今年の2月を反省する

今年の2月を反省します。

1月末から、体調が悪いので、2月4日に、近所の青山病院で診てもらったら、”インフルエンザA型”に感染していた。急いで家内も診てもらったら同じく感染していた。油断をしていたわけではないが、初めての体験なので少々慌てました。しかし、これは、私の体調に微妙に影響して、食欲不振、意欲の減退を招きました。この為、今年の2月は中止、変更、キャンセルの連続でした。

第1は例年10年間続けてきた、2月1日の義母北本トミさんの慰霊参山です。義母は2006年2月1日に永眠し、以来、2009年から2018年まで毎年欠かさずに慰霊参山を行ってきた。始めの5年間は日帰りで行っていたが、小生の肺がん発症後は、青森または浅虫温泉に1泊。去年はお山の信徒宿舎に1泊して続けてきました。
それが、今年はインフルエンザの為か、2月1日前頃から体調頓に悪く、周囲に迷惑をかける心配もあったので、涙をのんで中止しました。
第2は、歯科の予約を2月6日を13日に変更。
第3は、毎週木曜日のサンズパソコンへの通学を全休。1か月も休んだのは初めてです。
第4は、例年必ず参加していた市川友の会が主催するコンサートを欠席した。この日は宮中音楽の東儀秀樹さんの出演でした。このコンサートを主催する市川友の会は、家内が長年所属していて毎年、前売り券を売っている。それで私も以前参加していた歩こう会の方にお願いして、毎年10数枚を購入してもらっていた。それで、私も久しぶりに昔の歩友に会うのを楽しみにしていた。しかし、この日前後は、就寝するくらいの不調でした。それで、これも涙をのんで欠席。
第5は、20日の”道路つくる会”の定例会の欠席。理由は体不調。

この他、空腹時の胃痛があり、22日に青山病院で胃カメレ検査をした。結果は十二指腸付近にポリープがあるが、気にするものではなく、あとは特に異常なし。ということで、心配は杞憂にすぎなかった。

17日に、いすみ市の嫁ぎ先から、娘一恵からの電話連絡あり。舅の石野富三さんが入院。 28日に再び電話あり。27日21時頃、逝去の報あり。
葬儀については後日、ブログにて。

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齢90歳に到達

あれよ あれよと言う中に、2018年11月14日90歳の誕生日を迎えました。
人生50年の時代に生まれ育ち、戦時中は”軍人半額25年”の最中に17歳で終戦を迎えたので、1年違いで徴兵もなく、命永らえて90年を生きてしまった。数年の違いで、戦火に散った先輩方には申し訳ないような一生です。
終戦後73年、上級学校受験、北海道での炭鉱生活、リストラ後の鋼管工事会社生活、定年後のアルバイト、趣味のウオーキング等々、どれもその時は一生懸命にやったと思うが、”私は何を残しただろう”の感じ です。

それでも、やはり、この世の皆さんは優しい。
子と孫たちが、一堂の会してして卆寿を祝ってくれました。場所は娘の嫁ぎ先、房総の いすみ市のお寿司店。
娘婿、娘、孫息子、孫娘二人、それに家内と私の都合7人。
私達は、もとは3人家族だったが、今は5人の子と孫に囲まれて、楽しいひと時をすごしました。
これは、その時の贈り物です。

 

中央は祝いの花籠(生花が加工されていて長持ちするとのこと)その手前は茶碗と湯呑。
一番手前は箸。何れも夫婦用です。

また、近所の吉田さんご夫婦からも、このお菓子のお祝いを頂きました。
有難うございます。

 

 この他に、現在私が所属している近所の”道路をつくる会”の皆さんにも、お祝いをして頂きました。
その時の、お祝いのケーキーを切っているのが、下の写真です。

また、サンズパソコン教室からも、毎年のことですが、誕生日お祝いのカードを頂きました。

 

皆さん、有難うございました。

皆さんのご厚意を忘れずに、これからも元気に生活してゆきます。

 

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今年の夏を思う

今日は9月1日。流石に酷暑ではない。でも、今年の暑さはとても尋常ではなかった。それは今でも続いている。
梅雨が終わった途端に真夏になり、その数日後には酷暑の日が各地に頻発。40℃を超す地方も出るなど、観測を始めて以来最高という言葉も各地に沢山聞かれた。それが1カ月以上も続いたのだから、本当に暑かった。
8月に入り、広島・長崎の原爆の日、終戦記念日を含んだ、お盆を過ぎて、数日間はちょっとだけ良かったか? また台風がきた時は少し涼しくなたか? それでもそれを過ぎてまた酷暑がぶり返したのだから堪らない。

しかし、この間に、つくづく思ったことは、わが夫婦がいかに歳をとったか、ということです。
部屋の中にいた時間が多かったこともあるが、温度計が29℃や30℃になってもそれ程暑さを感じないのです。冷房は32℃をになってから初めてつけた。決して良いことだとは思はないが、そうだったのです。27℃くらいに下がると涼しいくらい。
ですから、娘が訊ねてくると、すぐに冷房をつけていました。よく言われるように、暑さを感じる機能が衰えてきているのですね。気付けなければいけない。それでも、その時間に外出すると、やはりとても暑いのです。
本当に、今年の夏の暑さは、前代未聞でしたね。それも9月に入ってもまだ、続きそうです。

毎年、夏は慰霊の時ですね。お盆があるし、原爆や終戦記念日がありますからね。
私は7月14日~15日は大和山本部へ登山し、合同慰霊祭に出席して 義父・義母を慰霊し、義父の月命日参拝をしてきた。
8月は例年通り。6日の広島原爆・9日の長崎原爆はテレビを観ながら黙祷。14日は千鳥が渕戦没者墓苑の慰霊祭に出席、15日の終戦記念日は、テレビを観ながら正午に黙祷を捧げました。

毎年、8月にはテレビで戦争の記録や、それに纏わる逸話、ドラマ番組が数多く放送される。今年もやはり胸を突く番組がありましたね。ノモンハン事変など、当時から「あれは負け戦だった」という噂はあったけれど、矢張りそでしたね。関東軍のいい加減さがよーくわかりました。終戦時に邦人を守られなかった軍隊らしいと思った。その他、NHKの小野アナウンサーの叔父の戦蹟をたどる旅の記録や、ドラマ「花へんろ」も、戦争がもたらす悲話が胸に刺さりましたね。戦争の為の悲劇何年経っても語り尽くせないでしょう。

今日は9月1日、防災の日。読売新聞では社説に防災に関する記事はあったが、紙面どこを探しても、(関東大震災)の文字はなかった。 戦争に比べれば規模も狭いし、事変も太平洋戦争より20数年も前のことなので、こういう事になるのでしょうかね?

 

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大和山立教100年祭に参加

6月2日(土)~3日(日)の大和山立教100年祭に家内と参加してきた。
大和山とは正式名は松緑神道大和山と謂う。新宗連(新日本宗教団体連合会)に加盟している。大正7年に青森県東津軽郡の山奥、平内町大字外童子に誕生した新興宗教で、今年立教100年を迎えた。私は結婚した折に、義父から入信をすすめられた。私の実家は仏教の浄土真宗だったが、宗教には無頓着であったので、家庭平和の為に、すんなりと入信した。爾来60年で大和山が立教100年祭を迎えることには、些か感概がある。

6月1日(金)
昼の11時頃家を出て、東北新幹線、上野駅12時j26分発の「はやぶさ21号」に乗り、新青森~青森を経て青い森鉄道に乗り換え小湊駅に16時25分に着いた。途中、新青森で教友の鷲山さん夫妻と一緒になる。
お山のバス小湊発16時45分に乗り、本部についたのは17時05分頃。早速受付を済ませて宿舎の五光館に入った。宿舎は男女別なのでここで家内と別れる。男性は5階へ、女性は2階へ。もう大勢来ていると思ったが、30人位も寝られる部屋に居たのは教友の布施さん只一人。そこへ鷲山さんと私が入って行ったので布施さんは大喜び。今夜は、この大部屋に只一人で寝るのかと思い、心細かったとのこと。後で、沖縄からの人が一人来て我々の部屋は4人なったが、両隣の部屋では、同じ広さの大部屋に夫々只一人づつだった。女性のほうも同じで、大きな部屋に鷲山夫人と家内が只二人で泊まることになった。一大行事があるのに、何故、こんなに人がすくないのか?その訳はすぐに分かった。皆さんはお利口でプログラムをよく読んでいたのだ。本番が始まるのは午後からであるので、”前夜からくる必要はなし”としたのであろう。それはともかく、その日は少し離れた瑞雲閣の食堂で夕食を録り、風呂に入って寝た。

6月2日(土)
朝、6時に起きて朝の拝礼に行く。朝食は弁当。例によってパンとおにぎり。今朝になると、夜行バスで来た人たちが多数到着した。行事は午からなので、午前はある意味自由時間。バスが出るというので奥宮参拝コースに参加した。行き帰りはバスだからよかったが、バス下りて空の奥宮までの階段の上り下りびは少しならず苦労した。が、よい運動にはなったと思う。奥宮参拝は何年振りかだった。
祭儀は神集閣で、13時開場、祭儀そのものは14時頃から葯1時間、その後、教主様のご垂教があって16時頃終わった。
直会は屋外の特設会場で17時~19時30分まで。各自、祝膳を貰って自由に席に着き、お酒も飲んで勿論無礼講。 舞台ではプロの演芸、宮古島の琉球民謡や島唄、華麗な花柳流の踊りや長唄があり、舞台下ではエイサーや ねぶた で大いに盛り上がっていた。この日は五光館はほぼ満員。行事の時らしい雰囲気で楽しかった。

6月3日(日)
この日は、朝8時開場で神集閣で式典があった。8時40分から約30分ビデオ上映がありその後、式典が約Ⅰ時間。布教師任命、功労者表彰が主だった。その後は、この信仰が三代・四代続く人達の記念撮影会などがあったらしいが、我々一般は自由行動で、帰る支度をして、記念イベントに参加すべく屋外特設会場へ集まった。
イベントは12時~14時まで。舞台では昨日に続いてプロが登場。津軽手踊り、津軽民謡、津軽三味線が演じられた。いづれも良かったが、とくに津軽三味線はこころに響いた。思い出すと、50年前の立教50年祭には、かの名匠高橋竹山さんがお祝いに来られて、津軽三味線を豪快に演奏された。その響きは未だに心に残っていたが、この度のお弟子さん達の演奏は、それを十分に思い出させてくれた。舞台下のねぶた運行もよかった。

イベントは時間通りに終わったので、本部発14時50分のバスに乗って下山した。
バスは予定より早く出たので、青いも森鉄道はⅠ本早いに乗り、八戸でⅠ本早い新幹線に乗ろうとしたが、それは満席だたので、1時間ほど待って、予定通り、東北新幹線八戸発17時06分の「はやぶさ32号」に乗った。
この電車の1号車で教友の田中敦子さんと一緒になったのは偶然だった。
上野へは19時58分着、東船橋へは21時頃到着。家に帰ったのは21時20分頃。

私は、大和山は、立教50年祭にも参加したが、50年前は大和山境内は建物が少なかったので広ーく広場がとれた。それで一大イベントをやる時は、全国の教信徒を一回に一括してその広場に集める事が出来た。お祝いも各教区、各支部のPR的な物もありそれなりに盛り上がっていた。
しかし、今は必要な殿堂、学舎、宿舎などの建物が多く建って、広場が無くなったことは、教勢が発展したということなので、これもおめでたいことです。また、何につけ、近代化していることも良いことだと思います。
私は、この度、」珍しくカメラを持って行ったのですが、宿舎に忘れたりして、1枚もとりませんでした。ですが、帰る前に、瑞雲閣で一緒にアイスクリームをたべているところを、教友の蜂谷さんに撮ってもらったのが、この写真。唯一の100年祭参加記念です。  

            

この100年祭の間、健康状態を心配していたが、現地に来ると心配の種の咳も痰も出方が少なく、安堵すると共に、些か自信がついた。

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リハビリ卒業

私は、、一昨年の9月2日から葯2年8カ月間、リハビリケア船橋に、介護保険によるリハビリに通っていた。

ここは、元、円形の船橋総合病院の跡地に建った大きな5階建てで、上部は介護付き有料老ホーム「きゃれっと」で、1階部分が「リハビリケア船橋」になっている。ここは設備もスタッフも充実した立派な介護老人保健施設である。
ここで、週2日の午前のみのリハビリに通っていた。

始めは、介護1のレベルであったが、翌年3月の審査で支援2になっていた。
それが今年3月15日にまた審査があり、1カ月後に 「非該当」という通知を貰った。始めは何のことやら分からなかったが、すぐに分かった。もう介護保険の世話は要らないということ。もうリハビリは卒業ということだった。

上の写真はリハビリ場です。ここで理学療法士に指導されて、ストレッチ、スクワット、歩行など。その前後に各種運動機械を使ってのリハビリを繰り返した。時間は1時間~1時間半。その後は各自、飲み物を飲んで寛いだ。疲れる程ではなく、老いの身には丁度良い運動だった。理学療法士の先生達も、看護師さんも、送迎やら身の廻りを世話するインストラクターの皆さんも、事務所の人達も皆親切で明るくて好い人ばかりだった。
利用者は沢山いるが、空間が広いので伸び伸びと動けたし、雰囲気が良いのですぐに仲良くなれた。
そんな所なので、もう少し長く居たかったが、卒業は目出たいことなので仕方がない。
4月27日、最後の日、帰る前に、考えてもいないことが起こった。卒業証書をもらい、スタッフから1輪造花をもらって祝福された。
帰りがけには、アーチなど組んでくれて、みなに見送られて卒業した。こんなことは、思ってもいなかったので、感激一入。

まさにそれはゴールデンウイーク、春の連休が始まる前日のこと。
連休中はゆっくり休むとしても、何かやららくてはいけない。
もとより自由の身だが、何もやらずに家にいたのでは身体に悪いから、何か探そう。
もとは船橋歩こう会でよく歩いたが、今ではとても健歩の皆さんと一緒には歩かれない。でも、何かやろう。

 

 

 

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友の会コンサ-ト

2週間前の2月12日(月)は、船橋市民会館ホ-ルで例年の友の会主催の音楽コンサ-トがあった。
友の会とは羽仁もと子さんが創立した全国友の会で、ここでは市川支部主催のものです。

これには、毎年、歩く会(歩のぼの会)の皆さんに前売り券の購入に協力をお願いしている。私はもう病が昂じてからここ3~4年は歩のぼの会には参加していないが、昔の佳美(よしみ)で音頭をとってくれる人がおり、皆さん買ってくれている今年は17枚も買って頂いた。本当に有難いことです。

今年は、仲道郁代さんのピアノの独奏会でした。私は音楽はよく分からないが、結構やすらぎもあり、たかぶりもあったので良かったと思う。
 しかし、やはり疲れた。2時間の観賞もそだが、片道45分の徒歩はやはりきつい 

  

演奏者経歴 

仙台市生まれ、浜松市育ち。4歳からピアノを始め、浜松市立白脇小学校5年生のとき第27回全日本学生音楽コンクール東日本第3位入賞。浜松市立南部中学校在学中、父親の仕事の関係でアメリカ合衆国に渡り、ホロヴィッツの生演奏に接して大きな感銘を受ける。帰国後、桐朋女子高等学校音楽科を経て桐朋学園大学ピアノ科に進み、中島和彦に師事。高校3年時の1981年、第50回日本音楽コンクール(「毎コン」)ピアノ部門第3位入賞、翌1982年、大学1年在学時の第51回同コンクールにてピアノ部門優勝、及び増沢賞受賞。

1985年に桐朋学園大学を中退。同年から1987年まで文化庁在外研修員としてミュンヘン音楽大学に留学し、クラウス・シルデに師事。この間、1986年、第42回ジュネーヴ国際音楽コンクール第3位(最高位)受賞。1987年、メンデルスゾーン・コンクール第1位入賞、メンデルスゾーン賞受賞、エリザベート王妃国際音楽コンクール第5位入賞。1988年、村松賞受賞。1993年、第23回モービル音楽賞奨励賞受賞。

1990年、ミュンヘンからロンドンへ活動拠点を移す。1993年8月に結婚、1996年11月には長女を出産。1999年、カーネギーホールにデビュー。

シューマンを取り上げることが多かったが、次第にショパンも弾くようになり、1990年代後半から、子供のための話を織り交ぜたコンサート、レクチャーコンサートなど、クラシックを親しみやすくする企画を次々と立てている。近年はベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音のCDをリリースし、コンサートでもソナタと協奏曲を全曲演奏するなど、ベートーヴェンにも精力的に取り組んでいる。

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命日参山

例年の通り、2月1日の命日参山をした。平成18年2月1日が義母北本トミの命日である。       義母北本トミは、青森県の山奥、松緑神道大和山教団本部の光霊殿に夫、北本好弘と共に眠る。爾来12年間、毎年この日は私達夫婦は慰霊参詣の為にこの地を訪れる。

初めは、早朝から深夜までの日帰りで行っていたが、加齢と持病によってそれが苦痛たなり、5年前からは1泊で行くようにした。前の2年は青森のビジネスホテル泊、次の2年は近所の浅虫温泉泊としいていた。だが、本部に瑞雲館が出来て、宿泊設備も整ったので今年は本部泊とした。

 早朝5時38分東船橋発、6時48分上野発の東北新幹線”はやぶさ1号”に乗り、八戸で青い森鉄道に乗り換え、11時08分に小湊着。11時25分発のお山のバスで登山。本部には11時45~50分着。

すぐ、神集閣で受付、宿泊手続きをして、瑞雲閣へ行き昼食をとる。瑞雲閣は宿舎、食堂、休憩所、売店と浴場の設備が揃っていて、我々教信徒にとって非常に有難い。                    今年の冬は本部も例にもれず雪が多くて寒いとのこと。 下の写真は宿舎の3階の窓から撮ったもの。(寒くて外では映す気になれなかった)これではよく分からないが、跳ねた雪が高く積まれている。

    

水道管も一部凍結や断水で、食堂では使い捨ての食器を使い、浴場は一日おきににお湯を入れているとのことで、こんなことは、今までに一度もなかったことだそうです。

そんな雪の中を車で光霊殿、天峰閣へと送ってもらい、義母の命日供養とともに、去年亡くなった兄嫁と妹の慰霊を宗派を超えてお願いした。

この日は、瑞雲閣に泊まったが、丁度、浴場にはお湯を入れる日だったので、温泉のような大浴場に浸かって疲れをおとした。

翌日(2月2日)は本部を9時20分のバスで下山し、青い森鉄道小湊発9時58分に乗り、八戸駅にて東北新幹線”はやぶさ16号”に乗り換え、上野着13時58分で帰ってきた。

以上が、2週間遅れの私の”わばまま日記”です。身体も少しづつ弱ってきているので、来年は,この時期に青森まで行かれるかどうか?

 

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写真挿入の復習

今年初めに、教室で写真挿入の復習をしています。

2~3年の空白で、手順をすっかり忘れていました。まず次の写真を入れました。

これは、小さくならないので、「小」で入れます。

 これは、)小さくならないので、{小}で入れます。

リサイズ480

リサイズ320

 

 

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2年3カ月振りに大和山

昨日は久し振りに大和山東京東部支部へ行った。今年の慰霊祭があったからである。

一昨年3月、身体の絶不調が起きてから、実に2年3カ月振りだった。突然だったので皆さん凄く歓迎してくれた。我がことのように喜んでくれて本当の嬉しかった。このところ不幸続きで陰鬱だった私の気持ちもいっぺんに明るくなっってしまった。「この人達は身内だ」と思った。

信仰の集まりとはこんなものだろうか。それぞれ信仰の度合い・深浅・解釈の仕方は違っても、仲間とはこんなに温かくて楽しいものだろうか。信仰の世界に限らず、仲間とは、こんなものだと思う。

新仏である兄嫁や妹の慰霊が出来てよかった。(大和山の慰霊は、宗教・宗派を問わない)

帰りは、疲れたと見たのか、教友の田中敦子さんが車で家まで送ってくれた。

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千の風になって

一昨日は、嫂成子さんの遺骨と共に、妹純子の遺骨を、同じ墓に埋葬した。

成子さんは5月2日に、純子は5月10日と命日は8日間違うが、参列者の都合があって、夫々の49日を繰り上げ、二人同時に49日の法要と埋葬を行うことにしたものである。参列者は7人。成子さんの長男、次男、長男の妻と次男の4人。純子の側は兄である私等夫婦と娘の3人。この中、成子さんの長男夫妻と次男は札幌からの参加である。

成子さん側は電車で、私達は娘の運転する車で、夫々に遺骨と位牌を持って八王子の第二高尾墓苑の大宣寺に集合した。

私達は、朝7時50分に船橋の家を出て、途中少し寄り道をしたが、10時10分頃には到着した。成子さんの側も余裕をもって到着し、夫々、受付を済ませ、定刻の11時には法要が始まった。読経、焼香、法話と進み、法要は11時40分頃に終わった。その後全員でやや傾斜のある坂道を進み池守家の墓に行き、墓碑の刻銘を確認し、塔婆を置き、位牌を供えて二人の遺骨を同じ墓に埋葬した。その後で僧侶の読経のうちに、全員でお墓全体を水で清め、納骨の儀式は終了した。

人の一生は、何方の一生であっても、夫々に波乱万乗の人生であったと思います。お二人とも波乱に富んだ長い人生で色んな体験をして、それを乗り越えて来られたことと敬意を表します。骨は墓の中にあっても、魂は、歌の文句のように、千の風になって大空を駆け廻ってほしい。

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