平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2020年5月3日 再建と再臨のはざまで

2020-05-10 22:26:01 | 2020年
使徒言行録1章6節〜8節
再建と再臨のはざまで

 「ステイホーム!!」と内外で言われますが、私達も礼拝を自宅で持つようになって五週目となりました。顔が見えない中、皆さんは元気だろうかと思わない日はありません。

 マタイ・マルコ福音書では復活されたイエス様は弟子たちに彼らの故郷であるガリラヤに戻りなさい、と言われますが、ルカ福音書では違い、「都(エルサレム)に留まっていなさい」と言われます。弟子たちに約束された聖霊が送られてくるために、そこに座していなさい、と言われたのです。これから始まっていく希望の中心にあるものは、イエスの十字架と復活された場所にあり、そこから広がっていくのだ、という強いメッセージを私は感じます。

 使徒言行録を5月は中心的に学びますが(24日MZ兄担当説教と31日青野師担当説教の箇所は違います)、この書はルカ福音書の続刊です。イエスの宣教と活動を語るのが福音書だとすると、彼の意志を弟子たちが引き継いでその活動を広げていったのが使徒言行録です。さて、弟子たちは今や神の国が実現をし、当時ローマ帝国の支配下にあったイスラエルの国を再建してくれるのはいつか、とイエスに問いました。それは政治的な支配と抑圧から自由にされることを望んだ発言でした。しかしイエス様は「その時がいつになるのか、神の時はあなた方には知ることはできない」と言われました。

 私達もこのパンデミック(世界的疫病の大流行)からいつ自由になるのか、生活の再建はいつになるのか、と祈っていますが、その答えはまさに、神のみぞ知ることです。でも、政治的なこと、経済的な困窮と助けを求める声は、イエスによって信仰的な事柄として受け止められ、決して否定はされないことに注目する必要があります。

 イエス様は続けざまに言いました。「しかし、聖霊があなたがたに降るとき、あなたたちは力を受けるであろう」(岩波訳)。あなたがたは知らなくて良い、『でも、』聖霊が降り、力を受ける、と言われました。

 力とはギリシア語ではデュナミン、英語のダイナマイトの語源となった言葉ですが、聖書では様々な訳語となる言葉です。「能力」、あるいは出血の止まらない女に対しての「癒やしの力」(彼女がイエスを信じてその衣に触れたことによる!)、あるいは「奇跡」(信じないものに対しては力のないイエス)、言葉の「力(意味)」、あるいは「復活の力」、などなど。

 ここで弟子たちに与えられようとしている聖霊の力とは、第一に、弟子たちの生き方を根本的に変える力でした。それはイエス様が昇天し、また来られる再臨の時まで、神(イエス)なしに、神(聖霊)と共に歩み、神の国が完全に実現するときまで、その人生の限り、力を尽くすものとなることでした。聖霊の力とは新しく活きるための力だと思わされます。実に「使徒」は「殉教者」と呼ばれるほどに神の国のために生き抜きました。イエスの十字架を前に逃れようとしていた弱かった弟子たちは、聖霊によって神を中心とする神の使命に生きるものへと変えられるのです。

 第二に、聖霊の力は、この先起こってくる困難な出来事が、神様からのものであり、必ず出来事の背後にある神の計画を知る者とされました。マルコ福音書12章24節では「あなたたちは聖書も神の力も知らない」と言われますが、実に神の力が宿るときには、聖書をも知ることになると伝えられています。それはすなわち、神の霊が私達に降っている今、この困難を通して神はご自分の考えを信じる一人ひとりにお伝えくださっています。そして今、それぞれが持ち、開いている聖書を通して、この困難な時代の中をどのように生きるべきか、教えてくださっています。

 実に使徒言行録1章8節の御言葉はこの活動を要約する言葉です。この宣教活動が、聖霊が与えられる都エルサレムから始まり(2-8章)、ユダヤとサマリアの全土へと広がっていき(8章1〜)、ついにはローマ帝国を意味する地の果てに至るまで(10〜28章)わたしの証人となる、と言われます。サマリアという地名はユダヤ人にとっては嫌厭の対象となる地ですが、弟子たちにとっては意図しない、自分たちが嫌がるような場所であっても主がそこをも愛しているがゆえに、自分たちの考えを超えて旅をし、異なる文化を理解し、自らの考えや経験をいい意味で壊されていくことによって福音もその地域の人々に届くことになりました。

 さて、イエス様の地上での最後の言葉は「わたしの証人となる」でした。この証人とはすでに起こったことを忠実に語る人のことです。すべての主を信じるものに対して開かれている言葉です。つまり、弟子たちの活動は主の活動であり、私達の日々は主の日々です。イエス様が共にいて、全てを導いてくださる、それが生きた証です。
 私達は、この世界的大流行の中で、生活が再建されることをのぞみつつ、主イエスの再臨されるときの狭間で生きています。聖書は「…主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい…主は近い」ピリピ人への手紙4章4〜5節と言われます。
その時とその時を繋ぐ聖霊の力が私達と共にあります。
共に祈りましょう。


森 崇 牧師

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