平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2020年4月12日 復活の顕現

2020-05-02 10:23:29 | 2020年
ヨハネによる福音書20章11節〜14節
復活の顕現

 あったはずのものがない、ということは大変な混乱と不安とを引き起こします。確かにここに存在していたものがないというのは非常にショックな出来事です。イースターというキリスト教の三大祝祭である復活祭に、なぜ教会に人がいないのか、私はショックです。でも、空の墓を見に入った婦人たちや弟子たちのように、イエス様が墓の中にいないという事実こそ、確かに主は復活されたのだとも思います。あるはずのものがない、ということは聖書ではそれが復活の始まりなのだと伝えます。
 日曜日、復活の日の朝、マグダラのマリアはイエスの遺体を確認するために朝早く、イエスの葬られた墓に行きます。しかし、その洞窟のような墓の入り口は脇へと転がされていました。「墓泥棒だ!」と思ったマリアは弟子たちの所に生き、「主が墓から取り去られました」と報告しました。二人の弟子は走って墓まで生き、身を屈めて中を確認すると、イエスのからだを包んでいた亜麻布と頭の覆いがそれぞれ別のところにおいてあるのを見てイエスは復活されたのだと信じました。
 しかしそれは聖書に書かれた言葉の実現を信じた、というのではなく、イエスの蘇生した命の存在を2人の弟子は確認したことでしょう。新約聖書の多くの手紙を書いたパウロは「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」「死者の復活もこれと同じです…つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」コリントの信徒への手紙一/ 15章20, 42-節といっていますが、そのような復活の理解がされていたかどうかは謎です。復活に対する理解の幅も非常に多様ですが、神われらと共におられるというインマヌエルの主が、十字架に磔にさてなお、私たちと共に復活して生きておられることを常に覚えたいと思います。
 マリアは弟子たちが立ち去った後も、その場に佇み、泣いていました。そして泣きながら身を屈めて墓の中を見ると白い衣をつけた二人の天使に出会います。「なぜ泣いているのか」という問いは、園丁にしか見えなかったイエスにも問われる繰り返される問です。「わからない」という言葉も繰り返される答えです。マリアはイエスの遺体に縋ろうと、そしてそれを見つけだそうとしますが、それは叶いません。なぜならば、それは彼女にとって必要のないものであるばかりではなく、あることで彼女の生き方を狭めてしまうものだったからです。ですから、主イエスは、墓とイエスの遺体に固執している彼女の後ろから声をかけます。復活の主の姿は見えているのに、分からない、それが大変私たちにとって、もどかしくつらいのですが、イエスご自身が「マリア」と個人名を告げられた時に初めて分かったように、私たちの名を呼ばれるイエスの声を背中で聴いたときに初めてその復活者イエスと分かるのです。
 復活者の顕現、とは私たちが思い描いている以外の方法で、ご自身を顕わされます。この後、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて家に鍵をかけて閉じこもるのですがイエスは不思議にも彼らの家の中に立つことがお出来になります(20:19)。通常はいることが容易ではない場所にイエス様は現れてくださいます。そして何よりもその復活者イエスに呼びかけられ、彼と対話することが出来る、ということはヨハネ福音書のイエスの復活の顕現として、注目されてよいことと思います。マリアはイエスと分かると「ラボニ」(私の大いなる方)といって近寄り、イエスに触れますが、「わたしにすがりつくのはよしなさい」といわれます。復活の主のからだに触れることが出来たのが大きな驚きですが、イエスはご自身が約束された天の御国へ居場所を備えること(14:1-4)、約束された聖霊の派遣をなさろうと(14:15-18)、私に縋りつき、とどめてはならない、とマリアにいわれたのです。
 以前、ある方が、「イエスを通らなければだれも父のもとに行くことができない」(14:6)という言葉にショックを受けたと言っていました。それは、イエスを知らなければ、信じなければ天国に行くことは出来ないという断絶の痛みの言葉だったと私は理解しています。使徒たちの宣教では「ナザレ人イエスの名によって立ちあがり・・・」とあるように、イエスを通るとは、信仰者がイエスとはどのようなお方なのか、理解し、信じている事柄がなるのだと、理解してよいと思います。詰まるところ、誰も復活について正しく理解できずとも、不理解を繰り返そうとも、必ず主は顕れてくださるお方であると分かればよいと、ただ、そのことだけを思わされるのです。だから、皆さんの後ろから声が聞こえてくるならば、それはイエス様です。それが私たちの復活の始まりです。


森 崇 牧師

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