謙のわがまま日記

マナイゲルをつくる会・手稲会・船橋歩こう会・大和山の参加記録。旅先の感想・記録。その他気楽な手記。

3月後半

2012年03月29日 | 雑記帳

3月も後半になると、やはり春の気配が漂ってくるものですね。寒い寒い今年でも日射しは優しくなるし朝夕の明るさが日増しに伸びてくる。これからが楽しみですね。

後半、妹の所へは21日に様子を見に行き。その後一週間空けて、28日は介護に関して会議があった。本人が太り気味なので、それへの対策が中心議題になり、来月のディサービスから機能訓練も行うことになった。また、週一回の買い物は、帰りは本人が車椅子を押すようにして歩く訓練をする等など・・・ヘルパーさんをはじめ介護関係者の善意と好意には感謝するばかりです。この日は午後に散髪に連れて行った。歩行訓練を兼ねて徒歩で行くつもりだったが、天気予報では15時頃から雨、雷を伴う恐れもあるということなので、車椅子に乗せて行った。床屋さんにはここ何十年も行っていなかった(いつも家内がやる)ので、散髪代の高いのには驚いた。今月は31日にあと一度様子を見に行く予定。

23日は久しぶりに青山病院へ行った。理由は半年位前から、朝方左胸から肩、上腕にかけてシビレを感ずるようになっていたが、最近その頻度が高いので・・・レントゲンの結果、首の骨に原因がありで、飲み薬と塗り薬をもらった。苦痛はないので心配はしていない。

27日は2週間ぶりにほの歩の会ウオーク。コースは坪井地区~アリーナとお馴染みコース。坪井近隣公園へ行く途中のせせらぎで、蛙の卵を見つけた。

    

この不気味な長いものは蛙の卵です     列はばらけたがマイペースで楽しく歩く

この日は、夕方、月恒例の旧級友との飲み会にでかけた。23年前は18人いた級友も今では12人。その中でも飲み会に出て来られるのは6人になってしまった。札幌でも同じクラス会を毎月やっているが、状況はあまり変らないようです。もう皆そんな歳になったわけです。ですから勿論無理はしないが、今やっていることを一生懸命やることを老後の生き方にしたい。と思うこの頃です。

30日は船歩会報の印刷。例会の間隔が短いので今月は2度目の印刷でう。こんなことは初めてです。その代わり、つぎの印刷までは2ヶ月位もある。

 

 


3月も中旬

2012年03月17日 | 雑記帳

寒いとか、今日は少し暖かいなどと言っている中に3月も中旬になりました。遅いけれども、春は近いようです。

12日は、妹を連れて府中の斉藤病院へ行きました。特に変りはなし。帰ってから、割りに暖かかったので散歩に連れ出そうとしたが、腰が痛いとか足が痛いとかでなかなか応じず、無理強いはよくないと思ってやめた。近頃太り出したのでちょっと心配。

13日は、久しぶりのほの歩の会の火曜ウオークに参加。友の会のコンサート以来、初めてなので、来てくださった方にお礼を言おうとしたら、反対にお礼を言われたりして、嬉しい戸惑いもあった。emi さんなどは加古隆のCDを贈ってくれるなどとても感謝! ほの歩の会はいい会です。この日のコースは船橋駅から行田公園、長津川親水公園などお馴染みの道行き。お馴染みのコースを歩くのは疲れが少ない。天沼弁天池公園で解散して、途中、市場まで Eさん gさん sさん等と同行、彼女等は市場の食堂へ。あの時間に市場の食堂はやっていたかどうか?

   

行田公園内、                休憩、樹の陰から手を出しているのは誰?

ニイタカヤマノボレを発信した無線塔跡

15日は妹が初めてディーサービスに行く日なので、朝から行ってホローした。行った時にはすでに出発の準備が出来ており、仲間とともにスムーズに出かけて行った。サービス実施の”あさひ苑”も覗いたが違和なく溶け込んでいるようなので一安心。ディーサービスから帰るまでは時間があるので、府中市役所へ行って介護保健の旧保険証を返却し、昼食の後、府中駅の近くのビル5階にある映画館で映画を観た。映画は「シャーロック・ホームズの・・・何とやら」てっきり、あのシャーロック・ホームズが冷静に判断して事件を解いていき、最後にアッと言わせる推理映画かと思ったが、全く違った。第1次大戦の頃の国際間のスパイともギャングとも知れないタフな男たちが入り乱れて乱闘をする。その中でも主演のシャーロック・ホームズとその敵役が圧倒的に強い。変装も自由自在で神の如し。最後は死んだ筈の本人が椅子の陰から現れて何処へともなく去って行く。まあ、時間つぶしにはよかった。ディーサービスから帰る時間を見計らって”うらら多磨”へ戻ったら丁度帰り着いたところだった。聞いてみると「落ち着かないけれど楽しかった」という感想なので安心しました。

16日は、船橋歩こう会例会前の金曜日なので、CWA事務所で会報の印刷。今回は当日渡す会報は K氏 が車で運ぶというので、手ぶらで帰った。明日は雨なのが分かっているのでよかった。翌17日は 予報どおり朝から雨降り。さほどひどくはないがウオーキング日和ではない。役員の皆さんの苦労は分かるが、無理は禁物。行かないことにした。


3月11日に思う

2012年03月11日 | 雑記帳

3月10日と3月11日は2日続けて、日本にとって本当に悲惨な出来事が起こった日です。

昭和20年3月10日の東京大空襲は、当時私は北海道札幌にいたが、そんなことは一切知らされず。その事実が分かったのは終戦後しばらく経ってからです。それも、何時ごろだったか?恐らく駐留軍が撤兵した後だったと思う。その事実があってから十数年後にそれを知り、いきなり凄惨な写真を見せられて息を呑んだものです。北海道は釧路、根室を除いては空襲はなかった。小樽、室蘭もあったが長時間ではなかった。札幌、旭川は敵機を見るか、またはそのの爆音を聞いた程度だ。それもたった一日のことである。空襲された体験のない私にとって、3月10日のその写真は実に強烈なショックでした。その後、たびたび話も聞き写真を繰り返し見せられて分かるようになった。しかし、その後は、色々の葛藤はあっても平和な時代を過したので、この空襲の本当の悲惨さは到底理解はできていないと思う。

3月11日の東北大震災は記憶は生々しい。いち早くテレビで報道されたあの画面は忘れられない。その後この震災についてのニュースは一周年を迎えた今日まで1日も欠かさず続いた。新聞も毎日必ず多くの紙面をさいてその後の復興状態を伝えた。尽きることのない各人、各家庭、各グループの悲劇が毎日、テレビや新聞・雑誌によって届けられています。これからも続くことでしょう。どうぞ出し切ってください。

今日、大震災から一年。その復興について云々する資格はない。しかし、テレビ、新聞で知る限り、行政をなじる声やマイナス思考の声もあるが、あの凄まじ逆境を乗り切って復活に向かっている現地の人達の勇気と元気には敬服しています。もう、歳をとり過ぎているので、現地でのボランティアなどは出来ない。行っても邪魔になるだけだからもちろん行きません。僅かな義捐金を送るくらいしかできません。一日も早い復興を祈るのみです。