平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2020年3月22日 一つの霊を飲ませてもらった我ら

2020-05-01 22:28:39 | 2020年
平良牧師、平尾教会の最後の礼拝説教

コリントの信徒への手紙一12章12節〜27節
一つの霊を飲ませてもらった我ら

 福岡地方連合会長のK牧師は、連合の集会で説教をされるとき、そのたびごとに、「皆さんは、福岡地方連合が好きですか。私は大好きです」、といつも冒頭で挨拶されます。この挨拶を最初聞いたとき、何となく、こそばゆい感じがしました。しかし、何度もこの挨拶を聞くうちに、この会長の善良なお人柄を思うようになりました。少なくとも彼は、口先だけでなく連合を愛そうとしていると思いました。私は、彼のように善良な者ではありませんが、平尾教会を愛そうとはしてきたとは思いますし、実際愛しているのじゃないでしょうか。
 平尾教会もまたイエス様の教会です。イエス・キリストを体としている、否、イエス・キリストそのもの、そのようにも言えるでしょう。教会は皆そうです。ですから、私もまた、平尾教会が大好きです。平尾教会が好きだということは、この群れを構成しているひとりひとりが好きだということです。そして、イエス様が大好きだということになります。今、いよいよ別れが迫ってきて、その思いはちょっと強いものになっています。そして、同時に、ほんとうにこのような私を平尾に招いてくださり、感謝しています。
 イエス・キリストの体は、たくさんの部分からなっています。その部分について言えば、どれ一つして同じものはありません。しかし、「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」とあります。その一つの霊については、12章の3節の後半に、「また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とあり、この同じ聖霊のことを言っているのではないかと考えます。
 教会の兄弟姉妹は皆、その聖霊、神様のお力をいただいて主告白をなし、洗礼を受けて一つにさせてもらったのです。ですから、神様の目からは誰もが同じ価値を有しています。しかし、教会は、だからといって皆が同じではありません。それは、人間の体が、いろいろな機能を果たす肢体や臓器からできているように、いろいろな働きや役割を担う人々から成り立っています。そして、教会には、多くの奉仕があります。それらの奉仕を一人一人が担っています。大小さまざまな奉仕の内容があります。
 つまり、イエス様の体である教会には、本質的に多様性が求められているのだと思います。その多様性を豊かに保持している教会こそ、よりキリストの教会に近いのだと言えないでしょうか。もし、どれもこれも手であったり、目であったりするならば、つまり、同じ機能しかもっていないということになると、人としての生活をすることができません。人間には、手も目も、心臓も大腸もありとあらゆるものが必要です。これは必要ではないというのは、何一つありません。
 「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」とあります。また、このようにも説明しています。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。
 当時のコリントに暮らす人々は、ユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由人といった具合で、そこには、文化、習慣の違い、差別や格差があったのでしょう。また、パウロのように、ユダヤ人でありながら、ローマの市民権を持っている者もおりました。「体は、一つの部分ではなく、多くから成っています。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう」。
 そもそも、12章の1節から11節 では、コリントの教会に、色々な神様からの賜物をもらっている人が多くいたことがわかります。おそらく、それぞれが己の賜物を誇り、他者を軽蔑するような風潮も出てきていたのかもしれません。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に、霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」。
 すべては、同じ霊、同じ主、同じ神によって与えられているものであり、その賜物の働きの違いもまた、キリストの体全体、教会全体の益となるためなのです、ということです。そして、11節では、各種の賜物のあれこれを述べたあとに、「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」と語ります。
 賜物の現れ方は違っても、同じ唯一の霊の働きによって、それらは与えられているものであり、しかも、それは、霊が望むままに行っているのであって、決して、その人に何か秀でているものがあるとか、その人の意思によってというわけでもありません。神様の一方的な恵み、一方的な選びによるものです。ですから、賜物の違いを比べて、それに優劣などつけられるわけでもないのです。
 同じ霊とは、人間の体ということで言えば、血液をイメージしたらいかがでしょうか。血液は、人間のすべてをくまなくめぐっております。ちょっと針のようなものが、刺さっただけでも、血液が流れてきます。この血液が体全体をめぐることで、体の細部に至るまで、酸素や栄養をお送り届けております。命がこれによって育まれております。
 教会は、教会員の大小さまざまな奉仕により、動いております。一つくらい欠けても、と思う方もおられると思いますが、そうではありません。キリストの教会は、ゴマよりも小さなからし種が芽を出し成長して、鳥が止るほどの大きな植物になるようなものだと、イエス様の話からもイメージできるのではないのでしょうか。それほどに、どんなに小さな奉仕も、イエス様の御国を建てるに欠かすことのないものとなりうるのです。そして、21節「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」とありますように、互いが互いを必要としているのです。それだけではありません。
 「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」とあり、これは、一般の社会のありようとは逆のことを述べております。一般の社会では、弱く見える部分は、必要とされないことが多いのです。ところが、キリストの体なる教会は、その逆です。
 ところが体の場合、「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」。
 神様のなさるみ業は、何とすばらしいのでしょうか。教会に来られている方々の中には、元気な者もおれば、病を抱えて来られている方々もいます。若い者もおればご高齢の方々もいます。少し裕福な生活をされている方もいれば、ぎりぎりの生活を送っておられる方もいます。今、毎日、充実して楽しいという方もおれば、毎日生きているのが精一杯という方もおられます。
 そうした場合、誰を教会では中心に据えるかということになりますと、それは弱っている者、つらい状況の中におかれている者、苦しい生活をしている者ということになります。こういう人々が、引き立たせられ、その人をいろいろな人々が配慮することによって、教会に分裂が起こらず一つとなっていくのです。キリストの教会というのは、そのように作られていくのだと、パウロは述べています。
 さらに26節「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。非常に、理想的な社会です。このような社会をキリストの教会は、目指しているし、作ろうとしています。一人の苦しみを皆で担い合う、1人の喜びを皆で分かち合うのです。
 ところで、イエス様は、生前、どのような人々と共に過ごされていたのでしょうか。寝食を共にされていたでしょうか。それは罪人と言われる人々でした。罪人と言うのは、当時の社会の中にあって、律法を守ろうとしない、或いは、守ることのできない人々でした。律法を守る人々が、正しい人々であって、救い(天の国、永遠の命、罪の赦しなど)が約束されておりました。罪人たちは、その救いからもれた人々といったレッテルが、ユダヤの当局者たち、つまり、祭司だとか、律法学者だとか、律法を守ることに一生懸命だったファリサイ派の人々といった者たちから貼られることになりました。
 イエス様は、こうした救いからもれたと考えられている罪人たちに神の国を語り、救いを語っていったのでした。そして、共に食事をとり、彼らの家で休息することもしばしばでした。ユダヤの祭司やファリサイ派の人々は、汚れが移るという理由から、罪人と言われる人々とは食事を共にすることは決してありませんでした。ですから、彼らが、罪人たちの生活の場に入ってくることはなかったと思われます。罪人との交わりを避けておりました。
 そこで、世にある教会はどうあるべきなのか、イエス様からいろいろと教えられるのです。パウロももちろんイエス様からいろいろと学んだはずです。パウロは、生前のイエス様を知ることはありませんでしたが、イエス様の弟子たちをとおして、或いは、復活のイエス様との出会いをとおして、多くを学んだのでしょう。否、感じとっていったという言い方もできるでしょうか。
 パウロは、教会のあるべき姿をキリストの体にたとえました。「あなたがたはキリストの体あり、また、1人1人はその部分です」。私たちは、聖なるキリストの体を構成している一人一人なのです。誰が欠けても、キリストの体は不調をきたすことになります。心臓が病で弱っておれば、手あつい治療を施して、そこを癒せば、体全体が健康を取り戻すことになります。しかし、そうならなければ、体全体が次第に弱ってきて、全体の機能不全に陥ってしまいます。
 イエス・キリストの教会は、多くの人々を必要としています。多くの働き人を必要としています。多くのイエス様に従う人々を必要としています。そして、キリストの教会では、いつも、その教会の中心に据えるべきは、パウロの言葉でいうなら、「体の中で他よりも弱く見える部分、ほかよりも恰好が悪い部分、見苦しい部分、見劣りのする部分」なのです。これらの存在こそが、かえって必要なのです。教会でも、そういう部分が引き立てられなければならないのです。もし、そうなっていないというのであれば、教会は、大いに悔い改めなければなりません。
 今日の箇所は、教会が、キリストの体として一つであるということと、それは多くの部分からなる、つまり多様性を要するということを考えさせられる箇所です。まさに、平尾教会が、これまで考えてきたテーマであり、これからも考えていくことになるテーマであるというべき箇所です。一つでありながら多様、多様でありながら一つ。キリストの体なる教会のありようです。格闘しながら、何とか共に生きていく姿です。
 ある意味では、宗教は、えてして、多様性とかリベラルとかいうものとは、対極にある場合が多いのです。当時のユダヤ人たちが、律法の枠の中で生きることこそ、正しい者の生き方であると考えていたように、枠の中に納まってこそ、信仰であると現代に生きる宗教家たちも、考えがちです。しかし、イエス様は、多様性を重んじ、当時としては社会規範から大いにはずれたラディカル(急進的)とも思える一面を持ち、同時に、今の私たちから見ても、非常に自由な解放されたリベラルな方でもありました。
 平尾教会は、自由であることを大事にしています。多様性を重んじています。そして、共に生きることも私たちのテーマです。それは、教会内にとどまらず地域社会に及んでいると思います。スチュアードシップ、それは神様からいただいた恵みの賜物(お金、時間、財産)を神様が必要とするときに捧げるという行為を言いますが、何も教会だけのことではありません。それは、教会の枠をこえて地域社会の奉仕活動なども含まれることでしょう。私たちの教会は、今や地域からも必要とされている教会だと思います。多様性と共生(共に生きる)の教会のこれからは、さらに恵みあふれるものとなるでしょう。
 この教会の姿をこれからも展開していくためには、どこで一つであると意識するか、認識できるか、これが肝となります。皆が神様からの一つの霊をのませてもらったのです。一つの教会を作るために。
 どうぞ、これからもこの平尾の教会を神様からいただいた一人一人の賜物を生かして、創造性豊かに作っていってください。そして、イエス・キリストという血の通った、温かな体の教会に、教会員だけでなく、地域の大勢の方々がさらにつながって生きていけたらと願い、祈ります。すべては、主が導いてくださいます。
 私は、平尾教会から6代目の牧師として招かれたことを光栄に思います。そして、勝手なこともたくさん許していただきました。皆さんを翻弄させたことも多々あったかと思います。そして、最後は、まだその理想の教会作りは途上なのに、年金をもらえる65歳になったというので、財政的に牧師を迎えられないよその教会に行く道を選びましたが、そのことも皆さんは許してくださいました。すべてのことは、主のお導きだということで、仕方ないと御許しくださったものと思っています。感謝に堪えません。
 しかし、互いに新たなる出発のときを神様が備えてくださったことは間違いないのです。皆さんは、これからも多様性と共生に生きる私にとって理想のキリストの教会を目指されることでしょう。福井教会は、まずは10人で礼拝できるキリストの教会を目指すことになるでしょう。どちらも、同じキリストの教会です。同じ霊をのませてもらった我らの教会です。イエス・キリストの父なる神様にのみ栄光がありますように。


平良憲誠 主任牧師

https://www.youtube.com/watch?v=0cKdHdYm0k0

最新の画像もっと見る