gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

護送船団方式

2011-05-22 17:42:15 | 社会・経済

 浅羽通明著「教養論ノート」(リーダーズノート新書)を読んだ。この著作で語られる「世間」とは何か、「教養」とは何かについての説明に感心し、文系は、この種の話題について語るのがうまいなあ、と思う。

 この著書の中に、何回か「護送船団方式」という言葉が現れる。私は、「護送船団方式」とは、官僚指導により国が各種企業という船団を率いて経済成長という目的に向かって邁進する方式、というように解釈していた。しかし、この方式は、官僚や企業だけにとどまらず、高度成長期の日本社会全体を支配するバックボーンとなっていたのではないか、と考える。この方式は、地域のコミュニティや各家庭にも浸透し、高度成長期を語るときのキーワードとして使えるのではないか、というわけである。ただし、地域コミュニティや家庭が対象となると、「船団」とは、企業や組織ではなく、人々ということになる。

 日本人の国民性を一言で表現する言葉として、「集団主義」というものがある。「護送船団方式」の代わりに「集団主義」という言葉で日本社会を表現しても よいのだが、「集団主義」は、官公庁や企業の態様を説明する言葉としては適当かも知れないが、地域のコミュニティや学校や家庭を支配する空気を一言で表現するには、「護送船団方式」の方が適しているように思える。

 「護送船団方式」は、高度経済成長とともに存在していたわけだから、バブルが崩壊し、経済成長が止まるとともに、衰退することとなった。経済成長が華やかな頃、地域のコミュニティは活況を呈しており、人はある地域に生まれるとともに、無条件にそのコミュニティに参入することが許されるのであった(地域コミュニティが「世間」というものの主な舞台でもあったわけである)。従って、私の少年期や若い頃には、およそ「ひきこもり」のような社会現象が見当たらなかった。経済成長の停滞とともに、多くの地域コミュニティ、特に都会にあったコミュニティは衰退していった。人は、孤独になるのを恐れ、ケータイやパソコンなどのツールを使うにせよ、そうでないにせよ、自力で他人とのソーシャル・ネットワークを構築する他ない時代となった。そして、このようなネットワークを形成できない者は「ひきこもり」の状態に陥るほかないこととなった。

 家庭についても、同様の変革を避けることができなかった。かつての家庭は、家族構成員の間がしっかりした絆で結びつけられているように思えた。今にして思えば、これは日本社会を支配する空気がわけへだてなく各家庭にも及んでいたのであった。現在では、家族構成員がバラバラの個人に分かれてしまったような家庭も珍しくない。これをもって、「家庭崩壊」と呼ぶ人もいるが、同意し兼ねる。それは、かつての「護送船団方式」を懐かしむノスタルジアに他ならないからである。家庭は、一度バラバラの個人に解体すればよいのである。そして、そこを原点として家族構成員の間でどのような相互関係が作れるのか、関係を構築して行けばよいのである。

 かつて企業戦士などの名で経済成長を支えていた「おやじ」は、家庭内の中心人物のようにみえたが、その後、どうなったのか。「おやじ」の中には、専業主婦の妻に向かって、「だれに食わせてもらっているのだ」というような言葉を投げつける人もいたが、それは無意味な駄弁であるから、やめた方がよい。かつてのおやじもまた、日本社会のバックボーンとなっていた空気に洗脳された人物に他ならなかった。現在では、「おやじ」は、妻や子供たちと一緒に横一列に座する一個人とみればよい。今では、見かけ上「存在感のない」おやじが理想的にみえる。おやじは、子供を自立の方向に導いて行くとか、妻の視野を少しだけ広げるとか、長期的な戦略をもって家族構成員の人間的成長を促すように、さりげなく動けばよい。実際にうまく行くか否かは、構成員の自覚次第ではあるが。

 日本社会の変革は、結婚に至るまでの手続きにまで及んだ。かつて、地域コミュニティや親族の中に結婚の世話をしてくれる人がいた。「護送船団方式」が崩れるとともに、このような人はいなくなった。結婚を望む者は、結婚相談所を利用するにせよ、そうでないにせよ、自力で結婚相手を探すほかなくなった。

 このような結婚手続き上の変化とともに、結婚観も変わることになった。すでに、女性にとっても、「結婚=しあわせ」の方程式が成り立たなくなっている。結婚するとしあわせになることもあるが、しあわせが幻想のまま終わることも少なくない。今まで、娘に向かって、「早く結婚しなさい」と言っていた親は、「結婚すればだれでもしあわせになれる」という数学でいう公理を信じていたからだ。この公理が崩れてしまった現在、もはや自分の子供に向かって「結婚しなさい」というのは、適切ではない。