平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2018年10月7日 ときが巡り来れば実を結ぶ

2018-12-31 22:12:09 | 2018年
 植物に花が咲き、実が成るようすに、人々は神様の創造の業を見ます。あるいは、魚が産卵のために深い海から故郷の川に戻ってくる姿や、逆に、海に帰っていく姿にも、神様の摂理を感じます。そして、今日の詩篇1の3節では「ときが巡り来れば実を結び」とは、人もそれと同じで、ときが来れば自ずと実を結ぶことを教えています。どのようなことになろうとも、「とき」が来れば、実を結ぶのです。しかし、詩編には、どのような人が、ときが巡り来れば実を結ぶかというと、誰もではありません。「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」、そのような人々であることが前提になっています。「神に逆らう者」「罪ある者」、「傲慢な者」と一緒になって、事を成そう、歩もうとしている者は、ときが巡り来ても実を結ぶことはないということになります。神に逆らう者は、風に吹き飛ばされるもみ殻、裁きに堪えない、神に従う人の集いに耐えない、滅びに至ると言います。さらに、「ときが巡り来れば実を結ぶ人」とは、神様の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人です。神様の教えとは、昼も夜も口ずさむのですから、聖書の御言葉を指していると考えてよいでしょう。また、「昼も夜も」とは、ずっと、絶え間なくということです。そして、次のように考えることもできるでしょう。それは、いいときも悪いときも、とても幸せなときも、その逆でとてもつらいことが続いているときにも、ということになります。どのようなときにも、忍耐して、神様が用意されている実りのときを待つのです。「その人は流れのほとりに植えられた木」ですから、水分をずっと供給してもらっています。つまり、水、神様の御言葉を絶え間なくいただいているのであって、そういう人がときが来れば実を結びます。「葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。とても祝福に満ちた人生です。 . . . 本文を読む

2018年9月23日 ことを始められる方

2018-12-30 10:43:35 | 2018年
 私たちは、この出来事はいったいどこから始まったのだろうと思うことがあります。サムソンが生まれたとき、イスラエルの国は、ペリシテ人の支配のなかにありました。それは40年間続きました。それは、イスラエルの人々が、神様の目に悪とされることを行ったので、そのようなことになったと書かれています。  しかし、神様は、そのような状況のなかでもなお、イスラエルを愛し、何とか独立する気持ちを育てようとされました。そのためにサムソンを用いられました。サムソンは、神様にささげられたナジル人として両親から育てられました。サムソンは、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろうと御使いは母親に言いました。神様に選ばれた人間だから、さぞ、品行方正な人物かと思えば、これが、とんでもない暴れん坊で、しかも女性好きでした。  しかし、この事柄は、神様が始められたというところに、意味があります。サムソンは、まず、親の反対を押し切りペリシテ人の娘と結婚をしようとします。その際、サムソンがかけたなぞを来ていた客たちがサムソンの妻から聞き出すという姑息なやり方に腹を立て、30人の若者を殺害するということをやります。そして、しばらくして妻のところへ行くと、彼女の父親から娘は他の男の妻となったと聞かされ、会うこともできませんでした。これがまたサムソンの怒りにふれ、彼は、刈り入れた麦、また、麦畑、ぶどう畑、オリーブの木を次々に燃やしました。それで、ペリシテ人は怒り、この妻と妻の父親を殺害します。それで、また、サムソンは、彼らを徹底的に打ちのめします。  それで、ペリシテ人から圧力をかけられたイスラエルの人々は、サムソンを縛り、彼らに差し出します。ところが、そのときまた、サムソンは怒りに燃え、ペリシテ人を1千人殺害します。このような形で、結局、サムソンは、多くのペリシテ人を殺害することになります。現代の世論では非難されるべきことです。すべては、神様がペリシテ人からイスラエルを解き放とうとした結果でした。 . . . 本文を読む

2018年9月9日 信仰のみのりとか

2018-12-30 10:36:38 | 2018年
 ペトロは、迫害に遭い離散してしまった信徒たちに励ましの手紙を送りました。彼らはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティ二アなどの各地に離散し、今は仮住まいをしています。離散して不自由な暮らしのなかにある彼らですが、しかし、神様によって生き生きとした希望を与えられていると、ペトロは、述べています。  今日は、敬老の日をおぼえての礼拝を平尾とJOYSHIPとアーベントチャペルの皆様と一緒に守っています。私たちの教会をこれまで支えてきてくださった先輩の皆様に感謝を表すと共に、その先輩たちを、私たちの教会に与えてくださり、今日のこの日まで守り、導いてくださった神様に感謝を表す礼拝でもあります。  今日、示された御言葉のペトロの手紙一の3節から9節には、迫害を受け、離散して不自由な暮らしのなかにあるはずのキリスト者たちに、ペトロが、多くの恵みの言葉を語っています。「神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ」、「イエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」、「救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」、「あなたがたは心から喜んでいるのです」。ただし、こうも語ります。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と栄光と誉れとをもたらすのです」。  苦難は、続くかもしれないけれど、それは、そのことによって信仰が育ち、終末のときには、それが称賛と栄光と誉れとをもたらすことになるのだと、述べています。まさに、教会の先輩たちの人生のなかに、そのことを私たちは見させていただいているのではないでしょうか。 . . . 本文を読む

2018年9月2日 誓ってはならない

2018-12-28 23:47:36 | 2018年
【週報の巻頭言】士師記に入ります。士師とは、裁き司という意味です。ただし、まさにそのような人物として描かれている者もいれば、預言者として、或いは、それぞれの部族に登場した指導者や英雄として、扱われている人々もおります。士師記では、王政を整えるまでのイスラエルの歩みが綴られています。イスラエルが、約束の土地を取得したあとに、それぞれの部族がどのような歩みをしたかが描かれていますが、あるときは、部族連合としての動きがあったことも述べられています。  今日のところは、エフタという士師です。彼は、ギレアドの勇者でしたが、遊女の子でありました。そして、父親の妻にも、男の子供が数人おり、彼らは、成長して、エフタに、「あなたは、よその女の産んだ子だから、わたしたちの父の家にはあなたが受け継ぐものはない」と言われ、追い出されてしまいます。そして、その彼のもとへならず者たちが集まり、彼と行動を共にするようになり、一つの勢力となっておりました。  ちょうどその頃、アンモン人がイスラエルに戦争を仕掛けてきて、ギレアドの長老たちは、エフタに帰って来て、自分たちの指揮官になって欲しいと願い出ます。そして、アンモン人と戦い、彼らに勝利した暁には、自分たちの頭になってもらうことを条件として提示したのでした。そこで、エフタは、初めは話し合いで解決をと考えたようですが、相手がそれに理解を示さなかったために、ついに戦うこととなりました。  そのとき、エフタは、誓願を立て、「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出てくる者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」と述べました。そうして、戦いに勝利し、帰ってきたエフタを最初に迎え出たのは、自分の一人娘でした。嘆くエフタに、娘は主に誓ったとおりにするようにと言うのでした。 . . . 本文を読む

2018年8月26日 祝福は、はるかに超えて

2018-12-28 22:11:22 | 2018年
【週報の巻頭言】アブラハムが、再び妻をめとったとありますが、この出来事は、イサクがリベカと結婚をしたあとのお話ですから、140歳以降のことだと思われます。彼女の名前は、ケトラといいました。そして、このケトラとの間に、6人の子どもが与えられました。そして、これらの子供たちの子孫が、アルシュ人、レトシム人、レウミム人などの民族となったのでした。しかし、アブラハムは、全財産はイサクに譲りました。それから、アブラハムは、「側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」のでした。  それは、おそらく、彼らとイサクの間に何かのいざこざが起きないようにとの配慮だったと思われます。そして、アブラハムは、175歳で死にました。聖書は、「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」とあります。アブラハムは、妻のサラ、それから側女のハガルとケトラといった3人の女性がおり、それぞれに子どもが与えられました。  アブラハムは、神様との約束を信じ、子孫の広がりをイサクにだけ絞り、そのために、ハガルとの間に生まれたイシュマエルとハガルを遠くへ追いやり、また、晩年に結婚したケトラとその子供たちを東の地へ移住させました。あくまでも、イサクを守るためになされたことでした。ところが、神様は、そうやって追いやられた子供たちをも祝福され、ぞれぞれの地方で、彼らはそこそこの民族として成長を遂げていったのでした。  アブラハムが死んだとき、息子イサクとイシュマエルが、一緒に葬りの業を行ったと記されています。そして、アブラハムは妻サラが先に葬られていたマクペラの洞穴に葬られました。アブラハムが死んだあと、「神は息子のイサクを祝福された」とありまして、イシュマエルはどうなったのだろうと思うわけですが、聖書は、続けて、イシュマエルの子孫の広がりについて記しています。 . . . 本文を読む

2018年8月19日 具体的な祈りに応答される神

2018-12-28 22:07:51 | 2018年
【週報の巻頭言】創世記24章1節「アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた」とあります。誰もが、アブラハムのように神様から扱われたいと思うことでしょう。ひょっとしたら、神様は、本人が気付かないだけで、すべての者に対しても、そうしているよ、と言われるかもしれませんが。  ただ、アブラハムは、すべての者の祝福の基になる人ですから、聖書はそのように祝福されていることを強調するのでしょう。 そして、そのアブラハムが一つ残している仕事が、息子イサクの嫁さがしでした。この件に関してもまた、神様はアブラハムを祝福されるのでした。アブラハムは、信頼できる僕を呼んで、自分の一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように頼みました。僕は、その娘がこの土地に来たくないというときには、イサクをアブラハムの故郷へ連れて行っていいかと尋ねます。  アブラハムは、ここは神様との約束の地であるから、あちらにイサクを行かせるわけにはいかない、と言い、もし、娘がこちらへ来たくないというなら、そのときには、それはそれで構わないと言ったのでした。それで、僕は、安心してアブラハムの故郷へ行き、イサクの嫁さがしをします。僕は、神様から、この人物がそれだ、というしるしをいただきたいと願いました。  それは、水汲みに来た娘に僕が、「どうか、水がめを傾けて、飲ませてください」と頼んで、その娘が「どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう」と答えたならば、その女性こそ、イサクの嫁として神様がお決めになった方だということにさせてください、というものでした。そうした祈りを僕が神様にし終わらないうちに、リベカが、水がめを肩に載せてやってきたのでした。そして、彼女に僕は水を飲ませて欲しいと願い、この女性がイサクの嫁になる人物だと理解できたのでした。神様は、より具体的な祈りに応えられました。 . . . 本文を読む

2018年8月5日 平和を築かれる神

2018-12-28 11:12:18 | 2018年
【週報の巻頭言】サラとアブラハムの間には、待望の息子が与えられました。ところが、その息子イサクをアブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルが、からかっておりました。そのようすを見たサラはかっとなって「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎになるべきではありません」と言いました。  イサクが、既に3歳くらいになっていたと仮定するとイシュマエルは、アブラハム86歳のときの子どもですから、17歳です。イシュマエル17歳のときのお話とはとても思えませんが、まあ、これで考えてまいりましょう。このサラの主張は、アブラハムをたいへん苦しめました。そこで神様は、「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラの言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって与えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」と言われたのでした。  そこで、アラブハムは、翌日の早朝、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に背負わせて子供を連れ去らせた、とあります。そもそもアブラハムにハガルを連れてきたのは、サラの行ったことだったのですから、ハガルとイシュマエルにどのような罪があるのかと思いますが、サラは、彼らの存在が許せないでいたのでしょう。  ハガルたち親子は、ベエル・シェバの荒れ野をさ迷い、ついには革袋の水がなくなってしまいました。ハガルは、子どもが死ぬのを見るのは忍びないと、矢の届くほどの距離から子供の方を向いて座り込んでおりましたが、子供が声をあげて泣いたので、神様はその声を聞かれ、御使いをとおしてハガルに呼びかけました。「立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかりと抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」。それから、神様はハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけることができ、命は救われたのでした。 . . . 本文を読む

2018年7月29日 笑いをお与えになる神

2018-12-28 10:35:22 | 2018年
【週報の巻頭言】イサク誕生に際する物語は、笑いに満ちています。ただし、笑いには、いろいろありまして、苦笑、嘲笑、爆笑、高笑い、微笑などです。初め、アブラハムが、神様から、イサク誕生の知らせを受けたとき、彼は、笑って、ひそかに「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」と思ったのでした。  このときの笑いは、苦笑に近いものだったでしょう。そんなバカな、といった思いです。それで、アブラハムは、「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように」と、咄嗟に自分と奴隷のハガルとの間に生まれた、イシュマエルのことを祝福して欲しいといった気持ちを露わにします。しかし、神様は、「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む」と言い、「その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の約束をする」と言われたのでした。  それから、御使いは、アブラハムを改めて訪ね、来年の今ごろ、サラに男の子が生まれているでしょう、と告げました。その話を、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていたサラは、ひそかに笑いました。「自分は年をとり、もはや楽しみもあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思った」のでした。このときの笑もまた、アブラハムと同じで苦笑だったのでしょう。このときアブラハム百歳、サラ九十九歳なのですから、笑わないでおられるでしょうか。  しかし、一年後、約束されたとおり、サラはみごもり男の子を産んだのでした。そして、アブラハムは、息子にイサクと名付けました。それから、サラは、「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」と言いました。ここでの「笑い」は、「喜び」と言い換えてよいでしょう。苦笑、笑うしかなかった知らせが、真実の喜びの笑いに換えられました。主の約束は、信じて待つところに与えられます。 . . . 本文を読む

2018年7月22日 主が手をとって救い出される

2018-12-27 17:52:00 | 2018年
【週報の巻頭言】ソドムが、いかに悪に満ちた町であったかは、19章の4節「彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」といった、一連のやり取りからもわかります。ここでの彼らというのは、御使いでした。  彼らは、ロトに、自分たちはこの町を滅ぼすために遣わされた者たちであると告げます。それで、ロトに、「あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい」と勧めるのでした。ロトの一族が、逃れられるように御使いが配慮したのは、彼らが正しい者たちであったというよりは、「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」とありますように、アブラハムの甥のロトへの思いを察せられたということと子孫をも祝福するとの約束を守るためであったということでしょう。  しかし、ロトが、嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、主がこの町を滅ぼされるということを告げたとき、婿たちは冗談だと思った、とあります。それで、彼らは、滅びることになります。しかし、そのことを告げたロトはどうであったかというと、夜が明け、御使いたちがロトをせきたて、「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう」と言ったとき、「ロトはためらっていた」とあります。  なぜ、でしょうか。ロト自身が、実は、御使いたちの言うことを信じられなかったのでしょうか。それとも、今一緒にいる二人の娘の他に、嫁いだ娘、婿、孫たち、それから、息子たちとその家族もおりますから、彼らも何とか助けたいといった気持ちがあったのでしょう。それで、何とかならないものかと思っていたとも考えられます。しかし、そのためらっている彼らの手をとって脱出することを神様はなさるのでした。 . . . 本文を読む

2018年7月8日 神様の恵は止まらない

2018-12-27 17:48:02 | 2018年
創世記 12章10節〜20節 神様の恵は止まらない  アブラムが、ネゲブ地方に移り住んでしばらくして、その地に飢饉が起こりました。彼は、飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにしました。そのようなわけで、カナン地方のシケムからはどんどん遠くになっていきました。そのことをアブラムは、あまり意に介していないようです。「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われた神様の言葉をどのように受 . . . 本文を読む