謙のわがまま日記

マナイゲルをつくる会・手稲会・船橋歩こう会・大和山の参加記録。旅先の感想・記録。その他気楽な手記。

終戦記念日ほか

2013年08月15日 | 雑記帳

今日は8月15日、終戦記念日です。68回というから、もうかなり昔です。私はこの時17歳、詳しく言えば16才と9ヶ月。北海道札幌で玉音放送を聞いた、寒い夏でした。従って米は不作で、食糧難に拍車をかけた。

この日を迎えるまで、私は後3ヶ月~6ヶ月で自分は死ぬと思っていた。しかし、同級生のなかには”日本は必ず勝つ”と信じていた者がかなり居た。彼らは、自分が死ぬとは思っていなかったのだろうか?それは真面目な人に多かった。天皇の玉音放送は雑音がひどくてよく分からなかったが、その口調と時折はっきり聞こえる言葉で、負けたことは分かった。必勝を信じていた人にはショックだったと思う。私はホッとした。戦死者の無念を思い母は泣いた。

68年後の今日、日本武道館では、天皇・皇后陛下、安倍総理等出席のもとに、全国戦没者追悼式が行われ、熱戦中の甲子園球場では、正午を期して試合を中止して一斉に黙祷が行われた。日本人はこの戦争のことは永遠に忘れることはないでしょう。

昨日、8月14日は千鳥が淵戦没者墓苑で、18:00~19:30 新日本宗教団体連合会主催の「第48回戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典」に参列しました。私は仕事をやめてからこの十数年、この式典には毎年行っています。式典は理事長挨拶の後に、教団青年女子による献灯、折鶴奉納があり、各教団代表がそれぞれの様式に則って礼拝する。その後で新日本宗教青年会連名委員長の「平和へのメッセージ」があり、参列者全員の黙祷による「平和の祈り」があり、来賓者参拝、参列者参拝で式典は終わった。例年出席していた自民党谷垣禎一さん、社民党福島みずほさんは、今年は見えていなかった。

       

         祭 壇                    青年女子の献灯

その前日、8月13日は、抗癌剤中止してから2度目の検診日、血液は心配なし、X-ray は変化なし。実際に肺の中から組織を採取しての診断なので、肺癌に間違いはないと思うが。7~8回のX-ray の結果は、途中で抗癌剤の投与があったとはいえ、8ヶ月間変化なし。癌の進行の遅さに驚くと共に、何か安心。あと暫くは妹の面倒を見られそうです。

 


7月は忙しかった

2013年08月02日 | 雑記帳

今年の7月も終わろうとしているが、今年の7月は本当に忙しかった。

斉藤ホテルから帰ってから、青森の大和山本部へ、2度行った。一度目は7月13日~14日、年一度の慰霊祭。二度目は7月27日~28日、立教95年祭である。私はこの4日間だけだが、家内はこの二行事の奉仕に行き、一度は7月9日~18日。一度は7月23日~29日の延べ15日間に及ぶ。

大和山の慰霊祭とは、仏教で言えば盂蘭盆にあたる。大和山では地獄も極楽もないので、地獄の釜が開くというわけではないが、7月中旬のこの時期に、先祖の亡き御霊の慰霊をする。地区ごとに教信徒が集まり、その中の支部毎に物故者の名前が読み上げられて、遺族は前に出て焼香する。各地区に割り当てられた日にちは2日間で、前夜は合祀祭(新しい遺骨を合祀する)、2日目が慰霊祭です。慰霊祭は午前12時には終わる。午後から各地区が入れ替わる。これが数日間続く。

昔は野外で全国の教信徒が、地区ごとに指定された場所に集まり,祭文や祝詞の奏上は一斉に行い、物故者の読み上げは、その地区ごとに行われた。それで、この頃は、合祀祭を含めても2日間で全国分が終わっていた。その後、多人数を収容できる光霊殿が出来てからは、全国の地区を数回に分けて地区ごとに、この光霊殿で行っている。昔に較べて日数は要するが、雨や熱中症の心配がなく、よい事だと思う。

立教95年祭は、文字通りの立教95周年を寿おぐ記念行事です。この祝賀行事は5年ごとのこの時期に行われているようだが、私は参加したのは、50年と55年、最近は90年と今回95年の4回だけだと思う。行事は祭儀と式典と直会に分かれ、直会には余興や福引も付く。50年と55年は、上記の慰霊祭と同様、野外で全国の教信徒が集まり、一斉に記念式典や直会を行ったものです。2回とも好天と微風に恵まれことを覚えています。その後、1500人を収容する神集閣が出来てからは、地区ごとに分けてこの神集閣で行っている。これも昔に較べて日数は要するが、雨や熱中症の心配がなく、よい事だと思う。ただ、祝賀行事であるので全国一斉の場合にくらべ、盛り上がりは欠ける。また、この行事は参加者が多いので、7月26日から8月12日まで延々と続く。

          

          余興の踊り                     福 引

この間、妹のうらら多磨へは3度行ったが、1度目の時に、冷蔵庫を壊してしまった。この冷蔵庫は単に飲み物や果物を冷やすだけの安価なものだったので、自動霜取り装置がついていない。そのために手動でやるのだが、電源を切って自然に溶かすのは時間がかかる(昨年、半日くらいかかった)ので、ハンマーとドライバーでコツコツと氷を砕き洗面器に約3杯の氷を排除した。この際に、充分気をつけたつもりだが、冷凍庫の部分を傷つけてしまった。大したことないと思って、セロテープで補修して帰った。それが、2度目に行った時に気付くと、全く機能していなかった。当たり前のことだが、セロテープくらいでは補修になっていなかったのです。

この暑い最中なので、あれこれ考えずに、新しい冷蔵庫を入れた。炊事をするわけではないので、飲み物、果物の他にアイスクリームくらいは保存できるものにした。45,000円くらいなので自動霜取り装置は付いていない。この次からは気を付けよう。以前のよりは幾らか上等の品です。

7月21日は参議院選挙の日。たまたまこの日はカラオケ”柳ぎ”の発表会の日。”柳ぎ”の常連が日頃の成果を発表する日である。K君と私は聴くだけにして歌わないことにしていた。朝早く、投票を済ませて、11時からのこの会に参加した。発表会が始まると、素人とは思われないように皆お上手!K君ならひけをとらないと思うが、私は歌わないことにしていてよかった。14時半頃に休憩があったので、私はここで席を立って、府中のうらら多磨へ行き、妹の投票を手伝った。妹は選挙にだけは前向きなのです。18時頃帰宅して慌ただしい一日が終わった。

実は、月初め4日~7日、斉藤ホテルで過していた頃、手稲会の旧友、垣見俊弘君のお通夜と告別式が、取手の教会で行われていた。この通知を受けたのは3日の昼頃、妹のうらら多磨へ行く途中だった。

垣見君は旧制中学(旧札幌一中、現札幌南高)の旧友である。旧制中学といえば、現在の中学1年から高校2年までの在学期間であり、彼はその在学中の、約8割の期間は級長だった。学業優秀でスポーツ万能。常にクラスの先頭に立ち、戦時色濃厚な時代の学校教練の全校行事では常時は小隊長、時には中隊長として活躍していた。学徒動員で派遣された手稲鉱山でも、級長の任は変らなかった。終戦後は、今でいえば飛び越し入学で北大予科に進み、その後の学制改革にあっても、旧制最後の大学卒業生であったと思う。卒業後は通産省に進み理学博士の称号を得、国立地質調査所長を最後に退官した。従四位勲3等の叙勲を受けている。

現役中は、バラバラであった旧級友達が、集まり始めたのが約25年前。戦時中に苦楽を共にした手稲鉱山の名をとって、このクラス会を”手稲会”と名づけた。この手稲会でも、勿論中心的な存在であったが、2年ほど前に、自宅で2度転び、打ち所が悪かったのか、以後、急速に衰え7月1日に逝去した。ほかに肺癌の末期状態でもあったらという。在学中も手稲会でも、大変にお世話になっており、しかも、彼の令夫人と私の家内が、旧制女学校時代に同級生であったという奇しき縁もある。手稲会は原則夫人同伴なので、夫婦同士でも長い付き合いでもあった。

斉藤ホテルはキャンセルすべきか。随分迷った。しかし、仕事の材料を宅急便で送ってもあるし、この機会を逃がしては、家内との旅行の機会は当分望めないので、後ろ髪を引かれる思いで、垣見夫人へ葬儀欠席の挨拶をした。もとより気さくな人柄で、気兼ねのない人で快く諒解してくれて、かえって、私の健康状態を案ずる言葉を頂いて、やはり心苦しかった。

その後、7月中は上記の如くで忙しく、やはり弔問は、家内と一緒と思って、8月1日にその機会を得た。逝去から1ヶ月。遅きに失した感もあるが、この日しかなかった。葬儀欠席の失礼はあったが、長年の付き合いで、気心も知れているので、何のわだかまりもなく弔問できた。少し長すぎるくらい話し込んで、栄養食品まで貰って帰った。何となく、肩の荷が下りた感がする。