平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2010年7月4日 いかに幸いなことか

2010-10-21 18:59:12 | 2010年
詩編1編1~6節
     いかに幸いなことか

 詩編は、150編から成っています。その多くは、ダビデの作品となっていますが、それは定かではありません。おそらく、そうではないということです。ダビデをしのんで歌ったがために、そのようにダビデの作というような扱いになったのではないかということです。実際は、その時代、その時代に生きたイスラエルの人々が、歌ったものだったのでしょう。その中には、民族としての歴史を思わせるものもあれば、個人的なことを綴ったものもありますし、ダビデがまさに作ったのではないかと思わされるものもあります。
 内容としては、あるものは、神様を讃美するものであり、あるものは、神様への叫び、また、あるものは、深い嘆き、中には、己の敵を神様に告訴し、呪うような内容さえあります。日本のいろはうたのようなものや、労働歌のようなものもあります。詩ですから、それぞれの行の最後の音をそろえるなど韻を踏んでいるようなものも当然あります。人間の側から神様へ、自分たちの願いや喜び、悲しみ、怒りなどの感情を素直に、直裁に表現しているのです。裏を返せば、それほどに、神様を信頼しているということが言えるでしょう。
 ですから、私たちは、この詩編に共感をおぼえ、この詩編から慰められ、勇気を与えられ、励ましを受けるのです。そういった意味で、旧約聖書の中でも、詩編ほど愛されている、好まれているものもないでしょう。しかし、旧約聖書を読む場合は、この詩編に限らず、すべての書において、イエス・キリストの十字架と復活の光に照らし出すという作業をすることが、信仰理解をより適切・誤りなきものにするのだろうと思います。
 さて、この1編ですが、「いかに幸いなことか」というように、祝福をもって書き出されています。そして、ここでは、2種類の人間のありようが、取り上げられています。祝福に値する者と、呪いに値する者です。
 祝福に値する幸いな人とはどのような人のことを言うのでしょうか。「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」とあります。私たち人間には、神様に従って生きる、神様の支配を受け入れる人生か、そうでないのか、どちらかしかないというのが、詩編のいわゆる神学です。道徳、倫理に照らして悪を考える前に、神様にその人は、従う人なのかそうでないのか、ということを考えるのです。
 聖書は、私たちに、神様との関係において、その神様の権威や力をその人の人生の中に受け入れるのか、拒むのか、そういうことを問うのです。「神に逆らう者のはからい」、「罪ある者の道」、「傲慢な者」。
 これらの人々は、神様に背を向ける人々です。わからないのではなく、わかっているけれどもあえて罪を犯す者たちです。神様を恐れたり、神様に従うことはもちろんしません。神なき者たちです。神様の言葉を意味なきものと考え、無視しているのです。あなたはどうするのか、あなたも、彼らと同じように、人生を歩もうとするのか、それとも、あなたは、神様の支配に身を委ね、神様をおそれ、神様の御言葉を求め、それをそらんじるまでにおぼえ、神様に従おうとしているのか、と問うておられるのです。
 日々の生活を御言葉に導かれて過ごそうとしているのかということです。もし、そうであるなら、あなたが、真の神様に従う者であるのなら、「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡りくれば身を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。流れのほとりに植えられた木というのは、水分の補給に苦労することはありません。
 ところで、日本では、どこにでも木は植えられていますし、よほどの場所でない限り、だいたいにおいて育つのです。ですから、流れのほとりに植わっている木というものにも特別に目を止めることは日本人の場合、ないでしょう。これは、パレスチナという地域、砂漠や荒れ野といった土地柄であって、泉がわき出でているところとか、川べりなどに植えられている木は、安定して育っているのでしょう。
 教会の前庭に椿かささんかの木があります。あれは、平尾教会の平尾霊園にある納骨堂の敷地の木を納骨堂を改築するときに、あまりにも立派に成長しすぎて、敷地の塀を壊し、せりでてくるくらいの勢いになっていたので、移植したものです。ところが、前庭は今の礼拝堂を新築するときに、特に道路に面している部分ですが、廃材などを埋めたために、保水力がありません。
 それで、それまで何度も、いろいろな木を植えたのですが、多くが枯れてしまっていたのでした。業者に頼んで保水力が増すような材質のものを埋めたりもして、努力しました。ですけれども、やはり、この椿かさざんかの木も枯れてきかかったのです。あんなに太かった幹もやせ細ってきました。ある部分はもうすっかり葉をつけていない状態です。水がないとこんな風に弱ってくるのか、水と一緒に土の中に含まれている栄養もとるわけでしょうから、それがやはり水がないとできないわけで、困ったなあと思っていました。ところが、最近ほんの少し元気がでてまいりました。梅雨の時期になっていることもあるのでしょうか。下草とか、何かの関係で、保水力が増してきたのでしょうか。ほっとしているところです。
 水が得られなければ、植物は枯れてしまいます。人間も生きていくことはできません。この詩編の著者は、神様に従い、神様の教えを愛する者は、「流れのほとりに植えられた木」と述べています。「ときが巡りくれば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」とあります。神様につながり、神様に従って生きていく者は、ときが巡りくれば実を結ぶというのです。神様の創造された動植物は、何らかの形で実を結ぶように造られています。
 そこで、私たち人間が実を結ぶというのは、どのようなことを意味しているのか、考えてみます。「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」とありますから、繁栄と関係していると理解できます。また、「神に逆らう者は滅びに至る」ともいうのですから、神様に従う者の結ぶ実は、永遠の命というようなものであるとも言えるでしょう。しかし、パウロは、聖霊の働きによる結ぶ実として、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22)というものをあげています。
 これは、聖霊、神様の力が働くことで、その人の中に現されてくるものですから、「ときがくれば実を結び」という言葉との関連は十分にあると思います。「葉もしおれることがない」いつまでも、若若しく勢いのあるさまを言っているかと思います。そして、「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」とありますように、栄え、広がっていくということです。
 それに対して、神様に逆らう者はそうではない、のです。「風に吹き飛ばされるもみ殻」。何という軽い存在でしょうか。中身がなくなった空っぽの状態です。ちょっとした風の動きにも耐え得ないのです。ふっと息を吹きかけただけで、どこかに飛ばされてしまいます。どこにいったかわからなくなります。また、神様に逆らう者は、神様の裁きに堪えられません。神様の裁きとは、終末、世の終わりのときになされるものです。「神に逆らう者の道は滅びに至る」とありますから、裁きに堪えられないということとつながります。赦されることがないのです。
 神様に従う者の一番の喜びは、6節の前半の「神に従う人の道を主は知っていてくださる」という言葉です。私たちは、神様に知っていてもらっているということほど、心強いことはありません。人生には多くの楽しいこと、つらい厳しいこと、他人には話したくないこと、家族にだって話せないことなど、いろいろです。
 しかし、どんなに私たちが隠そうとしても、それができないお方が神様です。神様だけは、すべてのことをご存知なのです。また、助けて欲しいと思いながら、それをオープンにはできず、独りで抱え込まなければならないようなときも、逆に、多くの人々に助けを求めるのだけれど、誰も力になってくれないというときにも、神様は、力になってくださるのです。「神に従う人の道を主は知っていてくださる」。
 その人の人生に神様が共におられるということです。神様が共にいてくださる、これ以上のことはありません。神様に従う者と神様に逆らう者とどちらかの生き方しかないのだと聖書は私たちに問うているのです。神様に従う人の人生は、神様に祝福され、実を結び、繁栄が期待される、そうでない人の人生は、はかなく滅びに至る、そういうとても分り易い内容です。
 ところで、「流れのほとりに植えられた木」ということで、新約聖書の中の、イエス様が、サマリアの女に言われた御言葉を思い起します。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)。今に生きるキリスト者にとって、イエス様に従って生きるというのは、まさに、イエス様が与えられる水を飲んで生きている私たちということになるでしょう。イエス様の与えられる水というのは、イエス様からの教えもあるでしょう。
 しかし、一番大きなものは、神様から流れてくる愛です。イエス様をとおして、流れてくる神様の愛です。その人は、心の内に渇きをおぼえることがない、その人は、自らも水が、つまり神様の愛が、心の内にあふれてくる、人に与えられるほどにあふれてくる、そして、そのあふれんばかりの水は、永遠の命にその人を導いてくれる、そういうことです。
 ただし、イエス様がお与えになる水は、神様に敵対して生きていた者にも与えられた、そこが今日の詩編の内容と違うのです。やはり、イエス様以降とイエス様以前のお話だということです。
 旧約聖書時代のイスラエルの人々は、絶対的な服従をイメージしていたと思います。それでいて、民族の歴史の中では、その神様に従い得なかったのです。幾度も幾度も神様を裏切ってしまいます。イスラエルの回りの民族の偶像の神々を自分たちもひれ伏し拝むというようなことを致しました。預言者をとおして語られた神様の指示に従わなかったこともたびたびでした。
 現代に生きる私たちはどうでしょうか。神に逆らう者の計らいに従って歩んでいることはないのでしょうか。利潤を追求する競争主義の資本経済の中で私たちは生きています。それ自体の中に本質的に含まれている人間疎外のシステムを私たちは選びとらねばならないでは生きてゆけません。
 罪ある者の道に留まっていることはないでしょうか。罪ある者、創造主なる唯一絶対の真の神様を知ろうともせず、神様を認めようともせずに生きている人は多いでしょう。日本社会で生きる私たちは、そういう人々と一緒に暮らす以外にありません。日本では、99%は罪を知らず、罪の枠の中に含まれている人々ということになります。
 職場のこと、地域の行事など、一緒に行為しなければならないことは、山ほど出てまいります。そこに神道などの宗教行事が含まれていることは少なからずあることでしょう。傲慢な者と共に座る、これもまた、ありえます。傲慢な者、神を認めようとしない人々、自分の力で何ごとも成されているかに考えている人々、神様の力ではなく、人間の力を誇る者たち、そのような人々と一緒に仕事をしなければならないでしょう。生活をしなければならないでしょう。主の教えを知ってはいても、そのとおりには生きていけない私たちの日常があるのです。
 つまり、神様に従おうと思いながらも、そうできない私たちがいます。正確に言えば、できるときもあればできないときもある、それが私たちの常です。
 ですから、パウロも「人は皆、罪を犯して栄光を受けられなくなっています」と言わざるをなかったのではないでしょうか。義人、神様の前に正しい人間というのは、一人もいないのです。であれば、今日のような詩編の内容は、意味がないのでしょうか。そうではありません。物差しは、しっかりと私たちの目の前に示されています。正しいこと、なすべきこと、進むべき方向、そうしたものはしっかりと示されています。
 やはり、その物差しのとおりに歩もうとする人に対して、神様は「いかに幸いなことか」と祝福の宣言ともいうべきお言葉をかけてくださっているのではないでしょうか。イエス様が、山上の説教でされた説教の「幸いである」いうあの宣言とも通ずるものがあるでしょう。
 その冒頭は、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」でした。神様を心の底から求める人、神様しか頼るお方がいなくて、ひたすらに神様にすべてのことを委ねている人、天の国は、その人たちのものである、言われたのでした。これが本質です。当時のイスラエルの人々のように律法という形を行なえばいいというのではなく、本質です。神様に従おうということです。
 私たちも、神様から「いかに幸いなことか」、そしてイエス様からは「幸いである」、そのような祝福のお言葉をいただこうではありませんか。完全には従い得ない者であることも、イエス様はご存知です。
 それでも、「私に従って来なさい」と、ペトロや他の弟子たちをお招きくださったあの日のように、今日も呼びかけてくださっています。従い得ない私たちのために、十字架におつきなったイエス様がそのように語られていらっしゃるのです。詩編は祈りとも言うべきものでしょう。私たちも毎日の生活において、神様に祈り、会話を重ね、すべてを委ね、信頼し、ときにはなせですか、と、その苦難や試練の意味を問わないではおれない者たちであります。
 しかし、おそらく、そうした毎日の祈りや讃美や訴えや叫びこそが、「いかい幸いなことか」という祝福に与ることになるのだと、信じることができます。詩編はまさに、そのことを私たちに教えているのです。


平良師

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