平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年2月3日 もう泣かなくてよい

2019-02-16 23:03:48 | 2019年
 子供を亡くした親の悲しみは、その立場になってみないとわからないというのが、正直なところです。このナインで出会った母親は、一人息子が死んで、その葬儀の列の先頭に立っており、イエス様一行に向かって、歩いてきていたのでしょうか。イエス様の方は、弟子たちや大勢の群衆が一緒についてきておりました。ひょっとしたら、イエス様もまたその先頭を歩んでいたのかもしれません。この女性はやもめでした。ですから、なおさら、その悲しみは人一倍に大きいものがありました。  この女性の方は、町の人が大勢そばに付き添っておりました。イエス様の群れは、病を癒すなどの奇跡をなさり、最近著しく脚光を浴びている、人々の期待を一心に集めている話題の人物を中心に、希望に溢れるものでした。片や、女性の群れは、やもめという厳しい状況のなかで暮らしをなし、唯一の希望であった一人息子をさらに亡くした、深い絶望のなかにある者と悲しみを共にしているものでした。その両者の列が、ナインという町で出くわしたのでした。希望と絶望、期待と失望、始まりと終わり、歓喜と悲しみ、明と暗、すべてのものが対照的な二つの群れが対峙するようにして出くわしたのでした。  そのとき、何が起こったのでしょうか。「主はこの母親を見て、憐れに思い、もう泣かなくてもよい」と言われたのでした。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止った」のです。もう、泣く必要もないし、この死者を町の外に担ぎ出す必要もなくなったのです。それは、イエス様のこの母親を憐れに思われたことによりました。  イエス様が、私たちを憐れに思ってくださる、そのことによって、私たちの大きな悲しみは取り除かれます。このあと、イエス様は、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われ、起き上がった息子を母親にお返しになりました。人々は皆恐れを抱き、「神はその民を心にかけてくださった」と神様を讃美しました。 . . . 本文を読む

2019年1月20日 教会を造り上げる人

2019-02-15 11:25:45 | 2019年
 日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていると、ギリシア語を話すユダヤ 人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出たため、12人が他の弟子たちすべてを 呼び集めてことの解決に臨みました。つまり、その頃はまだ、12人の弟子たちがこうした分 配に関すること、つまり食事の世話もしておりました。そのため、このような苦情も彼らが処理することになっていました。そうして、本来の神様の言葉を語るという仕事がおろそかになっていたのです。  そこで、12人は、「兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判のよい人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と言って、一同がこの提案に賛成したのを受け、ステファノ以下7人を選んだのでした。そして、「使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」、とあります。手を置く、このときの按手の祈りは、職務の委託、権威の賦与、祝福といった意味があったかと思われます。  その結果、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」とあります。祭司というのは、ユ ダヤ教の祭司のことです。このときの7人が、いわゆる執事だったとの理解もできるでしょう。教会の運営が成り立っていくために、実質的ないろいろなお世話をするのです。それら の人々は、「霊と知恵に満ちた評判のよい人」ということを基準に致しました。一言でいうなら誠実な教会生活をおくっているということでしょうか。  しかし、ステファノに見られるように、彼らもまた、イエス・キリストの福音を語り、不思議な業としるしも行っていたのです。使徒たちと同じような働きもしておりました。万人祭司といった概念は、このようなところからも来ているのかもしれません。教会を造り上げるのは、教会員ひとり一人ですが、執事は、その中の祈りをもって選ばれた人々です。 . . . 本文を読む

2019年1月13日 福音を受け入れる

2019-02-14 22:44:43 | 2019年
 イエス様は、サタンの誘惑を荒野で受けたあと、ガリラヤで宣教を開始されました。瞬く間に、イエス様の評判は周りの地方一帯に広がり、イエス様は会堂で教え、尊敬を受けられ たのでした。そして、故郷のナザレに来て、いつものように会堂に入り、聖書朗読のために立たれました。その時渡されたのが、イザヤ書であり、18節の言葉でした。「主がわたしを遣わされたのは・・主の恵みの年を告げるためである」という「主の恵みの年」とは、「主に受け入れられる年」という意味があったようです。  イエス様がこの言葉を語られた後、席に座られましたが、会堂にいるすべての人々が、イエス様に注目しておりました。つまり、聴衆は、この言葉を受けて、イエス様が何と言われるかを期待していたのでした。するとイエス様は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのです。 つまり、イエス様が来られた今日こそが、まさにこの御言葉の内容が実現した、あなたがたが神様によって受け入れられるその日になったのだと語ったのでした。  そして、これを聞いた人々の間では、いろいろな憶測や反応が飛び交うことになりました。それは、ある人々は、イエス様をほめ、また、ある人々は、イエス様の恵み深い言葉に驚き、そして、同時に、それにしてもこの人は、ヨセフの子ではないか、といった具合で、聞いた者たち自身が、素直にイエス様の存在を受け入れる構えには至りませんでした。むしろ、どうしてこの男は、あたかも自分がこの言葉の実現者のごとく言うのだろうと思うほどでした。  そこで、イエス様は、預言者は故郷では歓迎されないものだと言われ、イスラエルの歴史においても、預言者たちがイスラエルの多くの困窮した者たちの所ではなく、ひとりの異邦人に遣わされたことを御語りになりました。それは、このとき会堂に集まってきた者たちの怒りをかい、殺意にさえ発展することとなりました。 . . . 本文を読む

2018年12月24日 貧しくなられた神

2019-02-14 22:34:24 | 2018年
キャンドルサービス コリントの信徒への手紙 II 8章9節 貧しくなられた神  先日、ある国の情報機器を扱っている会社のお偉い方が、逮捕されて、その保釈金が8億円だったと聞きました。持っている人は持っているものです。また、どこかの自動車会社の会長は、脱税したり会社のお金を勝手に使ったりと、その総額は数十億円にのぼると報じられていて、取り調べを受けています。持っている人は、持っていますね。今の時代、 . . . 本文を読む

2018年12月16日 神様の介入

2019-02-14 15:08:44 | 2018年
 今年もこの箇所を扱うこととなります。この季節になるたびに、何度も目を留める箇所でありまして、今度で何回目でしょう。しかし、どの聖書の箇所もそうなのですが、そのたびに新しい発見や示しがあるものです。今回もまた、新しい発見がありました。  ところで、マタイによる福音書の降誕物語では、マリアというよりもヨセフにスポットが当てられています。ヨセフは、マリアが既に身ごもっていることを知ったとき、彼は、マリアのことを表ざたにすることを避けて、ひそかに縁を切ろうと考えました。マリアから事情を聞こうとは思わなかったのでしょうか。また、マリアもヨセフにことの経緯を説明しょうとは思わなかったのでしょうか。ここらは、ちょっと不自然な気が致します。  大人の対処の仕方と言えば、そうなのかもしれません。そして、もし、そのような話し合いらしきことをすれば、泥沼状態になるのは必至でした。私たちは、どこかでは、話せばわかるということを信じて関係を続けたいとは思いますが、確かに、話してもどうにもならないということがあることも事実です。このようなケースは、話しても埒が明かないということになるでしょう。天使が間に入って、ことの真実をヨセフに告げます。ルカによる福音書では、マリアに天使がこれから起こる事柄を告げています。それ以外に、両者が夫婦としての関係を続けていくことは不可能だったのではないでしょうか。  イエス・キリストが私たちにもたらす福音は、和解の福音と言えます。和解の中身は、神様と人間の関係が第一です。それから、人と人との関係においてもまた、イエス様が十字架におつきになられた故に私たちもまた他者を赦すことを教えられるのです。イエス様は、インマヌエルと呼ばれるお方です。「神は我々と共におられる」という意味です。共におられるということは、傍らで眺めておられるのではなく、介入をなさるということではないのでしょうか。 . . . 本文を読む

2018年12月9日 系図の意味は

2019-02-14 09:33:47 | 2018年
 系図を持ち出す人は、自分の家柄がいかに由緒正しいのかを主張したいのでしょう。NHKの朝ドラを見ていたら主人公の母親が、自分は武士の娘で、先祖は源義経だというので、主人公の夫が吹き出してしまい、それで、その母親がバカにしたというので腹を立てる場面がありました。そう言えば、私の父親は生前、先祖は平家で平清盛だと言っていました。日本人は、だいたいが自分の先祖は、平家だとか源氏だとか言います。  ついでに言えば、ドラマでは武士の娘というのですが、実は、武士は武士でも足軽だったとの落ちがありました。私の母も、平良の家系は武士という家柄を金で買ったようなことを言っていました。どういうことなのかわかりませんが。とにかく、先祖が何さまであろうと、キリスト者である私たちには関係ありません。  ところで、マタイによる福音書の冒頭は、イエス様の系図で始まります。しかし、この由緒あるはずの系図には、マリア以外に4人の女性の名が記されています。タマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻(バテシバ)です。これらの女性は、夫となるはずのその父親と関係したり、遊女だったり、異邦人の女性であったり、ダビデなどは、家臣ウリアの妻と不倫によってソロモンが与えられました。そのように、見方によっては、実に不道徳的な関係によって与えられた子どもたちであったりしています。ですから、この系図には人間の罪の結果としてつながってきている血の継承があり、由緒正しいと言えるものではありません。  ただでさえ、女性は数に入らない存在でしたから、さらに罪ありとされた者たちが、この系図に名が記されているのは、どのような意味があるのでしょうか。それは、罪人であり数にも入らない私たちもまた、同じように系図のなかに入れてもらえる者として考えることができるということなのでしょう。彼女たちがイエス様の系図の中に入っていることは、私たちにとって何よりも福音なのです。 . . . 本文を読む

2018年12月2日 復活からの始まり

2019-02-13 18:47:59 | 2018年
 イエス様の物語は、どこから始まっているのでしょうか。それは、降誕物語から始まっていると多くの方々は答えることと思います。果たしてそれはほんとうなのでしょうか。もし、イエス様の復活がなかったのなら、イエス様の物語自体が、存在していなかったのではないかと思うのです。イエス様の復活がなかったのなら、絶望に打ちのめされた弟子たちが、イエス様のことを宣べ伝えていったであろうかと思うからです。  イエス様の物語は、福音です。よい知らせなのです。復活があったからこそ、福音書たり得るのです。弟子たちは、イエス様が指示していた山に登り、そこで、再会を遂げました。彼らはこのとき、イエス様にひれ伏したのです。つまり、イエス様を礼拝しました。しかし、すべての弟子たちがそうだったわけでありません。なかには、疑う者もいたと書かれています。復活のイエス様を疑う思いは、誰にでもあります。疑った弟子たちについてですが、2~3年は、イエス様と一緒に行動を共にしていたわけですから、そのお方が、イエス様であるかどうかは、すぐにわかったと思うのですが、彼らは疑ったのでした。  ずっと共にいた弟子からして、これですから、ましてや姿を見ていない私たちには、イエス様に対する信頼はどの程度のものなのでしょうか。イエス様は言われました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊に名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。  ここには、キリスト者たちに与えられた使命が述べられています。神様が御国を完成するとき、イエス様がまさに共におられることをどのような形で表現できるでしょうか。そのことこそが、まさに問われているのです。イエス様が共におられるのならば、生き方のなかにそれを証しすることが求められています。 . . . 本文を読む

2018年11月11日 貧しい人々へのよい知らせ

2019-02-12 17:28:44 | 2018年
 イザヤ書61章の冒頭は、第三イザヤの召命に関する記述です。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。貧しい人々がおかれている状況は、56章で説明したとおりです。  エルサレムに捕囚を解かれて帰ってきた人々を待っていたのは、苛酷な現実でした。エルサレムに残された人々は抑留された人々の土地を自分たちのものにしておりました。また、都エルサレムには、異邦人たちもが住むようになっておりました。神殿再建を夢見て帰還したのですが、かつてのような神殿とはいかず、それは粗末なものとなりました。希望があちこちで潰えていくのでした。そうしたなかで、第三イザヤは、神様からの召命を得たのです。いったい何を告げ知らせることが、彼らの励ましや勇気になったのでしょうか。彼らは多くのことに打ちひしがれておりました。彼らにとって良い知らせとは何でしょうか。  それは、すべての囚われから完全に解放されるということ、落胆した思いは慰められるということ、廃虚の町々、代々の荒廃の跡をさえ、建て直すことができるということ、異邦人たちが、あなたがたのために働いてくれるということ、貧しい者が主の祭司と呼ばれ、神に仕える者とされるということ、これまで人の倍も恥辱を受けてきたけれど、これからは二倍の豊かさと永遠の喜びを得られるようになるということ、神様が、とこしえの契約を結んでくれるということ、貧しい人々は主の祝福を受けた一族と呼ばれるようになるということ、そして、最後には「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。  ・・大地が草の芽を萌え出でさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、・・恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」とあります。 . . . 本文を読む

2018年11月4日 加えて集めよう

2019-02-11 23:07:26 | 2018年
 最近、ドイツでは、人道主義的立場から難民を受け入れることに積極的に取り組んでいた政権が選挙で大敗をしてしまうという出来事が起こりました。首相のメルケルさんは、任期満了をもって、首相の座を退くことを明言しました。逆に、難民受け入れ拒否を訴えていた右派勢力が、勝利しました。また、ブラジルでも、トランプ大統領を尊敬しているという人物が、大統領に選ばれ、彼もまた、ブラジルファーストを主張しています。  トランプのしていることは、成功しているという評価があるというのが驚きですが、そのように考える者たちもいるのです。私たちは、恐ろしい時代に突入したといった認識を持った方がよさそうです。多くが、自分のことしか考えない、それのどこが悪いという開き直った人々が横行し始めてきたのです。自分たちのことしか考えられないというのは、人間の罪であり、弱さですが、聖書の神様はそれでよいと教えておられるでしょうか。  神様もイスラエルの民を選ばれたではないか、と思う方もおられるでしょう。しかし、それは新約聖書において大きく変わりましたし、実は、旧約聖書においても、いろいろな箇所で、すべての国民、人々に神様の赦しや祝福は語られているのです。このイザヤ書56章1節から8節でも、そのことは言えるでしょう。預言者イザヤは、神様が招いておられる人々について、「異邦人」と「宦官」を取り上げています。それまでは、申命記の23章2節、3節にありますように、彼らは会衆の仲間として受け入れられないことになっていました。  しかし、イザヤ書の先ほどの箇所には、「わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名をわたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない」とあり、また「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と書かれています。 . . . 本文を読む

2018年10月21日 神は避けどころ、苦難のときに助けてくださる

2019-02-10 14:46:44 | 2018年
 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。この詩編46編は、宗教改革者のマルチン=ルターの愛唱詩編であったということです。彼は、この詩編46編によって、励まされ、勇気を与えられたと言います。どのような信仰熱心な人も、苦しみや悩みがないという人間はいません。  彼もまた、その宗教改革の最中に、多くの恐れ、不安、そして、人々の無理解など、数々の苦難があったことでしょう が、この詩編の言葉によって、そのときを乗り越えていくことができたのでしょう。詩編46編の2節は、この詩編の主要テーマを述べている箇所だと思われます。私たちに、神様こそがわたしたちの避けどころであり、苦難のときには、必ずそこにおられ、助けてくださるのだといった神様への信頼を固くせよ、そのように述べているようです。  たとえ、火山や地震が起ころうとも、津波や洪水が起ころうとも、恐れることはいならいと言います。神様の都を、また、その聖所を思い浮かべます。神様のおられるところは揺らぐことがありません。 そこには、大河がゆったりと流れています。おそらく、黙示録の22章の1節と2節は、この 詩編46編5節の影響を受けております。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月、実をみのらせる」。さらに、実際、都エルサレムには、地下水道があって、この地下水道によって、都を敵に包囲されたときも、都の住人は命を繋いできていたのでした。  また、神様は、世の争いを鎮められるお方です。「主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」。ですから、 私たちは、己の力を捨て、力を抜いて、この神様にすべてを委ねることをするのです。「万軍の主はわたしたちと共にいます」ことを信じて。 . . . 本文を読む