平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2006年12月24日

2007-03-17 17:46:01 | 2006年
ヨハネによる福音書1章1~18節
   この方が神を示された

 2000年前にイエスキリストはこの世に来られました。2000年という時の流れを随分遠い昔と思う方もいれば、それほど遠い昔でもないと感じる人もいることでしょう。私は、最近、それほど昔とも思えなくなってきました。
 年齢がいって、そんな風に思えるようになったのか、いろいろな情報のおかげで、そのように感じられるようになったのか、おそらく両方からの影響が考えられます。
 それにしても情報の力というものは侮れないもので、例えば、40数億年とも言われる地球の歴史から見ると、2000年という時の流れは、ほんのわずかだというような話を聞くと、イエス様は、確かに、つい先ほど、この世に来られたのかということになって、それは、決して、遠い昔ではないと思えるようになるものです。そして、このクリマスのご降誕の物語が、とても身近な出来事のように思えてくるのです。
 しかし、このお方は、ヨハネによる福音書の1章の1節から18節のところでは、最初からおられた方なのです。それも神様と共におられました。そして、聖書は、このお方は「神であった」と記しているのです。
 また、すべてのものはこのお方によって、創造されたとも書かれてあります。イエス・キリストは、創造主であり、救い主であられるお方なのです。そして、今もなお、私たちと共にいてくださるお方なのです。永遠なるお方なのです。この方が2000年前に来られたのでした。
 私たちがよく知っているイエス・キリストのご降誕の物語は、マタイ、そしてルカによる福音書に載っています。それぞれ書かれている内容は違います。マタイには、救い主誕生の知らせを告げる星を発見した占星術の博士たちが登場し、ルカでは夜、野原で夜通し羊の番をしていた羊飼いたちが登場し、彼らに、天使が救い主誕生の知らを告げるのです。
 マタイでは、ヨセフに天使が現われ、身重のマリアを妻として迎えるように言うのですが、ルカでは、マリアに天使が現われ、聖霊によって身ごもることを告げられるのです。そして、クリスマスの物語は、この二つの福音書の内容をミックスした形で、普通描かれているのです。
 そのようなイエス様のご降誕の物語に比べて、ヨハネによる福音書の描き方は、異なります。イエス様は、まことの光として世に来られたとあります。そして、この光は闇の中で輝いたが、暗闇は光を理解しなかったとあります。まさに、光としてのイエス様が、暗闇であるこの世にやって来たけれども、この世はイエス様のことを理解しませんでした。
 そして、また「この光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とあって、それゆえに、私たちの中には、この光に照らし出されるということを嬉しく思う者もいるでしょうし、逆に恐れる者もいるのでしょう。
 また、この光と暗闇という対比は、マタイとルカの降誕物語には、占星術の博士たちや羊飼いたちが、夜、暗闇に現われた救い主誕生の知らせを告げる星を発見したり、まばゆいばかりの天使たちの報告を聞いたりと、そうしたお話とどこか重なるようなところがあります。暗闇の中に光が来たというところなど、そのように思えます。救い主は、まことの光として、すべての人を照らすためにこられたのでした。
 ヨハネによる福音書では、マタイやルカのようなご降誕の物語はありません。その代わりに、イエス様がどのようなお方であったのか、いったい何者であったのかが、福音書の最初のところで、紹介されるのです。
 そして、このお方のしたことはいったい何であったかということが書かれているのです。それは、「この方が神を示された」のだということです。「いまだかつて、神を見た者はいない」、そのとおりです。そして、神を見た者は死ぬ、と聖書にも書かれているのですし、ですから、神を見た者はいないのです。そのような人はおりません。
 しかし、「この方が神を示された」とヨハネは言っております。つまり、ある意味で、神を見たのだと証言しているのです。それは、イエスという人物をとおして、私たちは、はっきりと神を見たということなのです。
 この方のうちに、神様のお姿がはっきりと示された、神様の本質が表された、神様の御心が示された、そういうことなのです。私たちは、神様というものを旧約聖書においても知ることができます。そこに描かれている神様は、ほんとうに忍耐の神様です。
 もちろん、あまりにもメチャクチャなイスラエルの民に対して厳しい裁きを下されることもありました。しかし、その裁きを思い返されて、また、慈しみを与えられる神様のお姿が描かれています。ところが、イスラエルの民は、支配者をはじめとして、またもや神様に背き、神様を裏切り、また罪を重ねていくのです。
 そして、再び裁きがくだされ、それでもなお、神様はイスラエルの民を赦していかれるのです。そのような愛と忍耐の神様のお姿が繰り返し繰り返し、イスラエルの歴史を通して、描かれているのです。
 パウロは、人で罪を犯さない者は誰もいない、ということを言っていますが、それはイスラエルの歴史における神と民との関係やキリスト者たちを迫害していたパウロ自身が自分を顧みたときに、そのような結論に至ったのでしょう。そして、これは、神様の前に義人(正しい者)はいないという、神様ご自身の真実の結論でもあられるのではないでしょうか。
 その神様は、忍耐の神でもあり、厳しい裁きの神様でもあり、また、赦しの愛の神様でもあられるのですが、イエス様をとおして表された神様は、人としてこの世に来られた方ですから、さらにもっと、その忍耐や裁きや赦しは、身近であり、具体的に多くのことを私たちに、豊かに示されたのでした。
 例えば、生前、いろいろな教えを弟子や群集になさいましたが、物分りの悪い弟子たちにイエス様は忍耐をされましたし、罪ありといわれていた者たちに赦しを宣言されていきました。これは復活されたイエス様のお姿ですが、結局、イエス様を裏切って逃げていった弟子たちを赦されました。
 教え自体も、この世の価値観とは随分とかけ離れたものでありました。例えば、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」、いったい誰が、そのようなことを信じることができたでしょうか。貧しい人々は、神様の恵みからもれた人々であると、一般に思われていたのではないでしょうか。
 今でも貧しいことは、恵みから遠く離れていると世の多くの人々は思うのではないでしょうか。ですから、このような言葉は、普通の人には、とても言えるものではありません。こういうことをお語りになられるのは、貧しい人々のことも神の国も、それを告げるその方の手の中にあるということが前提になっているのでなければ難しいのではないでしょうか。
 しかし、もし、神様がそう語ってくださるのであれば、確かに、貧しい人々は、幸いであり、神の国は、そうした人々のものなのであります。生前のイエス様ご自身も、粗末な家畜小屋で生まれたのをはじめとして、大工として育ち、神の国を宣べ伝えはじめてからは、明日のねぐらもわからぬような、貧しい放浪の旅をしておりました。
 貧しき人のことも、神の国もどちらもよくご存知であり、どちらもイエス・キリストの所有するところなのであります。ここには、世においては、とてもそのように思えないけれども、神の国があなたたちのものだとされることで、貧しきそのままのありように、祝福が語られるのです。苦しみや悲しみが、神の国に近いことを主は示してくださいました。
 11節に、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。これが聖書の見解です。言とは、イエス様のことです。イエス様は、ご自分が創造なさった民のところへやって来たのですが、民は、そのイエス様を受け入れるということをしなかったのです。
 それどころか、このお方を十字架につけて殺害したのでした。しかし、後になって、それは神様の御心であり、私たち人間の罪を赦すために、あがないとしてこのイエス・キリストは、献げられた神の小羊だったのだと弟子たちは知るようになるのです。
 「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」このところを読みますと、イエス様を受け入れる人の方がどちらかというと少ないと聖書は言っているように読めます。人はイエス様を受け入れない、それが、あたかも当然のような書き方をしているのではないでしょうか。
 受け入れない人々が多いのだと聖書は述べるのです。ですから、私たちも私たちの宣教が無駄に終わるように思えるときには、むしろそれが当たり前と思う程度が認識としては妥当なのかもしれないのです。しかし、イエス様を受け入れない人々だけではないことを聖書は告げています。
 「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた」とあります。信じる者が与えられることも聖書は述べているのです。そのような人々もまた興されるのです。教会は、その神の子どもたちのために、イエス様を宣べ伝える活動を続けていかなければなりません。
 私たちは、どちらでしょうか。このイエス様をキリスト(救い主)として受け入れるのでしょうか。それとも、受け入れないのでしょうか。このナザレのイエスこそが、キリストと告白するのでしょうか、そのように信じるのでしょうか、それとも信じないのでしょうか。
 私たちは、神の子としての資格を欲しいと思うでしょうか。それとも、そんなものはいらないと思うのでしょうか。神によって生まれたと言われることを喜ぶでしょうか。それとも、そのようなことはどうでもいいでしょうか。私は、神様がそのように見なしてくださることを、そのように呼んでくださることを光栄に思いますし、喜びたいと思います。
 あなたは、私の子どもだ、あなたは、私から生まれた子どもだ、そう言ってくださることは何と幸せなことでしょう。これ以上の幸せなことがあるでしょうか。今日、バプテスマを受けられた三人の方々のことを私は神様に感謝します。三人は、イエス様のことを受け入れたのです。そして、その名を信じたのです。そして、今日、神の子となる資格を得られました。三人の方々は、神様から新しく生まれた人々となりました。それまでの古い自分に死んで、新たに生まれ、新しい人になったのです。
 14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあり、神の独り子が卑しい肉なる人として来られたことが語られています。そのお方は、恵みと真理に満ちあふれておられたのでした。先ほど、ヨハネは、イエス様をとおして神を見たといっているのだと申しましたが、この箇所もまた、そうだと思います。
 ヘブライ人への手紙一章1節から3節にもこのようにあります。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」。
 イエス・キリストは、人としてこの世に来られましたが、同時に、神の本質の完全な現れでもありました。神の本質とは何でしょうか。それは、ヨセフが、夢の中でマリアを妻として迎えるように言われたとき、その名をイエスと名付けなさいと言われます。そして、マタイは、「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」あの御言葉が実現するためであったというのです。
 そして、そのインマヌエルというのは、「神は我々と共におられる、という意味である」と、説明を加えています。神様の本質は、私たちと共にいてくださる、それもいつもそうでありますが、そのようなお方が神様だといっているのです。
 イエス・キリストは、インマヌエルの神様なのです。私たちといつも共にいてくださる神様なのです。今日、バプテスマを受けられた方々と神様がいつもおられることを信じますし、そのことをこれからさらに実感される機会が幾度も訪れることでしょう。
 16節「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とヨハネは証しています。恵みというものは、他者からもたらされるものです。恵みを与える側は、それについては、豊かでなければなりません。物質的なものもそうでしょうが、魂の点でいうとさらに豊かでなければ、恵みを他者に与えることはできません。
 それに対して、このイエスというお方は、満ちあふれる豊かさをお持ちでいらっしゃいます。そして、そのお方から恵みをいただく私たちは、恵みの上に、さらに恵みを与えていただくのだと言われるのです。これもまた、神様の本質なのです。神様は、尽きない恵みを私たちにもたらしてくださるお方なのです。
 そして、その恵みの最たるものが、イエス様の十字架でありました。これ以上の恵みはありません。この十字架に神様の愛はきわまっているのです。また、そのイエス様を復活させられ、私たちが死という滅びから免れて、永遠の命に生きる者のであることを示してくださいました。
 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」これほどまでに私たちは神様から愛されているのです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。 
 2000年前、神様は、この独り子イエス・キリストを通してご自身を示されたのでした。私たちは、確かに、今日(こんにち)、聖書の証言をとおして、神を見せられたのではないでしょうか。
 言としての主を、私たちを照らすまことの光としての主を、最初からおられた主を、創造主なる主を、永遠なる主を、私たちを愛してやまない主を、赦しの主を、私たちに永遠の命をたまわる主を、恵み尽きない主を、まことの人として来られらた主を、そして、十字架につけられた主を、三日目に復活させられた主を、それから、いつも共にいてくださるインマヌエルの主を、神の独り子なる主を見たのです。私たちは、イエス・キリストをとおして、確かに、神を見たのです。「この方が神を示されたのである」。

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