先日の「白紙プログラム」について。
4人で決めたグループワークのシークエンス。最終ゴールは「クループで親近感や一体感を実感してもらう」ことを目指して1日かけて仕掛けてきた。
そしてその夜の打ち合わせである程度の達成感と充実感を感じていた4人のファシリテーター。この目標を高めていくことを次の日にひきつづくこともできた。しかしあえてそれを選ばないことを選択する。
このグループワークの現状は、我々4人がコントロールしたものの結果なのでは?という仮説。いや、本当はそんな事を考えなくても十分グループは成長し、信頼感やコミュニケーションの頻度も高まりつつあった。そして研修にきていた彼等のそれぞれのニーズにも応えられるほどのクオリティの高いプログラム提供が出来ていた。
それなのに、それなのにー。私たちは、私たちの成長のために一旦リセットした。シークエンスを再構築したのだ。目標設定を気道修正した。目的は変わっていなかった。そのことを4人はもう一度確認して、グループの目標設定(当然、裏の設定として)をワンランク上に引き上げた。
あえて難しい課題にしたのだ。そしてもう一度その課題解決の方法を話し合い始めた。
そして浮かんだアイデアの一つが「白紙プログラム」である。それは参加者に行動や思考を任せてみるというもの。明日のアクティビティはハイエレメントである。しかも「クライミングウォール」。それはグループの中に怪我をしているメンバーがいたから、梯子からステープル(U字の金具で柱についていてそれを登る)で高いところに登っていけない。クライミングウォールなら梯子からロックに手をかける迄のチャレンジができる、と踏んでの選択だった。
それも本人の行動の決定は完全に任せるし、その行動についての振り返りも各自に任した。
その結果だけを報告するなら、怪我をしていたメンバーはチャレンジしていたが、それをみてウォールをチャレンジした高所恐怖症?のメンバーは梯子に足をかけることはなかった。
そして彼等はグループに対して自分の気持ちやグループに対しての感情を述べることはなかった。振り返りの時間を人の話を聞くことに使っていた。
少し時間を戻る。
ファシリテーター4人での話し合いは、その「白紙プログラム」を議題に熱く語り合う。どんな感想がでてくる?その怪我をしたメンバーがチャレンジして、それをみて、彼がチャレンジして、振り返りでグループに感情を語って・・・、その振り返りを誰もコントロールしない。ファシリテーターは、そばで聴いているだけだ。
それも話し合った。離れた方がいいんじゃないか?関係ないのでは?円の中にいる?など。
結局円からは少し出て、そばで聴くことになるのだが。
その振り返りの場所についてはひとつのアイデアを出した。「ジャイアントシーソー」の上に座って振り返りも出来るよって。会話の流れが彼等の選択に左右するということが、そのシーソーの使用されるファンタジーをメタファになっていてイイねってことで決定。そう、シーソーを船に見立ててクジラを観にいくホエールウォッチングというアクティビティは知っている人は知っていて「面白い」。完全に自己満足かもしれないけど、遊び心というかモチベーションアップする要因だったりする。
で、シーソーの下に木材をはめて、動かないようにした。そのウッドデッキに13人が腰掛けて狭いフィールドに収まる振り返りは個人的にも嫌いじゃない。しかもグループの雰囲気も良くなる。無理矢理近付くシチュエーションだ。
そして彼等に説明する。
「今から20分間は皆さんだけで話をする時間です。この2日間で感じたことを自由に話して下さい。ではこのiPhoneを真ん中に置いて20分後にこの音が鳴ったら終了になりますので、お願いします」
その音は直前に決定したのだが、家のピンポンの音にした。正直ストップウォッチで行ないたかったんだが、施設のそれにその機能がなかったのだ。
その20分は彼等の振り返りを聴きながら「絶対にメールましてや電話なんか掛かってくるなよ!」と祈るような気持ちで見守っていた。結局鳴らなかったので良かったが。
彼等はその振り返りでハイエレメントの「モヤモヤ感」を話し始める。昨日迄の達成感や一体感から本日のクライミングウォールでのゴールに達しないことを差している。つまり「ゴールすることができないことで達成感が半減した」という人がいてメンバーに投げたのだ。すると同調する人もいた。
しかし応援してくれたこと、声をかけることの難しさを言い出すメンバー。さらに晴れ晴れした顔でそれぞれの仕事を一生懸命することでチームを感じた、という人も出てくる。
そして1人だけチャレンジしなかったメンバーに「どうだったの?」と聴くメンバーがいたり、それを当人はうまく応えられなかったり。
正直、グループの関わりがまだまだ遠慮していて本気ではない浅い関わりをしてきたのかもしれないと感じられるものだった。いや私にはそう感じた。
確かに大人なので仲良くするグループに演じる事は簡単だ。メール交換して取り繕えばいい。うわべだけの関係を作ればいい。ファシリテーターがそのゴールを勝手にメンバーに投げかけて評価する事も出来る。
実際、他の班の参加者に聞き取り調査をすると、グループワークの時間にはファシリテーターの声掛けに疑問を感じたり、明らかにゴールに近づけるような、答えを明らかに持ってファシリテーションしているような現状があったようだ。
しかし我々の班の白紙プログラムでの結果はファシリテーターの主観や答えは一切なく、彼等が選択した話題であったし、答えであった。
全員に答えを聴く事もせず、ファシリテーターとしては確かに望みどおりいかなかった。しかしそれが我々の希望だったのだ。
私たちは私たちの作った壁を乗り越えた。そもそも我々は参加者との立場は変わらない参加者である。同じ金額を参加費として払い、なぜそこまでストイックに睡眠時間を削るのだ。
それは自分のパラダイム(思い込みや決めつけ)をシフトする(変える、もしくはぶち壊す)ための自分たちの選択だった。
そう考えると参加者側の人たちより確実に大きく変化した。何故なら自分の体験を自分の仕掛けでコントロールできるチャンスが多かったから。しあわせだったのかもしれない。
つくづくラッキーな男である。
最後に、長々と書いたこの内容を読んでくれたあなたへ。
ありがとう。私のこのラッキーをあなたへ。少しはイワンとする事が理解していただけたのだろうか?
4人で決めたグループワークのシークエンス。最終ゴールは「クループで親近感や一体感を実感してもらう」ことを目指して1日かけて仕掛けてきた。
そしてその夜の打ち合わせである程度の達成感と充実感を感じていた4人のファシリテーター。この目標を高めていくことを次の日にひきつづくこともできた。しかしあえてそれを選ばないことを選択する。
このグループワークの現状は、我々4人がコントロールしたものの結果なのでは?という仮説。いや、本当はそんな事を考えなくても十分グループは成長し、信頼感やコミュニケーションの頻度も高まりつつあった。そして研修にきていた彼等のそれぞれのニーズにも応えられるほどのクオリティの高いプログラム提供が出来ていた。
それなのに、それなのにー。私たちは、私たちの成長のために一旦リセットした。シークエンスを再構築したのだ。目標設定を気道修正した。目的は変わっていなかった。そのことを4人はもう一度確認して、グループの目標設定(当然、裏の設定として)をワンランク上に引き上げた。
あえて難しい課題にしたのだ。そしてもう一度その課題解決の方法を話し合い始めた。
そして浮かんだアイデアの一つが「白紙プログラム」である。それは参加者に行動や思考を任せてみるというもの。明日のアクティビティはハイエレメントである。しかも「クライミングウォール」。それはグループの中に怪我をしているメンバーがいたから、梯子からステープル(U字の金具で柱についていてそれを登る)で高いところに登っていけない。クライミングウォールなら梯子からロックに手をかける迄のチャレンジができる、と踏んでの選択だった。
それも本人の行動の決定は完全に任せるし、その行動についての振り返りも各自に任した。
その結果だけを報告するなら、怪我をしていたメンバーはチャレンジしていたが、それをみてウォールをチャレンジした高所恐怖症?のメンバーは梯子に足をかけることはなかった。
そして彼等はグループに対して自分の気持ちやグループに対しての感情を述べることはなかった。振り返りの時間を人の話を聞くことに使っていた。
少し時間を戻る。
ファシリテーター4人での話し合いは、その「白紙プログラム」を議題に熱く語り合う。どんな感想がでてくる?その怪我をしたメンバーがチャレンジして、それをみて、彼がチャレンジして、振り返りでグループに感情を語って・・・、その振り返りを誰もコントロールしない。ファシリテーターは、そばで聴いているだけだ。
それも話し合った。離れた方がいいんじゃないか?関係ないのでは?円の中にいる?など。
結局円からは少し出て、そばで聴くことになるのだが。
その振り返りの場所についてはひとつのアイデアを出した。「ジャイアントシーソー」の上に座って振り返りも出来るよって。会話の流れが彼等の選択に左右するということが、そのシーソーの使用されるファンタジーをメタファになっていてイイねってことで決定。そう、シーソーを船に見立ててクジラを観にいくホエールウォッチングというアクティビティは知っている人は知っていて「面白い」。完全に自己満足かもしれないけど、遊び心というかモチベーションアップする要因だったりする。
で、シーソーの下に木材をはめて、動かないようにした。そのウッドデッキに13人が腰掛けて狭いフィールドに収まる振り返りは個人的にも嫌いじゃない。しかもグループの雰囲気も良くなる。無理矢理近付くシチュエーションだ。
そして彼等に説明する。
「今から20分間は皆さんだけで話をする時間です。この2日間で感じたことを自由に話して下さい。ではこのiPhoneを真ん中に置いて20分後にこの音が鳴ったら終了になりますので、お願いします」
その音は直前に決定したのだが、家のピンポンの音にした。正直ストップウォッチで行ないたかったんだが、施設のそれにその機能がなかったのだ。
その20分は彼等の振り返りを聴きながら「絶対にメールましてや電話なんか掛かってくるなよ!」と祈るような気持ちで見守っていた。結局鳴らなかったので良かったが。
彼等はその振り返りでハイエレメントの「モヤモヤ感」を話し始める。昨日迄の達成感や一体感から本日のクライミングウォールでのゴールに達しないことを差している。つまり「ゴールすることができないことで達成感が半減した」という人がいてメンバーに投げたのだ。すると同調する人もいた。
しかし応援してくれたこと、声をかけることの難しさを言い出すメンバー。さらに晴れ晴れした顔でそれぞれの仕事を一生懸命することでチームを感じた、という人も出てくる。
そして1人だけチャレンジしなかったメンバーに「どうだったの?」と聴くメンバーがいたり、それを当人はうまく応えられなかったり。
正直、グループの関わりがまだまだ遠慮していて本気ではない浅い関わりをしてきたのかもしれないと感じられるものだった。いや私にはそう感じた。
確かに大人なので仲良くするグループに演じる事は簡単だ。メール交換して取り繕えばいい。うわべだけの関係を作ればいい。ファシリテーターがそのゴールを勝手にメンバーに投げかけて評価する事も出来る。
実際、他の班の参加者に聞き取り調査をすると、グループワークの時間にはファシリテーターの声掛けに疑問を感じたり、明らかにゴールに近づけるような、答えを明らかに持ってファシリテーションしているような現状があったようだ。
しかし我々の班の白紙プログラムでの結果はファシリテーターの主観や答えは一切なく、彼等が選択した話題であったし、答えであった。
全員に答えを聴く事もせず、ファシリテーターとしては確かに望みどおりいかなかった。しかしそれが我々の希望だったのだ。
私たちは私たちの作った壁を乗り越えた。そもそも我々は参加者との立場は変わらない参加者である。同じ金額を参加費として払い、なぜそこまでストイックに睡眠時間を削るのだ。
それは自分のパラダイム(思い込みや決めつけ)をシフトする(変える、もしくはぶち壊す)ための自分たちの選択だった。
そう考えると参加者側の人たちより確実に大きく変化した。何故なら自分の体験を自分の仕掛けでコントロールできるチャンスが多かったから。しあわせだったのかもしれない。
つくづくラッキーな男である。
最後に、長々と書いたこの内容を読んでくれたあなたへ。
ありがとう。私のこのラッキーをあなたへ。少しはイワンとする事が理解していただけたのだろうか?