和41年(1966年)、三段リーグ東西決戦で勝浦修三段に勝ち、四段昇段。昭和52年(1977年)度の順位戦C級2組(当時は昇降級リーグ4組)では8勝2敗の成績を取り、C級1組に昇級した。
戦法は四間飛車を得意とし、C級1組では谷川浩司五段と村山聖五段に勝ったこともある。
しかし河口七段の本領は文筆で、昭和53年(1978年)創刊の「将棋マガジン」では、棋士の対局模様を記す「対局日誌」を連載、好評を博した。
もっとも当時は川口篤のペンネームで執筆しており、対局日誌では自身も登場して、「河口はプイ、と横を向いた」などの記述があったことから、ふたりが同一人物と知る読者は少なかった。
そんな河口七段だから、自戦記も書いた。昭和54年(1979年)に私は、十段戦で氏の自戦記を読んでいる。相手は長谷部久雄七段だった。当時私は、指し手の変化の記述が多い観戦記を最上と考えていたのだが、河口七段にその類はなかったものの、実戦心理が巧みに描写されていて、抜群に面白かった。観戦記(自戦記)はこういうものかと、私は目からウロコが落ちたのである。
なお対局日誌は、「勝ち将棋鬼のごとし」というタイトルで昭和58年(1983年)に初単行本化された。当時、五段の著作は珍しかったがもちろん中身は面白く、棋士の段位と本の内容は比例しない、ということをこのとき知った。
対局日誌は途中中断はあったものの、発表の場を「将棋世界」に移し長期連載となり、氏のライフワークとなった。
河口七段は以後も将棋ライターとして活躍し、いくつもの名作を著した。そのどれもが面白く、買って損はないと断言できる。なお先の2局も、自身の筆で語られている。
ではここで、その谷川五段戦の棋譜を記しておこう。

昭和54年(1979年)11月16日
第38期昇降級リーグ3組
先手:五段 河口俊彦
後手:五段 谷川浩司
▲7六歩△3四歩▲6六歩△6二銀▲7八銀△6四歩▲6八飛△6三銀▲4八玉△5四銀▲6七銀△4二玉▲3八玉△3二玉▲5六銀△5二金▲5八金△6二飛▲7七角△7四歩
▲2八玉△9四歩▲3八銀△7三桂▲9八香△1四歩▲1六歩△2四歩▲4六歩△2三玉▲3六歩△3二銀▲2六歩△9二香▲9六歩△8五桂▲8八角△6五歩▲8六歩△6六歩
▲3五歩△6五銀▲同銀△同飛▲5六銀△3五飛▲6六角△同角▲同飛△2五歩▲3六歩△同飛▲2五歩△2六歩▲4五銀△3五飛▲3七桂△4四桂▲3六歩△4五歩
▲3五歩△3六銀▲5五角△3三角▲同角成△同銀▲6一飛成△5一金▲5二竜△同金▲4一角△3二銀▲5二角成△2七飛▲3九玉△3七銀成▲2七銀△1三玉▲2四歩△同銀
▲3四馬△2八角▲2九玉△3三歩▲2四馬△同玉▲4四飛△3四桂▲2五歩△同玉▲3六銀打
まで、91手で河口五段の勝ち。

78手目、優勢だと思ったところでスッと△1三玉と寄られ、谷川五段の才能を感じた、と書いている。

河口七段は「将棋ペンクラブ」の創設にも尽力。自身も平成15年(2003年)に「大山康晴の晩節」で、ペンクラブ大賞を受賞した。
河口七段は現在も「将棋世界」に連載を持ち、王座戦にも健筆を振るっていた。拙宅では別の新聞を取っているので、河口観戦記が読める日経読者を羨ましく思ったものである。
高齢だがまだまだ元気で、最近も河口七段は、タイトル戦の控室に顔を出していた。まさに急逝で、歯に衣着せぬ河口文章がもう読めないとは、悲しい。年明け早々、気が抜けてしまった。ああ、ああ…!!
心よりご冥福をお祈りいたします。
コメント (2)
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