謙のわがまま日記

マナイゲルをつくる会・手稲会・船橋歩こう会・大和山の参加記録。旅先の感想・記録。その他気楽な手記。

病院二題

2014年07月31日 | 雑記帳

この7月に病院二題。

その1、 治療なき闘病

 医療センターで肺がんと判定されてから、約1年半ばかり医療センターでお世話になった。その間、昨年の3月から6月に亘って四回の入院で抗がん剤の投与を受けた。

 その結果は、癌が拡大しなかったことを以て“良し”としながらも、体力に予想以上のダメージを受けたので、以後、抗がん剤は中止し、同時に癌に対しての一切の治療は停止して、自然に任せることにした。だが、自然でいると、咳と痰が激しく出るので、咳止めと去痰剤は続けている。

 医療センターでは1度/4週間のX-Ray検査と血液検査を行ってきた。

 その結果は、この1年間に何れも目立った変化はなく、6か月ごとのCT検査で僅かに推定3mm程の変化が見られるのみ。それで天野医師は「病状は落ち着いている」と診たのであろう、

 「この後は、青山病院で診てもらってもよし」として、紹介状にデーターを添えて、青山病院へとさし戻した。私は、青山病院の方が近いので喜んでいた。

 ところが、これでについて、驚いたことが5つある。

  1.  紹介状が病院受付から担当医に廻るまでに、開封されていたこと。
  2. 紹介状の趣旨が “おたくから紹介された患者なので、落ち着いたから、おたくへ差し戻す” 程度のもので、詳細な申し送りが一切無かったこと。
  3. 添えられたデーターが、この病院では解読できなかったこと。
  4. 最後の際の苦痛緩和処置をお願いしたら、断られたこと。
  5. 自信がないなら、それでも良いが、「緩和ケア病院はネットで探せ」と言われたこと。

     4と5は特に ガツン と来た。

  「医は仁術なり」の精神は何処へ?!

  病院の理念などと堂々と掲げているが、そんなものは「看板に偽りあり」 でしかない。

  以上、簡単に廻してくれた医療センターにも不誠意を感ずるし、青山病院でも、嘗ての患者を受け入れるに、難色を示して、実も蓋もない挨拶をされたことには落胆した。まるで厄介者扱いでこちらは立つ瀬がない。

  しかしながら、こちらは患者、向こうはお医者様 逆らって勝ち目はない。

  あまりに多くは望まないことにしよう。これが普通なことなのだろうか? しかし、すべての病院がこうではないでしょう。

その2. 尿管結石全快

 尿管結石はこれが4度目(この他に腎臓結石が2度ある)。しかし、こんなに長くかかったのは初めてです。痛みを感じて青山病院へ行ったのは、3月13日。約4~5mm角の石があることが分かった。薬で下ろそうとした が、2週間経っても下りず、船橋クリニックへ紹介されて破砕することにした。4月22日入院して破砕して23日に退院。その後2週間くらいで1mmm角の欠けら4個、その他若干の砂を採取したが、残部が砂状に残って排出されなかったので、その後、約2カ月の薬餌療法でやっと完治した。7月30日にやっと全快を告げられたが、この間142日。全治するまでに今までの数倍の日数を要した。これは加齢により、回復力がこんなに遅れたものか?  しかいながら、これはその1と違ってとても目出たい話です。

全快の前日、私が不在の時に歩く会の T さんからから電話があった。この日は火曜日で例のの火曜ウオークが終わった時点だったらしい。夕刻、改めて電話したが、いつも変らぬ友情がとても嬉しかった。早く体力を回復して皆さんと一緒に歩きたいという気持ちが沸々と湧いてきました。でも、いまは 暑い! 涼しくなったら出来るよう頑張ろう!


この2カ月、台風などもあった

2014年07月23日 | 雑記帳

前の更新から2カ月も経っていた。こんなに空けたとは思わなかったが、月日の経つのは早いものですね。思い出しながら書いてゆきましょう。

先ずは尿管結石。5月28日船橋クリニックに検診に行ったら、まだ石は残っていた。それでも腎臓には影響なしとのこと。2か月分の薬の処方箋をもらって、2ヶ月後の7月30日にまた検査することになった。今回の結石は本当にしつこい。

6月の上旬、テレビが突然見えなくなった。購入先に電話したところ、4~5日してメーカー(ビクター)から技術者が来た。部品を2個ばかり取り替えて見えるようになったが、夜、気が付くとテレビを切っても灯りが残る(バックライトというそうだ)ので、また来てもらった。この時も部品を取り換えて良くなったが、ちょっと手間がかかったようだ。それでやれやれと思ったが、録画する段になると全く機能しない。また来てもらおうと思ったが、これは電話で操作の仕方を指導されながらやって、ようやく録画可能になった。このやり方は取説などにはなく、本当の専門家でなければ分からない。もう一度やれと言われても絶対に出来ない。何やかにやで約10日間くらいでテレビは元に戻った。特に最初の4~5日はテレビ無しの生活をした。ラジオと新聞があれば大勢に影響はない。ただ、中継は見られない。

妹のところへは、最近は1回/週のペースになったが、この度は自立支援医療受給者証(精神通院)の行き違いや、年金関係の手続きで、府中の市役所や社会保険事務所などに行く機会があり少しばかり社会ベ勉強をさせてもらった。

7月の第2週に体調を崩した。何年か振りの下痢です。原因は分からない。家内と同じものを食べているのに私だけが下痢。寝ているときに下っ腹を冷やした為かも知らない。病院にも行ったが、薬の他は、とにかく何とかいう栄養あるり缶詰の液体やら、重湯やら、お粥やらで一週間を過ごして治った。体重が1kg減った。

7月の初め、台風8号が来るという脅威があった。九州や西日本に大雨をもたらし、今までにない強力な台風とのことで気象庁もかなり強い語調で警戒を呼び掛けていた。心配なのはベランダのゴーヤです。摩擦に極端に弱いので、台風で一揉みされると簡単にやられてしまう。去年は台風は6月に来たので、新しい苗を植えかえればよかったが、今年はそうはいかない。もうかなり生長しているので取り替えはきかない。そこで、台風からゴーヤを守るためにブルーシートに支柱を付けて、それをベレンダの手摺に取り付けるこつにした。シートの大きさは1.8m×2.7m。7月7日に作成し、10日に取り付けた。

          

 ひもは手摺にくくりつける          手摺に設置済み(横寸法が少し不足)

             

                  この辺りはよく守られている 

台風8号は10日の夜から11日の朝に亘って来た。しかし、どうした訳か、何時来たのか分からないようなもの。とても来襲などと云えるものではなかった。まあ被害がなくて良かったと云うべきでしょう。シートは翌12日に撤去した。

大和山関係では色々あった。先ず6月8日(日)は全国統一行動日でした。これは例年に行事でWFOniに協賛して世界の恵まれない子供たちの為の食糧支援の献金を呼び掛ける街頭募金活動です。時間は短い。11時から13時までの僅か2時間です。私達は小岩駅前で2班に分かれて道行く人に大声で呼びかけた。関心のない人の多いなかでも、善意の人は必ず居るもんです。このほかに、平井駅前と船堀駅前でも同じことが行われた。6月22日(日)は壮年部の例会。7月19日(土)7月20日(日)は本部にて例年の慰霊祭があり参列した。丁度、3連休の乗り降り自由のフリー切符がありそれを利用した。今年の慰霊祭については色々あるが、それは書かない。書くと紙面を取り過ぎるし、大和山以外の人には全く関係のない話である。

        

 右の光霊殿に至る参道には鎮魂の提灯が並ぶ   光霊殿(亡きみ霊を祀る所。

                                      慰霊祭もここで行う)  

        

      光霊殿の側面              光霊殿の斜め裏、

                            亡きみ霊の名前が刻まれる石碑(慰霊碑)