ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

冒険教育と僕014

2016-06-12 | 教育
振り返り②

彼に出会った2015年は僕にとって厄年であるわけがない。ラッキーなラキ年である。

先日の研修会で経験のあるファシリテーター達に「振り返りをしない体験はただのレクリエーション」と惨殺された研修会

違和感を家に持ち帰って少し悩んでいた。

その事を相談すると彼は
「振り返りはするべき時にする」

それが彼のことばである。

「振り返りを必ずする」と決めてしまうファシリテーターはグループを見ていないのだというのだ。(彼の言葉)

そして「たった1日で答えを出そうとするあまり」のつじつま合わせの様なもの(僕の解釈として)

グループが「振り返りができる状態」ってどういう状態ですか?

ということなのだ。(彼の言葉)

「僕なら『振り返りを必ずしなければいけない』とする彼らにそう質問をする」と言ってくれた。

僕は何か救われた。

僕が感じていた違和感を代弁してくれた様だった。

1日でしかプログラムを行っていないファシリテーターは、そのことに盲信してしまうのだ。マトリックスの繋がれた人たちの様に。

僕がネオの様にファシリテーター談義で違和感を感じていたのは、繋がれた自分を無意識で感じていたから。

僕のアンテナの整備方法は間違っていないということになる。

振り返りができる状態
それはグループが安心・安全な場所になること、つまりCゾーンになることである。

それには1日でできるのかと考えるなら、足りないのだ。

1年?3年?10年?

大げさではなく本当にグループがCゾーンになるのは時間がかかるのだ。

そのことを考えながらアイスブレイクでグループを少しずつCゾーンに近づけていく。

そう考えると、「必ず振り返りをしなければいけない」と言っていた人たちの思いは極端に小さな世界であったことに気づかされる。

まるでZOOMの世界

僕は自分自身の違和感を大切にしながら
参加者が求めているものを大切にして寄り添っていきたいと思ったのであった。

冒険教育と僕013

2016-06-07 | 教育
振り返り

先日の研修で僕は振り返りの手法や考え方を、多くの方々から吸収しようと投げかけた。

その時に振り返りする事が当たり前で、
振り返りしないことはだだのお遊びだ!
というような風潮に違和感を感じた。

僕は本当にグループで活動する事が厳しいグループへのアプローチとしてのアイスブレイクを行って、それでもグループ活動も難しい人たちへ「振り返り」の時間を取る事って本当に必要なの?

その一石は波紋を呼び、4人でグループで話をしたら僕は総攻撃を受けた。

振り返りもしないファシリテーターは、認めない!

僕はその槍玉にあがった。

その時に僕はベテラン(?)のファシリテーターの人たちからの見えないプレッシャーで

振り返り

という自分を見つめる時間の大切さを無理やり植え付けさせられた。

その場では僕自身の怠惰な態度や振り返りに対しての浅はかな知識を反省して、全体のコメントに残した。

しかし1日寝た時にもう一度「振り返り」というものの位置や役割に疑問点が生じてしまった。

振り返りの時間の必要性

本当に必ずどんな状況でも必要な時間なのだろうか?学びを促すのには絶対に行わなければならない作業なのだろうか?

振り返りをしないゲームはただのレクリエーションなのだろうか?それを行わないファシリテーターはファシリテーターではないのだろうか?

そんなファシリテーターの中の見えない「常識」みたいなものが僕には異質なものに思えてしまっている。

寄ってたかって「振り返り」を当たり前なものにしていることこそ「パラダイム」を生んでいるのではないだろうか?

僕はすべての常識を疑ってみたい。
「体験学習の振り返り」という常識を

答えは出ないかもしれない。

僕はでも考え続けていたい。
すべての事柄を当たり前にしないために。

冒険教育と僕012

2016-02-06 | 教育
人を見る。

このトレーニングは日常生活で充分出来る。

コンビニのレジ
横断歩道
電車の向かいの人
病院の待合室
仕事仲間
遊んでいる時の友人

この人が何を考え
何を感じ
何を求めているのか。

僕は偉そうなことを言いながら
大好きな人たちを傷つけてきているのだが、
まだまだ修行不足だという戒めである。

でも日々人を見る修行は続くのだと思う。
それは辛い修行ではなく
とても面白いし勉強にもなる。

下手をすると
国語・算数・理科・社会・人間
と言うくらいクラスメイトを見る授業があれば
いじめもなくなるのではないだろうか?

勉強が不得意でも「人間」という教科の成績が異様に高い人もいたりするかも。

道徳なんて堅苦しい。
人から学ぶものでもない。
考える必要があるんだから。

人間という教科の専門の学校があったら素敵だな。

これからは必要になるのかもしれないね。
AIやロボット産業の対極にあって
ないがしろにされそうな分野。

みんなでかんがえましょう!

冒険教育と僕011

2016-02-03 | 教育
自分の事を好きになる。

結局チャレンジするには勇気が必要。
そのベースに「自分の事を好きになる」事が大切である。

チャレンジできる自分
頑張った自分
悔しくても這い上がろうとした自分
誰が見てくれているかとか関係のない自分
できるのに諦めた自分を嫌いな自分

ネガティブでもいい。
ネガティブな自分を変えたいと思う自分
今は勇気が出ないけど、一歩踏み出そうとしていた自分

少しずつでいい。
他人から遅れていても関係ない。
自分の心の中で思えばいい。

そういう声かけをしていきたい。

比べる世界で生きる人間
早いだ遅いだ。
点数高いだ低いだ。
そうやって人と比べて幸せを感じたり不幸を感じる世界しか知らないのは、それこそ不幸なのだ。

Twitterやfacebookでも他人のリア充に嫉妬し、
非現実に逃げていく。
自分が傷つかない世界に入り込んでしまう。

楽だから。

現実世界のチャレンジなんてバカらしい。
エネルギーが有り余る人だけが生きていく世界。
そんな風に諦めてしまう。

やっぱり近くにいる大人が素晴らしき世界を見せていかねばならない。

近くで愉快な体験談を愉快に語るべきである。

「こんな大人になりたい」

と思ってもらえる。
そのために人は生きているのだから。

冒険教育と僕010

2016-02-01 | 教育
アクティブラーニング

最近言われ始めているらしい。
詳しく知る人に言わせると「主体的に学ぶ」をさせるという。

その手法や指導法は具体化されていないのだと。

現場に無茶振りなのだ。

戸惑うだろうね。
現場。

研修で具体的に教えてくれるのだろうか?

冒険教育のエッセンスが少しでも「アクティブ」な「ラーニング」に繋がるなら一緒に考えていきたいものだ。

結局、自分たちで問題解決させていくようなアクティビティや声かけをずーっとやってきたんだから。

結局答えは教科書じゃなくて、
自分が見つけ出すってことでしょ?

基本的な知識の記憶は必要だと思うけど、
それって学びじゃなくて暗記だからね。

そこからいかに定着させて、
知識を材料にして、考える力をつけさせるかってことでしょ?

やっぱ、指導者側がいかに学び続けていかないといけないかということだわさ。

指導者側がいかに教科書を教え伝えることに脳のスペックを使っているだけじゃいかん!

その材料で考えて、使って、実行していく具体的なものを作り上げていかないと。

だから「遊び」なんだよね。

「遊び」の中にはその全てが詰まっている。

「遊び」と言っても鬼ごっこやゲームじゃなくて、
自分たちが楽しいと思ったことを実現する遊びのこと。

そこには大人が乗り越えなきゃいけない時間の問題や人間関係、金銭的な負担や倫理、そもそもの楽しさの度合いなとの総合的な企画力や実行力なんだよ。

いや、遊んでんのか?って。