蹴球放浪記

緩まない、緩ませない。
横着しない、横着を許さない。
慌てない、「だ」を込める。

「ささえる」って、いったい何なんだろう?

2008-05-26 01:05:10 | 現地観戦記

まだいろいろな意味で頭がこんがらがっている。

 

レベ森で久しぶりにサッカーを見る。
福岡はあまりにもふがいなく、そのふがいなさの責任を押し付けあっている、という
一連のなんだかんだのおかげで今日のスタンドの空気はすごくぴりぴりしていた。
スタンドのデコレーションもない、コールや歌、太鼓もない、
あるのはいつもスタンドの空気を作っているグループが書いた
「ふがいなさの責任をフロントに押し付けている」内容の抗議文のみ。

 


ただスタンドのそれぞれが手拍子と「声」という細かな感情の出し入れを
使って雰囲気を作っている。
手拍子でも見る人の勘所のよさしだいではすごい力になるのだ。
それが証拠に前半、不用意な形でPKを取られても「入るな、入るな」と
手拍子がリズムを作り、そのリズムがプレッシャーになって点、取られなかった。
・・・見たところ、今年の3月、大分でのプレマッチ以来の雰囲気だ。
いつものように中心になって雰囲気を作っているグループの「仕切り」より
選手の動き方が格段に違う、のびのびと試合をしている。
のびのびとできているからスタンドも調子が合う、
こうなると試合全体がいいようにスィングしてくる、してくると点が入る、
点が入るから負けない、そういう連鎖に結果としてなってしまう。

 

試合前、責任をフロントに押し付けてきた「だけ」のグループの仕切りがないから
「いい試合」になった現実をその人たちは感じなくちゃいけないと思う。
普通の見手のほうが一つ一つの質をよく知っている、ということも。
いままで「やればできる子だから、大丈夫」という空気を作ってこなかった、
という現実が見えてしまって、勝ったけれど複雑だった。
結局、そのグループの仕切りは選手に負担を与えるだけだったのか?
力を与えることなく、ということは今まで何をしていたのかな?
当分、このグループの仕切りを「段階的」に抑えたほうが選手にとって
いい環境になるのでは、と正直思った。

最近、「支えている」自分に満足して、「支えられている」相手に
精神的な負担をかけてはいないだろうか、相手はきちんと思いを
受け止めて力にできているだろうか、そういうことを考えた。

 

「ささえる」って、いったい何なんだろう?



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