イザヤ書1章10~20節
罪が緋のようでも雪のように白くなる
イザヤ書の1章2節からは、南ユダへの審判が語られています。南ユダというのは、ソロモン王のあと、イスラエルの国は、南北に分裂しますが、その南の方の国です。そして、イザヤは、その南ユダの預言者として、神様の召命に与り、それに応答しました。イザヤの召命の話は、6章に出てまいりますが、この1章などは、話が前後しているのかもしれません。
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イザヤ書6章1~13節
汚れた唇の者でも
イザヤは、預言者です。この時、見た幻は、天の御座に神様が座っておられるというものでした。ウジヤ王が死んだ年だったといいますから、紀元前736年のことです。ウジヤ王は、南ユダの王様でした。50年ほどの長きにわたり王の位にあり、その王が亡くなったわけですから、時代は転換期を迎えておりました。
そして、このとき見たその光景の場所は、神様の住まわれる天の神殿で . . . 本文を読む
創世記49章28節
おのおのにふさわしい祝福が
「私は祝福されているのだろうか」、この問いを、私たちは人生のあちらこちらでひそかに神様に囁きます。祝福されていると実感できるとき、それは喜びの時です。逆に、祝福されているとはとても思えない時は、神様の存在が遠くに感じられます。それは苦しく、不信の時になりかねません。しかし、どのようなときにも神様の祝福を確信することができるなら、その人は、ほんとうに . . . 本文を読む
(敬老の日をおぼえて、全員出席日)
創世記31章1~13節
さあ、今すぐ・・
アブラハムの物語は、アブラハムが75歳のときに、あなたを祝福すると約束される神様の召命に与り、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」という言葉に従ったところから始まります。聖書において、旅というのは、私たちの長い人生そのものを言っているように思われます。神様に導かれて、あちらの山、こちらの町 . . . 本文を読む
創世記28章10~22節
神様のおられるところ
神様がおられるところを想像するに、神殿のようなところを日本人はイメージするのではないでしょうか。例えば、日本では神社やお寺の本堂のようなところです。あるいは、自然の山や海、岩や樹木など、自然の驚異に触れ、人間を超えた神なるものを感じとっている方もおられるでしょう。イエス様の時代にも、ユダヤ人たちの中ですら、そのように考えていた者はいただろうと思われ . . . 本文を読む