平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2006年9月10日

2006-11-09 22:12:43 | 2006年
ローマ8章31~39節
 神の愛から引き離されることはない

 ローマの信徒への手紙8章の31節から39節は、神様の愛について、述べているのですが、その内容は、神様の愛の深さ、大きさを幾重にも表しています。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵対できますか」、詩篇の118編6節にも、「主はわたしの味方、私は誰を恐れよう。人間は、わたしに何をなしえよう」とあります。神様が味方である、これ以上に心強く、安心なことはありません。
 神様は、ローマの信徒への手紙5章10節にわたしたちが「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」、とあり、私たちのために、神様が一方的に、和解のできごとを成し遂げてくださった、つまり、敵対するお方ではなく、私たちの味方となってくださった。それは、御子を死に渡されるという行為をとおして、なされたことでした。32節「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。
 当時のキリスト者たちは、福音を伝えていった結果、また、キリスト者となったというだけで、迫害や苦難にさらされることにもなりしました。彼らは訴えられることもたびたびであったはずです。裁判の場に引き出されることもありました。
 それに対して「誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」とあって、まず、神様が味方であり、その神様が私たちを正しいとしてくださるのだから、他の人間のなす、裁きなどは恐るるに足りないと言っているのです。
 しかし、同時に、「キリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」と言います。それは、この世で、世の権力者が行う裁判とはまた違うことを言っていると理解できるのです。それは、世のいわゆる法律や決まりごとに対する裁きではなく、神様に背いて生きていたという本質的な罪を犯した私たちが、神様のみ前に立たされる場面状況を表しています。
 キリストというのは、救い主という意味です。救い主であられるイエス様が、神の右の座におられて、私たち一人ひとりのために、この世で犯した神様への背きの罪のために、執り成しをしてくださるというのです。裁きをなしうるお方は、神様だたお一人です。この世の人間が、いかに裁こうとも、真実の裁きを与えることのできるのは神様ただお一方です。
 そして、神様に対して犯した神様に背くという本質的な罪さえも、イエス様が、神様のみ前に出る私たち一人ひとりのために、執り成しをしてくださるのです。このように、私たちは、幾重にも、神様の、キリストの愛に守られ、包まれているのです。ですから、「誰がキリストの愛からわたしたちを引き離すことができ」るでしょうか。
 しかし、彼らを取り巻くその時代の状況はとても厳しいものがありました。パウロは、キリストの愛から引き離すものとして、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸(着るものがない)、危険、剣、そういったものがあることを知っています。これらは、まず、外的なものでした。こうした迫害が、彼らをキリストから引き離す、キリスト者であること自体を放棄させる、そういう力にもなりかねなかったのです。それから、もう一つは、苦難や誘惑によって、神様への信頼が失せてしまう、信仰がなえてしまう、再び罪の誘惑に陥ってしまう、より内面的なことがらです。
 詩篇の44編23節を引用して「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」、そういうキリスト者たちの状況があることをパウロはよくわかっているのです。なぜなら、パウロ自身の伝道者としての働きと生活がそうであったからです。
 彼は、コリントの信徒への手紙二の11章23節からのところでこう言っています。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした」そして、その次に具体的にそれはどのようなことであったか、詳しく述べています。
 「ユダヤ人から40に足りない鞭を受けたことが5度。鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが1度、難船したことが3度。1昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかいごと、あらゆる教会についての心配ごとがあります。だれかが、弱っているのなら、わたしが弱らないでいられるでしょうか。だれかが、つまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」。
 現に、パウロ自身が、「神様のために、一日中死にさらされ、屠られる羊のよう」だったのです。パウロは多くの苦難に遭いつつ、しかも、他人が、弱っていると、自分も同じようになえてしまうような、人としての弱さも抱えている、どこにでもいるただの人だったのです。
 それなのにパウロは、「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」と語ります。
 なるほど、パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、このときパウロは監禁されている身の上でしたが、1章13節からのところで「わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」と語っているように、苦難の先々で、神様の力を体験し、神様のご栄光をパウロは拝するに至ったのです。
 パウロは、いろいろな苦難、苦しみに遭い、へとへとに疲れきったこともたびたびだったでしょうが、その都度、神様の恵みとご栄光にあずかり、彼の信仰は確信に満ちたものとなっていきました。そのなかには、奇跡と思われる神様のなさる業や出来事も数多くあったでしょう。しかし、イエス・キリストの十字架の恵みの深さが一層理解できるとようになっていったということが信仰の確信につながっていきました。
 同じフィリピの手紙の1章29節でこうもパウロは述べています。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」。キリストによって、救われた者は、キリストのゆえに、苦しみにもあうというのは、当然なことであり、それは、恵みとして与えられるとも語るだけの強い信仰を彼は得ました。
 37節から39節で、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。
 パウロの確信は、どのようなものも、私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないというものでした。イエス・キリストによって示された神の愛、というのは、十字架によって示された神の愛、三日目の復活によって示された神の愛、つまり、救いの出来事によって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないということです。
 その愛から引き離そうとする諸力があるのですが、その最初に死をパウロはあげています。死というのは、聖書によれば、罪の結果として人間にもたらされるものでしたが、キリストが三日目に蘇らされるという出来事をとおして、キリストが死に勝利された、人間の罪は完全に赦されたことを証ししてくださったのでした。
 つまり、私たち人間は、肉の体は、滅びても、永遠の命なるものが与えられることを証してくださる出来事でした。それで、死ですらも、神様の愛から私たちを引き離すことはできない、とパウロはいうのです。死者をも神様はかえりみてくださいます。神様は、死んだ者をも生きている者と同様に、しっかりとその懐に抱きしめてくださっているのです。
 私たちは、今日の聖書の箇所から、いただく思いは、神様が私たちをしっかりとどのようなときにも捉えてくださっているということです。神様の愛のうちにとどめ、その懐に私たちをしっかりと抱きしめていてくださるのです。
 私たちのこの世での輝かしい勝利は、自分の力で、自分の行いによって得られるものではありません。それは、わたしたちを愛してくださる方によるものなのです。あの十字架におつきになったキリスト、あの三日目に蘇らされたキリストによって、与えられるものなのです。
 神様は、まだ私たちが、神様に背き歩んでいた、敵としての罪人であったときに、一方的に私たちのために、キリストをこの世に送られ、私たちを赦し、救いのみ業を成し遂げてくださいました。和解の御業を成し遂げてくださいました。神様は、徹底して私たちの味方になってくださいました。パウロは、かつては、キリスト者たちを迫害する者でしたが、今や、そのイエス・キリストの福音を伝える者となりました。
 彼の行為が、神様を味方にしたのではありません。そうではなく、パウロが、神様に敵対していたそのときに、すでに神様は、キリストの十字架によって、パウロをお赦しにてなられていたのです。私たちは、自分の行為が、神様に喜ばれるから神様が自分の味方になってくださると思い違いをしてはならないのです。
 そうではなく、敵対していた、その罪の中にいたときに、すでに神様は私たちを赦してくださり、味方になってくださったのです。こうした形で味方になってくださったお方ですから、わたしたちの行為によっては、もはや、わたしたちを離れ去られることはないのではありませんか。
 この神様に私たちはしっかりとつながっています。否、この神様が私たちにつながっていてくださるのです。共に歩んでくださっているのです。ですから、何をも恐れることはありません。
 ところで、私たちは、7月23日に加藤姉妹を神様のみもとへお送りしました。今日は、その遺骨を教会の納骨堂にお収め致します。遺骨は、加藤姉妹が、この世に確かにおられたことのしるしです。
 そして、今もなお、心のうちに生きている、あの加藤姉妹の思い出は、加藤姉妹が、皆さんを愛しておられたこと、皆さんが加藤姉妹を愛しておられたことのしるしです。皆さんが、生きている限り、その遺骨のことはおぼえ続けられ、その思い出は心のうちに生きていくのです。
 しかし、何年も年月がたち、加藤姉妹を知っていた方々が天に召されたならば、この世において、そうです、それはすべての人々がそうであるように、その人がこの世にいたことも、忘れさられていくのです。
 しかし、ただお一方だけのうちに、加藤姉妹も私たちも生き続けることになるのです。神様によって、加藤姉妹をはじめ、私たちは、おぼえ続けられていくのです。神様は永遠なるお方ですから、私たちもまた、永遠におぼえ続けられていくのです。神様の愛は、死ですらも引き離すことはできないのです。未来のもの引き離すことはできないのです。
 もし、私たちが、神様を信じるならば、イエス・キリストにある救いを信じるならば、イエス・キリストを神様はあなたのために十字架につけられたということを信じるならば、私たちもまた、永遠に神様におぼえられる者となるのです。そして、加藤姉妹も、私たちもまた、神様の深い愛のなかで、おぼえ続けられ、ついには、その愛のうちにあって、一つにされていくのです。
 それはでは、今日の箇所をもう一度、お読みして終わります。


平良 憲誠 牧師

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