謙のわがまま日記

マナイゲルをつくる会・手稲会・船橋歩こう会・大和山の参加記録。旅先の感想・記録。その他気楽な手記。

帰って来た蛍

2010年07月27日 | ウオーキング

伊勢詣りから帰った翌日、前売り券を手配してくれた知人がいて、赤坂の草月ホールに「帰って来た蛍」という演劇を観に行った。これは2~3年前にテレビでも事実に基づいたドラマとして放映された。岸恵子が主演したと思う。太平洋戦争の末期、沖縄の敵艦隊に対し特攻作戦を行っていた頃の話。南九州の知覧は陸軍最大の特攻基地となり、多くの若き特攻隊員が集結していた。その特攻隊員達の母代りとして献身した富屋食堂の女主人「鳥濱トメ」さんと隊員達の一物語である。

富屋食堂を訪れた隊員の一人、宮川三郎は一度出撃したが機体のトラブルで戻ってきた。以来「臆病者、卑怯者」の汚名を着せられ、苦悶の日々を送る中で、嘗ての戦友や旧友と出会う。そして宮川に出撃命令が下る。出撃の前夜、奇しくもそれは宮川の20歳の誕生日の日に、トメに別れを告げにくる。その時に彼は「明日、蛍になって帰ってくる」と約束する。翌日、宮川は僚友と共に、二度と帰らぬ壮途についた。

その夜、富屋食堂に一匹の蛍が現れる。

      

        富屋食堂での団欒      桜の枝を振って特攻出撃を見送る女学生

上の写真は、当時の実写です。この若い顔を見ると、涙を禁じえない。しかし、私はこの演劇を観て、そして観客の反応を見て、今ひとつ得心しない。

特攻隊は大悲劇です。このように戦った(死に向かって突撃した)若者のことは忘れてはいけないし、後世に語りつぐものです。しかし、これは美談ではない。美談には出来ないほど悲しいものなのです。特攻という作戦は、これを立案した大西海軍中将が後で言ったようにこれは作戦の外道なのだ。こんなにも人命を軽視した、世界戦史に恥ずべき作戦だと私は思う。その故に、散華した若者が限りなく可哀そうなのです。歴史を恨みながらも、純粋に散っていったのか。

人は、悲壮感に弱い。犠牲には感動する。しかし、繰り返すが特攻は美談ではない。特攻を生み出し、これを命令した人達は、これで勝てると思ったのだろうか。負けるかも知れないと思っていたのなら、これは殺人である。英霊の尊厳を些かも傷つけるものではないが、特攻は絶対に美談ではない!


お伊勢参り(つづき)

2010年07月26日 | 旅先

2日目(20日)は夫婦岩の日の出を見たのでまず1目的を達成。

伊勢市には9時24分着。早速今日の宿泊先、伊勢パールピアホテルへ直行。荷物を預けて、すぐ外宮へ。古来、神宮の参拝は外宮から先に行うのが正式とされるという。朝から暑い!昨日より暑いという。汗を拭きふき外宮へは10分足らずで着いた。

市街地からいきなり聖域に入る前の広場が何とも言えず神々しい。急に厳粛な気持ちになった。表参道火除橋から境内に入る。ご神木のような樹木があちらこちらにある。歩く道は舗装しておらず、木々が多く林の中を歩くようで巷の暑さはなく涼しい。案内図を頼りに神秘的な境内を歩く。正宮拝殿の奥は聞いていたとおりに入ることは出来ず、写真撮影も許されない。久しぶりに二礼二拍手一礼の参拝をした。

        

      表参道外宮入口の広場             樹木鬱蒼とした境内

          

         外宮正宮拝殿                   亀石(あまりリアルでない)

外宮には1時間半くらい居て、表参道に出てバスで内宮へ。ガイドブックで徴古館の見学を勧めていたので、徴古館前で途中下車したが、徴古館は本日休館。祝日の翌日は休館というのを見落としていた。バス停の近くに神宮文庫があったので行ってみたが、特に興味をそそられなかったので門前で引き返した。途中で時間を潰したので内宮に着いたのは13時頃。昼食は参道の手前でパンをかじった。

内宮は宇治橋鳥居より宇治橋を渡って境内に入る。橋を渡って右に曲がると大正天皇お手植えの松がある。二見浦といい、内宮とい、こんなに大正天皇の名前が出てくる地方は珍しい。内宮は外宮と違って太陽はかなり照りつける。でも、五十鈴川お手洗い場は涼しいし、本宮拝殿は緊張するせいか涼しい。ここも拝殿の奥は見えず写真撮影も禁止です。参拝殿でゆっくり休息し汗をさまして境内を出た。

おはらい町に入る。神宮の参道らしく賑わっていた。あまり暑いのでソフトクリームを食べて赤福を買ったが、この店はレシートを発行しない。ソフトクリームは、この店は300円だったが隣の店では250円で売っていた。しばらく歩くと赤福本舗があり、赤福もここで買えばよかった。

      

       宇治橋鳥居と宇治橋            五十鈴川お手洗い場

      

            内宮正宮拝殿               おはらい町

おはらい町の途中からおかげ横丁が直交する。ここにも色々な物があり、すぐ食べたものや欲しい物を沢山売っている。時間があったので歴史観という芝居小屋紛いのものに入った。人形と模型で伊勢詣りの歴史を再現したもので、面白いのか、つまらないのか分からなかった。ホテルへ帰ったのは16時。予定していた河崎界隈の散策は暑いから止めた。

翌21日は伊勢市発10時22分。15時30分頃帰宅した。本当に暑い暑い3日間でした。そして、一人旅のつまらなさをつくづく感じた3日間でもありました。


お伊勢詣り

2010年07月26日 | ウオーキング

7月19日~21日の3日間、この暑いのに伊勢皇大神宮へ参拝した。オカミはまだ大和山で奉仕中。今までの経験で旅行を計画するに当り、私とオカミの目的とタイミングを会わせることは難しい。また伊勢詣りは長年の夢であり、私にもあと時間があまりない。オカミの留守中を無為に過ごすのも不本意なので、思い切ってガイドブック片手にただ1人で出かけることにした。

この3日間は何れも「今日が最高!」という暑い日ばかり。35℃から37℃、地面近くは40℃くらいもあったろう。電車の中は極楽だが、一旦外へ出ると炎熱地獄。この時期に名古屋、津、伊勢辺りは来るもんじゃないとつくづく思う。

「お伊勢参りは、前日は二見浦に泊って」という定説?に従って、19日は真っ直ぐ二見浦へ行きました。駅からホテル(リゾートイン二見)までは1.2kmくらいで、いくら暑くてもタクシーに乗るような距離ではない。日陰を歩こうと思ったが日陰がない。炎天下を歩いて20分かかった。とにかくホテルで一休み。見どころは二見シーパラダイス、伊勢・安土・桃山文化村などあるようだが、こう暑くては行く気になれず、夫婦岩一点に絞った。

一息ついてから、明日の日の出を見る目的があるので、夫婦岩の下見に出かけた。まず、がっかりしたのは浜の松原と渚の間がコンクリートの防波堤で固まって、これが延々と続いていたこと。大正天皇が幼少の頃、この海岸で海水浴を楽しまれたというが、その頃は松原と渚は土で繋がっていたことだろう。夫婦岩のある場所も、こんな不粋なものはなかったに違いない。でも。写真に撮れば、昔ながらの夫婦岩に写る。翌朝は4時に起きて、夫婦岩の日の出を写しに行った。

       

           昼間の夫婦岩                黎明の二見浦海岸

          

     日の出前からカメラマンが集合        雲があったが、岩の間から日が昇る

 


さよならコンサート

2010年07月25日 | 雑記帳

7月18日は千駄ヶ谷の津田ホールへ、男性コーラスを聴きに行った。グループはローガンDXという早稲田大学のOBです。これは同じく早稲田大学OBで、歩のぼの会のAさんの紹介である。このグループは18年間演奏を続けてきたが、高齢化などの理由でさよなら公演となった。

かなり暑い日で、千駄ヶ谷駅に着いたのは開演50分前。津田ホールの隣のメインアリーナから続々と人の流れが駅まで続いていた。よく見るとボリショイサーカスの公演中で、丁度、何回目かが終わったところだったのだろう。警官が整理するような久しぶりに見る大勢の人の流れだった。珍しがってキョロキョロしながら歩いたので津田ホールまで10分もかかった。まだあまり人も来ていないようなので、矢印に従って3階まで上がると、もう10人くらいの人が椅子に並んでいた。何気なく待っていると「満席が予想されるから入って1列に並んで下さい」とのこと。先頭が会場の扉の前まで進み、私は前から10番目くらい。1時半を過ぎたころ、歩のぼの会の歩友が数人一固まりで入ってきた。混んできたからか会場へは2時10分前に入れてくれた。中ほどの一番気に入った席にすわったが、後ろに歩のぼの会がずらりと10人近くも並んだのには驚いた。類は友を呼ぶ。

私は寡聞にしてこのローガンDXというグループを知らない。このグループに必要不可欠の江藤純子さんというピアニストも知らなかった。いよいよ第一部開演、18年間の実力はやはり聴衆をひきつけて奥深い。これでは解散することはないと思った。第二部は江藤純子さんのピアノ・ア・ラ・カルト、聴きほれた。第三部に入り、落ち着いてよく見ると、椅子に座って歌っている人もおり、頭は白いか、または髪の毛の少ない人ばかり。歌声は衰えを見せたいないと思うが、この辺りが一番よい退け時かな~~と。さよなら公演なので、最後が近づくと徐々に感傷的な雰囲気になりかけたが、そこは洗練された大人の集団、元気に明るく終わった。素晴らしかった。  

           

                 江藤純子&ローガンDX 


慰霊祭

2010年07月25日 | 大和山

今年の慰霊祭は札幌支部は7月17日でした。

16日の午後2時の新幹線で発ち、6時20分にうあ小湊に着いた。お山の送迎バスが丁度よい。6時50分には本部着、すぐに慰霊書を提出して宿舎(五光館)へ行き、旅装を解いて夕食(臨時出店)に向かう。五光館の階段を下りると、14日から奉仕に来ているオカミに会った。バスの到着が予定より早かったので、その時は会えなかった。夕食は松風塾高校生の作るうどんとホタテで軽くすませた。

東京は35℃もあり、すごく暑かったが八戸に降りた時は半袖では寒いくらい。それでもお山はさらに北なのに、半袖が丁度よいくらいで、寒くも暑くもなくよく眠れた。

慰霊祭は17日、9時~12時20分で終了。臨時バスが13時20分頃出たので、予定より早く下山。八戸16時10分の新幹線で帰ってきました。帰宅時間は予定より2時間早かった。