平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2006年7月9日

2006-07-25 00:41:32 | 2006年
コロサイ1章13~22節
キリストにより、造られ、贖われた私たち

 私たちの造り主は、神様です。天地創造のとき、天地の創造主なる神様は、「光あれ」、の第一声をもって事をはじめられ、この世界を造られました。そして、天地創造の最後に、ご自分の似姿としての人間を造られました。
 私たちは、土の塵から造られたことになっています。土の塵から造られた者でしたが、神様から命の息を吹き入れられて、生きる者となったのでした。私たちの命は、いつから存在しているのでしょうか。
 もともと神様のみもとに私たちの命はあったのでしょうか。それとも、ある過程のなかの、ある時点で、神様から命の息が吹き入れられて、命の誕生ということになったのでしょうか。皆さんは、皆さんを造った方がどのような方なのか、気になりませんか。
 ひと目、お会いしたいと思われませんか。私たちは、神様のみもとに召されるならば、そのとき、神様とあいまみえることになるのです。どのようなお方なのだろうと考えると、とても怖い気もします。
 ただ、神様の似姿をもって、私たち人間は造られたということですから、私たち人間のようなお姿を想像する以外にはありません。もし、誰それが、この自分を造ったということがわかっていて、その造られた方が、目に見える形で、そこにいたら、私たちはどういう気持ちになるのでしょうか。
 ただし、こういうことを考え、神様の具体的なイメージを描くことにどれだけの意味があるかは、わかりません。むしろ、考えない方が自然で、いいのかもしれません。ただ、私は、今回、少しだけ、神様とはいったいどのようなお方なのだろうと、思ったのです。
 そのお方から、私という人間を造ってもらったということを意識的に感じようと思ったのです。というのも、私たちというのは、自分の力で生まれて、自分の力でこれまで成長してきたのだと、自然とそのように思ってしまっているのです。そうではありませんか。
 私の中でも、やはりそうした感覚のほうが勢力的には多くを占めているように思うのです。頭では、神様が造られたのだと思うように、という指令がでているのですが、実際の感覚は、今も申しましたように、自分の力で生まれ、自分の力でこれまで成長してきたといった感覚なのです。
 しかし、真実は、神様がこの私を造られ、命を与え、こうして成長させてくださったのです。もちろん、そこには父親、母親が介在しているのですが。そして、おそらく、この肉の体も、皆さんの体も、時がそれぞれに設けられて、終わりを迎えることになるのですが、救われた命は永遠なのです。
 ところで、今日の聖書の箇所は、父なる神様という説明ではなく、御子が、つまり、イエス・キリストが、私たちを造ったといっているのです。私たちキリスト教の神概念は、三位一体の神概念ですから、御子なるイエス・キリストが聖書にありますように、万物を造られたということでもいいのでしょう。ただ、実際、そういうことはあまりイメージとしては、私たちはもっていません。
 しかし、よくよく考えてみますと、ヨハネによる福音書の冒頭部分は、「初めに言があった。言は、神と共にあった。言は、神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った」とあるのです。そして、あとの文章を読み進めていきますと、この言は、イエス様のことを言っているのだと、理解できるのです。
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。この言であり、ひとり子なるイエス様が、私たちを造ったと書いてあります。「万物は御子によって、御子のために造られました」。
 私たちが造られた目的は、御子のために造られたとありますから、私たちの歩みというのは、その御子なるキリストの御心を求めていくことだということになるでしょう。どうすることが、イエス様のためになるのか、いや、どうこうしようということではなく、私たち一人ひとりの存在が、結局は、歴史を作っていく上で、イエス様のご計画の小さな歯車や部品となって、用いられるのだ、そういうことなのでしょうか。
 それなら、それで、うれしいことではあります。主のご栄光が現れることに、私たちの存在が用いられるというのであれば、これは喜ばしいことです。
 ただ、愛するためにイエス様は私たちを造ってくださった、そのような理解も私たちはいただいております。それから、ここでも、「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」とあって、「この言は、初めに神と共にあった」というように、初めから、おられた、神と共におられた、そのようなお方として、イエス様のことが描かれているのです。
 イエス様が、この私をも造ってくださったと考えると、私たちは、異様な感覚にならないでもありませんが、一方では、父なる神が造ってくださったと考えるよりは、近くに創造者のお姿を感じることができます。福音書に出てくるやさしいお姿を思って、私の父であり、母なる神様と自ずと口にでてくる方もおられるでしょう。
 ただ、忘れてならないことは、このイエス様は、十字架におつきになられたお方であるということなのです。そして、さらに、18節に、「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました」とあるように、復活されたお方でもあり、その方からいただく命は、新しい創造による、新しい命というものをイメージさせます。
 イエス・キリストによる私たち人間の創造は、単に、この世における命をいただいたという最初からの創造と同時に、新しい命をさらに加えられたということではないでしょうか。限りあるこの世での命と、神の国における新しい永遠の命の二つが、キリストによって与えられたということではないでしょうか。そうしますと、すべてにわたった私たちの造り主ということになります。
 そして、新しい命は、イエス・キリストの贖いによるものでした。「その十字架の血によって平和を打ちたて、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられました」。
 私たちの命はキリストによって創造された命でありますが、21節「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」とあるように、一度は、神様に背を向け、遠く離れて、自分のことしか考えられない罪に堕ちた失われた命でもあったのです。そのようにして敵対していた私たちは、イエス様の十字架によって、贖われたのでした。
 私たちは、イエス・キリストによって造られ、命を与えられましたが、その神様に背を向け、遠くはなれ、罪に陥り、滅びに向かい、失われてしまった命でした。しかし、同じイエス・キリストの、十字架によって、その罪を贖われ、再び命を与えられ、今度は、新しい命を、永遠の命を与えられた者となりました。
 死んでいたのに、生き返り、いなくなっていたのに見つかった者たちとなりました。22節「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」。
 私たちは、わたしの命の行き先を心配する必要はありません。私の命は、キリストが創造され、キリストが贖われた命なのです。すべての命がそうではないでしょうか。どの命ももれることなく、そうであります。私たちの命は、どれ一つをとっても、キリストの前に大事にされ、慈しみを受け、愛されている命なのです。完璧にせられた命なのです。
 私たちの命は、キリストの十字架によって贖われた命ですし、キリストの復活により約束された、新しい命、永遠の命なのであります。
 万物は、キリストが造られたということです。私たちは、キリストに造っていただいたことを何よりも喜ぼうではありませんか。他でもない、キリストが造られたということがうれしいのです。そしてそのとき、私たちは造られた者同士の互いの存在に思いを馳せます。この人は、キリストの作品で、あの人はそうではない、そういうことはありません。
 あの人もこの人もキリストが創造された方々であり、それは人間だけではありません、造られたものすべてのものは、キリストの作品なのです。そのように思うとき、私たちは、被造物すべてを主が愛され、慈しまれていることを知り、私たちも同様に、互いに、被造物へ向ける思いやまなざしをキリストがもたれたように導かれるのです。
 今日の聖書の箇所は、命の問題を初めから永遠に亘って、全体として考える道筋を私たちに与えてくれます。ということは、私たちも、命の問題を決して、いただく初めだけで考えることも、また、いただいたこの体の最後のときだけで考えることも、それで幸せだったとか、そうでなかったとか、考えることもしてはらないし、できないのではないかと思うのです。
 人生の最高によいときだけで、考えてもならないし、人生のどん底のときだけで、考えてもならないのです。長いスパンで、トータルに人生を考えることが必要なのではないでしょうか。終わりの一時期だけが、人生ではありません。
 終わりの一時期だけで、私たちの人生を総括するなら、キリストを知らない多くの人々の人生が、最後はつらい、苦しいもので閉じられることになるでしょう。イエス様が与えられた、命の初めから、恵みの数々を思い返し、そして、そのときどきに、イエス様がおられて、支え、励ましてくださったことを思い返すのです。
 イエス様に背を向け、罪に陥っていた日々から、イエス様が、羊飼いとして、迷う私たちをご自分のところへ連れ戻してくださったことを思い返すのです。病のときも、苦しみのときも、主が支えられたことを思い返すのです。主は共におられた、そしてこれからも、その主は、最後の最後まで、世の終わりまで、共におられる方なのだということを私たちは知らされているのです。
 そして、この世が終わりを告げた後もなお、イエス様は共におられる方であります。私たちの人生は、はじめから、終わりまで、永遠のときまで、主の御手の中にあるのです。であるなら、私たちの人生は、どれもこれも、主のご栄光をあらわすべく、祝福されたものに違いないのであります。
 私たちは、主により造られ、主によって贖われたのです。この二つの共通のテーマは、愛されているということです。愛ゆえにいただいた命です。奪われることではなく、与えられたということです。主による御業がこの私の上に成されたということです。主がこの私と共におられたということです。そして、これからも永遠に。

  最後に詩篇の139編の1節から18節を読みます。
 「主よ、あなたはわたしを極め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くもの伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上においていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、黄泉に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のなかに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。わたしは言う。『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す』。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織り成された。あなたには、わたしの骨もかくされてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。」

 私たちの命とすべての営みは、イエス・キリストの手の中にあることをおぼえ、すべてを主に委ねて、今週も歩んでまいりましょう。

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