平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2006年7月16日

2006-08-05 00:10:14 | 2006年
ルカによる福音書12章22~34節
      思い悩むな

 このお話は、弟子たちに言われたことになっています。イエス様一行は、毎日が放浪の旅のようなものだったでしょうから、当然、食べ物、飲み物のことは、心配であったはずです。そして、その日、その日、泊まるところも探さねばなりませんでした。また、旅で衣服もよれよれにすりきれてしまって、新しい物を買うことはできなくても、ほつれや破れをふさいだり、縫ったりくらいはしなければならなかったでしょう。
 「何を食べようか、何を着ようか」といったことは、彼らの毎日の生活の自然と話題になる話であって、あれこれとあるもののなから選ぶといった、贅沢をしようというお話ではありません。今日はどうしたらいいのだろう、明日はどうなるのだろう、そういった日々のお話しだったのだろうと思います。
 そこで、イエス様は、いくつかのごく身近な例を示されました。それは、烏の話でした。烏というのは、聖書の中の食物規定では、穢れた動物とされていて、ご存知のように見るからに怖い、不気味な感じのする鳥です。それでいて、非常に賢い、ずる賢い鳥です。烏は、種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。しかし、あの烏は、どこからかえさを毎日獲得して、暮らしています。
 それは、神様が、彼らのために、あちらこちらに餌場を設けてやっているのです。神様が養ってくださっているということです。あのあなたがたが、穢れたものとして忌み嫌っている烏でさえ、神様は、憐れに思い、養ってくださっているのだから、それよりも価値があるはずのあなたがたのことをお忘れになるはずがない、と言われたのでした。
 そうは言われても、人間は、烏のようにはいきません。季節に種を蒔き、収穫をして、それを納屋や倉に納めて、計画的に消費していって、命を存えさせなければならないのです。おそらく、こうした営みを繰り返すなかで、人間は自らの力で何とかできる、という考え方に傾いていったのではないでしょうか。
 そして、そのことは、食べ物を得るために季節ごとの、日々の仕事やその他、いろいろなことを、先を先を考え、思い悩むといったことにもなってきたのでしょう。
 それは、食べ物さえ、しっかりと確保できるならば、それで命の問題は大丈夫ということになりかねないのです。それは、前の13節からのイエス様がなされた、「愚かな金持ち」のたとえ話の金持ちの「さあ、これから何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」という言葉に表されています。彼は、そう自分に言い聞かせたのでした。
 そのとき、神様が、この金持ちにこう言ったというのです。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が、用意したものはいったいだれのものになるのか」。私たちの命は、神様のご計画のうちにあるのでして、決して、自分で自分の命をコントロールできているのではないと、こう言っているのです。
 25節に「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」と言っておられます。
「こんなごく小さな事でさえできないのに、なぜ、ほかの事まで悩むのか」。
 ところで、これは、ちょっと難しい文章ではないでしょうか。つまり、寿命を延ばすということを「こんなごく小さな事さえできない」と言っているのです。この寿命を延ばすという言葉は、身長を伸ばす、というようにも解釈できるようです。
 ですから、岩波訳では、「あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、自分の背丈を一尺ほどでも伸ばせるだろうか」となっております。寿命を延ばすということは、現代では、日ごろ、いろいろと健康に気をつけることで、あるいは、医学で、多少なりともできるようになったと言えるでしょう。
 しかし、背丈を伸ばすというのは、それは、人工の背骨を継ぎたすということで、こちらもできないことはなさそうですが、自分の努力では、ほとんど無理です。これは、私が、実証済みです。
 私も人並みに、年頃には自分の容姿が気になりまして、なんとかもう少し、身長が伸びないものかと努力してみたのですが、結局のところ無理でした。せいぜい、家族の者から、痛々しいといった目で見られるのが落ちだったのです。ですから、「こんなごく小さな事でさえできないのに」という言葉は、理解し難い言葉です。
 それは、ごく小さな事ではなく、実に、実行不可能なくらいの大きな事柄なのです。それもこれは、現代においてこそ、寿命は多少なりとも、延ばせるわけですが、当時の医療事情ですから、寿命を延ばすことなど、ほとんど無理な時代です。そうしますと、実行不可能なことを、こんなごく小さな事と言う、その意味はいったい何なのだろうか、と考えざるをえません。
 それは、私たちは、考えてもどうしようもないことで、悩んでいるということではないでしょうか。思い悩んだからといって、それがすぐに解決できるわけではない、そういうことで、結構悩んでいるのです。この寿命を延ばすということはどうでしょうか、背丈を伸ばすということはどうでしょうか。
 当時としては、考えてもどうしようもないことだったはずです。考えてもしようのないことで悩む、これが、思い悩みの本質なのではないでしょうか。それらは、神様からすれば、実行不可能なことではなく、しかも、ごく小さな事に過ぎないのでしょうが。
 「こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」。悩みというのは、すぐにはできないから悩みなのでしょう。すぐにできるようなことは悩みとは呼ばないものなのでしょう。ひょっとしたらこの意味は、たださえ、思い悩んでも仕方のないことで悩んでいるのだから、もうそれ以上にあれこれと、考えなくてもよい、ということではないでしょうか。
 野原の花も、人間のようには、働きもせず、紡ぎもしないのに、あの栄華を極めたソロモン王でさえ、これらの野原に生えている雑草の花(紫色のアネモネをさしていたという説もあるようです)のほども、着飾ってはいなかった、たとえ、すばらしく装っていたかのようにみえていたとしても、これらの野原の花よりはソロモン王の衣装は劣っていたというのです。
 これらの花は、今日はこうして野原にあって、きれいに咲いているが、明日は、焚き物となって、炉に投げ込まれる定めにある、そのようなはかないものでしかない、それなのに、このようにあでやかに装ってくださっているではないか、といわれるのです。
 それなら、なおさら、あなたがたによくしてくださらないはずはない、と言われるのでした。「あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である」。
 つまり、食べ物や着る物など、ふだんの生活、命や体に必要なものをご存知であるといいます。だから、思い悩まないように。神様が知っておられるのですから、それで十分なのです。そして、思い悩んでも、仕方のないことなのです。
 「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらものは加えて与えられる」のです。
 神の国を求めるというのは、神の支配にあなたの身を委ねなさい、ということです。そうすれば、日々の必要なものは、加えて与えられるのです。神様の支配に身を委ねなさい、そうすれば、あなたの悩んでいることは、おまけのようにして、解決へと導かれます。
 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。小さな群れよ、とは、弟子たちの集団をさしています。これは、世にある私たちの教会というように考えることもできるでしょう。
 不安におののく必要はありません、思い悩む必要なんかありません、あなたがたが神の国を求めるなら、すべてのことを神様の支配に委ねるならば、あなたがたの父なる神様は、喜んで、あなたがたに神の国をくださる、つまり、神様の御手のなかに、あなたがたをおいてくださるのです。
 神様の御手のなかにいるならば、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。そして、神の国をいただいているというのなら、それによって加えて与えられることになっている、すべてのものを私たちは所有していることになるのです。
 そこで、イエス様は言われるのです。「自分の持ち物を売り払って施しなさい」。これは、思い悩みの反対側にある行為です。思い悩みの先にあるのは、所有でした。あれを得れば、これを得れば、安心だという思いでした。逆に、今持っているものも、売り払いなさい、と、そして、それを施しなさいといわれるのです。
 何かを得よう、それによって、身を守ろう、それによって、安心を得よう、と思いがちな私たちですが、逆に、今もっているものも与えなさい、というのが、これがイエス様の勧められたことでした。そうすれば、神様にすべてを委ねることになると、言われるのでしょうか。
 私たちが、思い悩みから解き放たれるのは、所有しよう、守ろうとする意識から離れるときです、逆に、手放す、施すという気持ちになれば、まったく、思い悩みからは解放されるだろうと、言われるのでした。
 レプトン2枚を献げたやもめの話がマルコによる福音書12章41節からのところに、載ってあります。彼女にとっては、このレプトン2枚というのは有り金のすべてでした。レプトンという単位は、デナリンの128分の1ということです。1デナリオンは、当時の成人男性が、1日働いてもらえる賃金だったといいます。ですから、レプトン2枚というのは、数百円というくらいのものでした。
 献金するさまをイエス様は見ておりまして、弟子たちに、彼女がだれよりもたくさん献げた、と言われたのでした。他の者たちはありあまるなかから献げているが、彼女は、有り金すべて、生活費のすべてを献げたと言われて、褒められたという話があります。
 しかし、彼女は、明日からどうするのでしょうか。やもめということですから、彼女をいったい誰が支えてあげるのでしょうか。彼女は、すべてを神様にお委ねすることにしたのでした。神様が支えられる、そのことに彼女はかけているのです。
 思い悩みから解き放たれるには、神様にすべてを委ねること、神様のご支配にこの身を委ねること、神の国を求めること、そうする以外にはありません。
 今日、溝内さんご夫妻がバプテスマを受けられました。私たちは、このお二人が、イエス・キリストによる救いの出来事を受け入れ、これから主に従っていく決心をされたことをうれしく思います。思い悩みを委ねられるお方を得られたことが幸せだと思います。
 先週の木曜日は、波多江さんご夫妻が、バプテスマを受けられました。波多江さんたちは、まだまだキリスト教のことについては、ほとんど何も知らないお二人です。一度、教会に来ようとされましたが、やはり、今のお体の状態では難しかったようです。
 しかし、イエス・キリストを信じて、これからの人生を過ごしていこうと思われたのです。特に、波多江兄の方は、ホスピスに入られておりますので、状況は察せられると思いますが、イエス様は、彼を人生の最後の際に、捉えてくださいました。
 柴田和雄兄のご友人であり、柴田兄をイエス様は遣わされ、キリストの福音を語ってくださったのですが、亀山栄光病院院長の下稲葉先生が、祝いの言葉を述べてくださり、悪友の二人が、信友(信ずる友)になったといわれて、喜んでおられました。これからは、一切の思い悩み、重荷を主に委ねられることができる、そのことが幸せです。
 「思い悩むな」と言われたお方は、イエス・キリストです。イエス様は、思い悩みのない方だったのでしょうか。とてもそうは思えません。ご自身のことはおいても、他者のために、思い悩みのなかにあったお方だったのではないでしょうか。マタイによる福音書の9章36節には「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあるのです。 
 ゲッセマネの園の祈りは、思い悩んで苦しんでいるお姿とはいえないでしょうか。人として来られたイエス様ですから、日々のことにも思いを十分に寄せておられたのではないでしょうか。あるとき、「あなたのおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った人がいましたが、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。
 だが、人の子には枕するところもない」と言われたのでした。ご自分たちのことを結構厳しく認識されています。それでもいいかとイエス様は問われたのでした。そして、十字架のお姿こそは、神様の思い悩みがいっぱいつまったものだったのではないか、と私には思えてなりません。そして、今もなお、私たちの負うべき思い悩みまで負われて、共にいてくださっているお方であります。
 「絶望」とはいかなるものか、「思い悩み」とはいかなるものか、それらを一番よくご存知の方が、希望を私たちに語り、思い悩むなと、言われていることを私たちは、アーメンと感謝しなければならないのであります。すべてのことをご存知の主が、すべてを負ってくださる、すべてを主がよきようになさってくださる、そのことを信じ、感謝したいと思います。

 「思い悩むな」と言われて、はいわかりました、思い悩みません、と心の動きをコントロールできる人はいません。しかし、お任せできる方がいることを、お委ねできる方がいることを私たちはおぼえ、感謝します。そして、ひたすらその方に思い悩みの心のうちを打ち明けて、祈ろうではありませんか。
 神様は、喜んで、私たちに神の国をくださる、神様の御手のなかにおいてくださいます。神様の愛に私たちが包まれるとき、私たちが抱えている思い悩みは、神様の懐の愛で自然と解けていくと信じたいと思います。
 主が思い悩むなというのです。そういうのは、主が、すべてを私たちに代わって、受けてくださるからではありませんか。今日も、今このときも「思い悩むな」と言ってくださっておられる主に感謝します。

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