平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2003年7月27日 すべての人の奴隷となる

2006-05-27 17:04:27 | 2003年
1コリント9:19~27
      すべての人の奴隷となる

 コリントの教会の中には、自分は、救われ、赦された、自由な者であるという意識をもっている人々がおりました。そこまでは、キリストの十字架によって救われた者はみな、そうなのではないでしょうか。
 しかし、コリントの人たちの中には、霊と知(グノーシス)が、自分たちを自由にしているのであって、肉にかかわる倫理的な規範は意味を持たないと考えておりました。ですから、すべてのことは赦されていて、何をやってもいいと考え、倫理的にも目を覆いたくなるようなことをしていたのでした。
 彼らの自由の理解は、キリストのほんとうの十字架理解からくるものではありませんでした。そうした人々のことを頭におきながらパウロは、語っているのです。あなたがたが自由と言うなら、自分もまた、すべての人に対して自由な者である。しかし、できるだけ、多くの人を得るために、すべての人の奴隷になったというのです。奴隷というのは、その主人に仕える者なわけです。
 そうしますと、パウロは、すべての人々に仕える者になったというのでしょう。ある意味では、すべての人々に拘束されるということです。それは、はっきりと論敵(論争相手)の人々の生き方とは異なるのでした。彼らは、自分たちを満足させるために、神様からいただいた自由をおもに使おうとしているのです。その自由を何のために使うかということになると雲泥の差がありました。
 パウロは、すべての人の奴隷となりました、と言いました。それは、別な箇所で「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました」と語っていますが、パウロの心には、僕となられた模範としてのキリストの姿が描かれているのです。
 パウロは、「すべての人の奴隷となりました」ということを別の言い方で表現しています。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました」、これは、もともと、彼はユダヤ人ですから、この言い方は、おかしいのですが、この言い方には、自分はキリストのものという意識が働いていて、こういう言い方をしているのでしょう。あるいは、今や、キリスト者になったパウロには、ユダヤ人というのは、逆に迫害すら予想される人々ですから、どちらかというと敵のような者でしたでしょうから、そのユダヤ人のようになった、というのは、和解の行為を示しているともとれる言葉です。
 また、律法に支配されている人々には、そのようになった、とは、一例としては、8章の偶像に奉げた肉を食べないということなどが考えられるでしょう。律法をもたない人には、そのようになったとは、例えば、割礼を受けないでいいと勧めたことなど挙がられるでしょうか。ここには、異邦人への伝道が考えられています。21節の「キリストの律法に従っている」とは、先ほどのイエス・キリストの十字架における自己義性の死というモデルが、パウロのモデルになっているということを表しています。ですから、次の「弱い人には、弱い者のようになりました」だけであって、「強い人には、強い人のようにとなりました」との考えはでてこないのです。
 ただ、「弱い人には、弱い人のようになりました」ここだけは、「弱い人には、弱い人となった」という口語訳の方が、適当だと言われています。一つには、先ほどの、偶像の肉を食べないという行為を物語っています。パウロ自身は、もともとは食べてもいいと考えているのです。そして、いわゆる強いキリスト者たちも、偶像の肉を、どうせ、真の神様以外は存在しないのだから、偶像などもありえないと考え、肉を食べているわけです。それに対して、ユダヤ教の慣習の中で生活をし、やはり、そこらのこだわりからぬけきれない、いわゆる弱いキリスト者は、それを食べる事は、罪と考えてそれができないのです。パウロは、こういうとき、このいわゆる弱いキリスト者たちに、自分を合わせるというのでした。
 しかし、「ようになりました」ではなく「なりました」というのは、実際そうした生き方を彼が仮にではなく、真実に行っていたということを表しているということなのでしょうか。9章の前半でいうように、パウロは、使徒としての権利を何も用いず、妻も持たず、教会から経済的に支援してもらうこともせず、自ら天幕職人として生計を立てて、福音を宣べ伝えるということによって弱い者としての生き方を貫こうとしていたのでした。これは、先ほども言いましたように、パウロが、キリストの律法に従って生きようとしていたことの表われでした。
 彼がここまでするのは、「何とかして、何人かでも救うためです」とあるように、救いへ人々を招くために自分はそうするのだということでした。ここには、私たちキリスト者が、最終の目的として生きていく方向性が示されています。人々を救いへと導くための奉仕の務めです。続けて、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」というパウロには、「どんなことでも」とあるように、ほんとうに自由であるのですが、それは、とりもなおさず、福音のためなら、という明確な条件がついているのです。
 つまり、その「どんなことでも」というのは、「福音のため」という内容に規定されているということはいうまでもありません。福音に反するような、「どんなことでも」はゆるされないのです。パウロの論敵たちが、自分はゆるされていて、何をやっても自由だと、豪語していることを頭におきながら、パウロもそうであるといいながら、しかし、そこには、他者の救いのため、福音のために、その自由は行われるはずのものであることをパウロはしっかりと述べているのです。
 さらに、そうするのは、「わたしが福音に共にあずかる者となるためです」というように、パウロ自身もまた、そうすることで、共に福音にあずかることになるという考えをもっていました。パウロは、共にということを願っているのです。私たちの願いもまた、福音は、自分ひとりがあずかればいいという性格のものではなくて、他者と分かち合うもの、他者と共にするものということを教えているでしょう。
 次に福音にあずかろうとする者の、救いにあずかろうとする者のその生き方について、触れられています。ここでも競技を行う者が、たとえとして使われています。
 それは、競技場で「賞を得るように走りなさい」ということです。その賞は、ここでは一位の者が与えられる賞です。一位というものを得ようとすれば、その人は、競技において、全力を尽くすことはもちろんのこと、平素から他のどんな人よりも努力しなければなりません。ただ、一位を得るように努力することに意味があるのであって、一位を得ること自体が最終目的でないことだけは押さえておきましょう。「競技をする者は皆、すべてに節制します」。ここにポイントはあるのでしょう。
 最近、水泳の平泳ぎで、2つの世界新記録を出して優勝した選手のことをテレビで見ていたのですが、今や、あのような大きな大会に出てくる選手で、一人だけでこつこつとやっている人はいないようですね。多くが、トレナーや、科学的に、経済的にサポートする複数の支援者がいて、ああいう記録を出すような選手に育てられているのです。そこには、節制や努力の限りが尽くされているのでしょう。
 パウロもまた、福音に、救いにあずかることにおいて、完全となるために、努力と節制をするのです。パウロは、フィリピの手紙の中で、「わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と言っております。つまり、パウロの考えでは、完全という点では、まだ、その過程にあるのであって、その完全なるものを目指してひたすら走るという思いが語られております。
 コリントにもどりますが、ここでも、まだ、賞は得てはいません。賞を得るように走るのです。それは、過程、プロセス、途中のことがらになっているのです。パウロがそれほど節制するのは、「それは他の人々に宣教しておきながら、自分は失格者となってしまわないため」とあります。ここでの失格者とならないためというのは、福音からはずれる、救いからもれるというようなことでしょうか。
 そうならないために、節制をするのです。自己抑制をするのです。「自分のからだを打ちたたいて服従させます」つまり、くたくたになるまで、練習をします、ということです。賞を得ようとする競技者は、朽ちる冠(当時は、セロリを枯らして作ったような冠でした)のためにそうするのであって、自分たちは、朽ちない冠(救い、永遠の命)のためにするのですから、その努力や節制はそれ以上のものがあっていいのです。
 その努力と節制の中味ですが、それは、このパウロの姿勢に示されています。それは、いわゆる倫理的にすばらしい実践家になるということもあるでしょう。それは、神を証しするためであることは言うまでもありませんが、それよりは、すべての人々の奴隷となる、という生き方です。他者を愛そうとすること、他者のところまで降りていき理解しようとすること、他者へ寄り添い、他者に仕える、他者への奉仕を意味しているでしょう。また、それは、他者を福音へ導こうというのですから、それは、神様を愛し、神様に奉仕することでもあります。
 パウロの論敵たちは、主によって与えられた自由を自分の欲を満たすためにだけ使おうとしていたのです。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の5章13節で「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」とも、語っています。そして、そのような生き方をしたのです。
 使徒言行録は、パウロが捕えられて、ローマに連行され、そこで、軟禁状態にありながら、なお、伝道し続けている姿で終わっています。「パウロは、自費で借りた家に丸2年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。皆さんもご存知のように、パウロは、このあと、ローマにおいて、殉教の死を遂げたと言われているのですが、最後まで、伝道し続ける姿で聖書はパウロについての記述を終えているのです。伝道するパウロ、そのイメージは、ある意味では、キリスト者に求められる姿だと、聖書は言っているようにすら、思えるのです。
 今日の箇所は、パウロの何が何でも伝道という姿勢がほとばしっているところです。「何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします」。こうしたパウロの情熱について私たちは知ることができます。教えてももらいます。しかし、同じように伝道のスピリット、情熱をもっているかと、問われたら、どうでしょうか。さらに、パウロと同じように伝道できるかと、と問われたら、どうでしょうか。私たちは、今日の箇所で、競技をただ観るだけの、スポーツ愛好家の一人になるようには勧められてはいません。競技に参加することを勧められているのです。

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1 コメント

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みちしるべ (しるべ)
2006-05-29 11:19:09
「福音のためにどんなことでもしたい」パウロの伝道スピリット心が動かされます。
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