謙のわがまま日記

マナイゲルをつくる会・手稲会・船橋歩こう会・大和山の参加記録。旅先の感想・記録。その他気楽な手記。

夏も盛り

2012年08月15日 | 雑記帳

咳をしたり、痰に悩みながらも夏は盛りとなりました。長い間薬を飲み続けたせいか、咳も痰もだいぶ穏やかになりました。世の中はそれとは関係なく進み、17日間のオリンピックは終わり、今は高校野球夏の大会が真っ盛り。広島、長崎の原爆犠牲者慰霊祭も例年の如く厳粛に行われ、年々心新たに平和を誓う。

ロンドンオリンピックでは史上最高の数のメダル獲得。今回は初めての銀メダルに感動が多かった。金も銅も勿論良かったが、「サッカー女子なでしこ」「卓球女子団体」「バドミントン女子」「水泳男子メドレーリレー」など・・・

水泳男子リレーのあとでのコメント「コウスケさんを手ぶらで帰すわけにはいかない」は胸に応えた。しかしながら、個人で負けた分を団体でとり返す日本人選手の団結の良さは、日本人として感心と満足の至りです。

高校野球は、北海道も千葉も姿を消したので、このあと夢中になることはない。負けているほうを応援しながら楽しもう。

うらら多磨へは相変わらず4日に1度のペースで通っているが、11日(土)は船歩の耐暑ウオークの日だったが、出かける寸前に「純子さんの具合がおかしい」との知らせがあり、ウオークは取りやめ、うらら多磨へ急行した。熱があり(7.8℃)食欲なく、四肢に力なく、ふらつき。幸いにもうらら多磨に診療所が8月1日から開設されていたので、早速受診。血液を採取されて点滴を受けた。住居も診療所も同じ屋根の下なので非常に好都合でした。その日は、夕食もとらなかったので、泊り込んで様子を見た。点滴がよかったのか、薬がきいたのか、翌12日は、熱はさがり、食欲もでて、顔色も良くなり、四肢の力も戻ったので、泊まらずに帰った。1日おいて14日にも行ったが、落ち着いていたようで一安心。

遡って、7月28~29日は大和山教友の岡本成文さんの前夜祭と告別際があった。享年88歳。これで私は東部支部に於いては、上から5番目くらいの長老になったか?

ウオーキングについて、船歩の例会はこの3ヶ月ほど健康を損ねて不参加。耐暑ウオークは久しぶりにと思ったが、上記の理由でオジャン。ほの歩の会のほうも同じ理由で出ていなかったが、7月31日、夏休み前の最後の火曜ウオークには参加した。カメラを持参したが、1枚も撮らなかったのは、歩くだけで精一杯だったのだろうか。しかし、そのあとで、皆と昼食し、久しぶりに実に久しぶりに生ビールにありついた。近頃はたまに缶ビールを飲む程度だったので、歩いたあとの生ビールの美味しさには感激に極みでした。生ビールってこんなに美味しかったのか。

8月5日(日)は克って在籍した会社、住友金属パイプエンジ株式会社の創立50週記念のパーティーに出席した。昭和42年(1967年)に北海道の炭鉱から移籍した時の社名は住金鋼管工事株式会社だった。退職して嘱託や外注で仕事していた頃に住友金属パイプエンジニアリングに変ったが、全くリタイアした後も、1~2度社名は変ったらしい。そして、今年の10月頃に新日鉄と合併するらしい。とにかく、全く縁が切れてから20年近くも経つので、知った顔は殆どいないと思っていたが、ワッサ、ワッサ居るので驚いた。お互いの顔はよく覚えているものですね。楽しい2時間を過してお土産を貰って帰った。

        

        現役の社員と。 結構覚えているし、覚えられているものです。

毎年、8月といえば、第2次大戦終戦の月。戦争の回顧がテレビで繰り返される月です。今年はオリンピックと重なったので、あまり見る時間はなかった。戦争の現場を体験した人は、数年前まではなかなか体験を語るらなかった。しかし、体験ある人達の数が年々減ってゆくために、語り継ぐ責任を感じたのか、この2~3年はかなりリアルに語り出したように見える。しかし、酷すぎて語り得ない事実はまだまだ計り知れないと思う。毎年、思うが、何故あんな戦争を始めたのだろうか? 当時の指導者達は彼我の力の差は充分に知っていたはずなのに。

8月14日は恒例の千鳥が淵戦没者墓苑での、戦争犠牲者慰霊並びに平和記念式典に参列しました。主催は新日本宗教団体連合会(新宗連)。社民党の福島みずほ代表は毎年出席する。今年は自民党の谷垣総裁も出席した。新宗連傘下の40教団が集まり、絶対不戦と平和を誓った。だが、この場で誓っただけで、世界に伝わるだろうか? 伝わって欲しい。

      

           祭  壇                新宗連女子による献灯