平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2018年12月24日 貧しくなられた神

2019-02-14 22:34:24 | 2018年
キャンドルサービス コリントの信徒への手紙 II 8章9節 貧しくなられた神  先日、ある国の情報機器を扱っている会社のお偉い方が、逮捕されて、その保釈金が8億円だったと聞きました。持っている人は持っているものです。また、どこかの自動車会社の会長は、脱税したり会社のお金を勝手に使ったりと、その総額は数十億円にのぼると報じられていて、取り調べを受けています。持っている人は、持っていますね。今の時代、 . . . 本文を読む

2018年12月16日 神様の介入

2019-02-14 15:08:44 | 2018年
 今年もこの箇所を扱うこととなります。この季節になるたびに、何度も目を留める箇所でありまして、今度で何回目でしょう。しかし、どの聖書の箇所もそうなのですが、そのたびに新しい発見や示しがあるものです。今回もまた、新しい発見がありました。  ところで、マタイによる福音書の降誕物語では、マリアというよりもヨセフにスポットが当てられています。ヨセフは、マリアが既に身ごもっていることを知ったとき、彼は、マリアのことを表ざたにすることを避けて、ひそかに縁を切ろうと考えました。マリアから事情を聞こうとは思わなかったのでしょうか。また、マリアもヨセフにことの経緯を説明しょうとは思わなかったのでしょうか。ここらは、ちょっと不自然な気が致します。  大人の対処の仕方と言えば、そうなのかもしれません。そして、もし、そのような話し合いらしきことをすれば、泥沼状態になるのは必至でした。私たちは、どこかでは、話せばわかるということを信じて関係を続けたいとは思いますが、確かに、話してもどうにもならないということがあることも事実です。このようなケースは、話しても埒が明かないということになるでしょう。天使が間に入って、ことの真実をヨセフに告げます。ルカによる福音書では、マリアに天使がこれから起こる事柄を告げています。それ以外に、両者が夫婦としての関係を続けていくことは不可能だったのではないでしょうか。  イエス・キリストが私たちにもたらす福音は、和解の福音と言えます。和解の中身は、神様と人間の関係が第一です。それから、人と人との関係においてもまた、イエス様が十字架におつきになられた故に私たちもまた他者を赦すことを教えられるのです。イエス様は、インマヌエルと呼ばれるお方です。「神は我々と共におられる」という意味です。共におられるということは、傍らで眺めておられるのではなく、介入をなさるということではないのでしょうか。 . . . 本文を読む

2018年12月9日 系図の意味は

2019-02-14 09:33:47 | 2018年
 系図を持ち出す人は、自分の家柄がいかに由緒正しいのかを主張したいのでしょう。NHKの朝ドラを見ていたら主人公の母親が、自分は武士の娘で、先祖は源義経だというので、主人公の夫が吹き出してしまい、それで、その母親がバカにしたというので腹を立てる場面がありました。そう言えば、私の父親は生前、先祖は平家で平清盛だと言っていました。日本人は、だいたいが自分の先祖は、平家だとか源氏だとか言います。  ついでに言えば、ドラマでは武士の娘というのですが、実は、武士は武士でも足軽だったとの落ちがありました。私の母も、平良の家系は武士という家柄を金で買ったようなことを言っていました。どういうことなのかわかりませんが。とにかく、先祖が何さまであろうと、キリスト者である私たちには関係ありません。  ところで、マタイによる福音書の冒頭は、イエス様の系図で始まります。しかし、この由緒あるはずの系図には、マリア以外に4人の女性の名が記されています。タマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻(バテシバ)です。これらの女性は、夫となるはずのその父親と関係したり、遊女だったり、異邦人の女性であったり、ダビデなどは、家臣ウリアの妻と不倫によってソロモンが与えられました。そのように、見方によっては、実に不道徳的な関係によって与えられた子どもたちであったりしています。ですから、この系図には人間の罪の結果としてつながってきている血の継承があり、由緒正しいと言えるものではありません。  ただでさえ、女性は数に入らない存在でしたから、さらに罪ありとされた者たちが、この系図に名が記されているのは、どのような意味があるのでしょうか。それは、罪人であり数にも入らない私たちもまた、同じように系図のなかに入れてもらえる者として考えることができるということなのでしょう。彼女たちがイエス様の系図の中に入っていることは、私たちにとって何よりも福音なのです。 . . . 本文を読む

2018年12月2日 復活からの始まり

2019-02-13 18:47:59 | 2018年
 イエス様の物語は、どこから始まっているのでしょうか。それは、降誕物語から始まっていると多くの方々は答えることと思います。果たしてそれはほんとうなのでしょうか。もし、イエス様の復活がなかったのなら、イエス様の物語自体が、存在していなかったのではないかと思うのです。イエス様の復活がなかったのなら、絶望に打ちのめされた弟子たちが、イエス様のことを宣べ伝えていったであろうかと思うからです。  イエス様の物語は、福音です。よい知らせなのです。復活があったからこそ、福音書たり得るのです。弟子たちは、イエス様が指示していた山に登り、そこで、再会を遂げました。彼らはこのとき、イエス様にひれ伏したのです。つまり、イエス様を礼拝しました。しかし、すべての弟子たちがそうだったわけでありません。なかには、疑う者もいたと書かれています。復活のイエス様を疑う思いは、誰にでもあります。疑った弟子たちについてですが、2~3年は、イエス様と一緒に行動を共にしていたわけですから、そのお方が、イエス様であるかどうかは、すぐにわかったと思うのですが、彼らは疑ったのでした。  ずっと共にいた弟子からして、これですから、ましてや姿を見ていない私たちには、イエス様に対する信頼はどの程度のものなのでしょうか。イエス様は言われました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊に名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。  ここには、キリスト者たちに与えられた使命が述べられています。神様が御国を完成するとき、イエス様がまさに共におられることをどのような形で表現できるでしょうか。そのことこそが、まさに問われているのです。イエス様が共におられるのならば、生き方のなかにそれを証しすることが求められています。 . . . 本文を読む

2018年11月11日 貧しい人々へのよい知らせ

2019-02-12 17:28:44 | 2018年
 イザヤ書61章の冒頭は、第三イザヤの召命に関する記述です。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。貧しい人々がおかれている状況は、56章で説明したとおりです。  エルサレムに捕囚を解かれて帰ってきた人々を待っていたのは、苛酷な現実でした。エルサレムに残された人々は抑留された人々の土地を自分たちのものにしておりました。また、都エルサレムには、異邦人たちもが住むようになっておりました。神殿再建を夢見て帰還したのですが、かつてのような神殿とはいかず、それは粗末なものとなりました。希望があちこちで潰えていくのでした。そうしたなかで、第三イザヤは、神様からの召命を得たのです。いったい何を告げ知らせることが、彼らの励ましや勇気になったのでしょうか。彼らは多くのことに打ちひしがれておりました。彼らにとって良い知らせとは何でしょうか。  それは、すべての囚われから完全に解放されるということ、落胆した思いは慰められるということ、廃虚の町々、代々の荒廃の跡をさえ、建て直すことができるということ、異邦人たちが、あなたがたのために働いてくれるということ、貧しい者が主の祭司と呼ばれ、神に仕える者とされるということ、これまで人の倍も恥辱を受けてきたけれど、これからは二倍の豊かさと永遠の喜びを得られるようになるということ、神様が、とこしえの契約を結んでくれるということ、貧しい人々は主の祝福を受けた一族と呼ばれるようになるということ、そして、最後には「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。  ・・大地が草の芽を萌え出でさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、・・恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」とあります。 . . . 本文を読む

2018年11月4日 加えて集めよう

2019-02-11 23:07:26 | 2018年
 最近、ドイツでは、人道主義的立場から難民を受け入れることに積極的に取り組んでいた政権が選挙で大敗をしてしまうという出来事が起こりました。首相のメルケルさんは、任期満了をもって、首相の座を退くことを明言しました。逆に、難民受け入れ拒否を訴えていた右派勢力が、勝利しました。また、ブラジルでも、トランプ大統領を尊敬しているという人物が、大統領に選ばれ、彼もまた、ブラジルファーストを主張しています。  トランプのしていることは、成功しているという評価があるというのが驚きですが、そのように考える者たちもいるのです。私たちは、恐ろしい時代に突入したといった認識を持った方がよさそうです。多くが、自分のことしか考えない、それのどこが悪いという開き直った人々が横行し始めてきたのです。自分たちのことしか考えられないというのは、人間の罪であり、弱さですが、聖書の神様はそれでよいと教えておられるでしょうか。  神様もイスラエルの民を選ばれたではないか、と思う方もおられるでしょう。しかし、それは新約聖書において大きく変わりましたし、実は、旧約聖書においても、いろいろな箇所で、すべての国民、人々に神様の赦しや祝福は語られているのです。このイザヤ書56章1節から8節でも、そのことは言えるでしょう。預言者イザヤは、神様が招いておられる人々について、「異邦人」と「宦官」を取り上げています。それまでは、申命記の23章2節、3節にありますように、彼らは会衆の仲間として受け入れられないことになっていました。  しかし、イザヤ書の先ほどの箇所には、「わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名をわたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない」とあり、また「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と書かれています。 . . . 本文を読む

2018年10月21日 神は避けどころ、苦難のときに助けてくださる

2019-02-10 14:46:44 | 2018年
 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。この詩編46編は、宗教改革者のマルチン=ルターの愛唱詩編であったということです。彼は、この詩編46編によって、励まされ、勇気を与えられたと言います。どのような信仰熱心な人も、苦しみや悩みがないという人間はいません。  彼もまた、その宗教改革の最中に、多くの恐れ、不安、そして、人々の無理解など、数々の苦難があったことでしょう が、この詩編の言葉によって、そのときを乗り越えていくことができたのでしょう。詩編46編の2節は、この詩編の主要テーマを述べている箇所だと思われます。私たちに、神様こそがわたしたちの避けどころであり、苦難のときには、必ずそこにおられ、助けてくださるのだといった神様への信頼を固くせよ、そのように述べているようです。  たとえ、火山や地震が起ころうとも、津波や洪水が起ころうとも、恐れることはいならいと言います。神様の都を、また、その聖所を思い浮かべます。神様のおられるところは揺らぐことがありません。 そこには、大河がゆったりと流れています。おそらく、黙示録の22章の1節と2節は、この 詩編46編5節の影響を受けております。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月、実をみのらせる」。さらに、実際、都エルサレムには、地下水道があって、この地下水道によって、都を敵に包囲されたときも、都の住人は命を繋いできていたのでした。  また、神様は、世の争いを鎮められるお方です。「主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」。ですから、 私たちは、己の力を捨て、力を抜いて、この神様にすべてを委ねることをするのです。「万軍の主はわたしたちと共にいます」ことを信じて。 . . . 本文を読む

2018年10月14日 あなたが御心に留めてくださる

2019-02-07 22:52:35 | 2018年
 私は、一つのことが満たされているならば、それでよいと思います。それは、神様が、この私のことを御心に留めてくださっているということに気づくことです。このことに気づくことができたならば、確信を持つことができたなら、もう他のものは一切要らないと思うほどです。  私は、小学校の4年生から教会に通うようになり、現在に至っています。10歳から63歳まで、53年間、教会の礼拝を守ることが許されてきました。途中、何回かは教会に行くことができませんでしたが、それでも今に至るまで、概ね礼拝に与れることができたのは大きな恵みだったと思います。神様は、このような者を心に留めてくださったのは何故なのだろうかと思います。  もちろん、神様に喜ばれるような何かを私がしたとか、持っていたというのではないことは言わずもがなです。むしろ、勉強はあまり好きではない、謙虚さにも欠ける、他者のことを思う心にも乏しい。ですから今日のような詩編の箇所を目にしますと、おそらくほとんどの人々が神様はありがたいなあと思うことでしょう。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。  ダビデは、自分に限らず、人間すべてに対する神様の愛を見ています。夜、天空で光を放つ星と月を見ています。そこに創造主の存在を見ています。そして、その創造主なる神様が、人間を造り、これに神様が創造されたすべてのものを治めさせることにされたその創造の秩序に人間は誇りすら感じているのです。人間は、滅びゆく者であり、罪多き者です。その人間を神様は、どのようなときにも見捨てることをなさらず、いつも覚えていてくださり、一人一人に心を留めてくださっているのです。 . . . 本文を読む

2018年10月7日 ときが巡り来れば実を結ぶ

2018-12-31 22:12:09 | 2018年
 植物に花が咲き、実が成るようすに、人々は神様の創造の業を見ます。あるいは、魚が産卵のために深い海から故郷の川に戻ってくる姿や、逆に、海に帰っていく姿にも、神様の摂理を感じます。そして、今日の詩篇1の3節では「ときが巡り来れば実を結び」とは、人もそれと同じで、ときが来れば自ずと実を結ぶことを教えています。どのようなことになろうとも、「とき」が来れば、実を結ぶのです。しかし、詩編には、どのような人が、ときが巡り来れば実を結ぶかというと、誰もではありません。「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」、そのような人々であることが前提になっています。「神に逆らう者」「罪ある者」、「傲慢な者」と一緒になって、事を成そう、歩もうとしている者は、ときが巡り来ても実を結ぶことはないということになります。神に逆らう者は、風に吹き飛ばされるもみ殻、裁きに堪えない、神に従う人の集いに耐えない、滅びに至ると言います。さらに、「ときが巡り来れば実を結ぶ人」とは、神様の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人です。神様の教えとは、昼も夜も口ずさむのですから、聖書の御言葉を指していると考えてよいでしょう。また、「昼も夜も」とは、ずっと、絶え間なくということです。そして、次のように考えることもできるでしょう。それは、いいときも悪いときも、とても幸せなときも、その逆でとてもつらいことが続いているときにも、ということになります。どのようなときにも、忍耐して、神様が用意されている実りのときを待つのです。「その人は流れのほとりに植えられた木」ですから、水分をずっと供給してもらっています。つまり、水、神様の御言葉を絶え間なくいただいているのであって、そういう人がときが来れば実を結びます。「葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。とても祝福に満ちた人生です。 . . . 本文を読む

2018年9月23日 ことを始められる方

2018-12-30 10:43:35 | 2018年
 私たちは、この出来事はいったいどこから始まったのだろうと思うことがあります。サムソンが生まれたとき、イスラエルの国は、ペリシテ人の支配のなかにありました。それは40年間続きました。それは、イスラエルの人々が、神様の目に悪とされることを行ったので、そのようなことになったと書かれています。  しかし、神様は、そのような状況のなかでもなお、イスラエルを愛し、何とか独立する気持ちを育てようとされました。そのためにサムソンを用いられました。サムソンは、神様にささげられたナジル人として両親から育てられました。サムソンは、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろうと御使いは母親に言いました。神様に選ばれた人間だから、さぞ、品行方正な人物かと思えば、これが、とんでもない暴れん坊で、しかも女性好きでした。  しかし、この事柄は、神様が始められたというところに、意味があります。サムソンは、まず、親の反対を押し切りペリシテ人の娘と結婚をしようとします。その際、サムソンがかけたなぞを来ていた客たちがサムソンの妻から聞き出すという姑息なやり方に腹を立て、30人の若者を殺害するということをやります。そして、しばらくして妻のところへ行くと、彼女の父親から娘は他の男の妻となったと聞かされ、会うこともできませんでした。これがまたサムソンの怒りにふれ、彼は、刈り入れた麦、また、麦畑、ぶどう畑、オリーブの木を次々に燃やしました。それで、ペリシテ人は怒り、この妻と妻の父親を殺害します。それで、また、サムソンは、彼らを徹底的に打ちのめします。  それで、ペリシテ人から圧力をかけられたイスラエルの人々は、サムソンを縛り、彼らに差し出します。ところが、そのときまた、サムソンは怒りに燃え、ペリシテ人を1千人殺害します。このような形で、結局、サムソンは、多くのペリシテ人を殺害することになります。現代の世論では非難されるべきことです。すべては、神様がペリシテ人からイスラエルを解き放とうとした結果でした。 . . . 本文を読む