平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2020年5月31日 霊を見分ける力 ー ペンテコステの日に ー

2020-06-27 22:21:31 | 2020年
コリントの信徒への手紙一 12章4節〜11節
霊を見分ける力 ー ペンテコステの日に ー

今朝は、私たちに与えられている「霊」の賜物のひとつとしての「霊を見分ける力」(第一コリント12章10節)について考えてみたいと思います。「霊を見分ける」と言うときの「霊」とは、「聖霊そのもの」、新共同訳が7節以下でそうしていますように、欧文における“ ”のような括弧を用いて表わされた“霊”(しかし新共同訳における初めてのこの‟ “の使用は、最近の新しい聖書協会共同訳においてはもはや採用されませんでしたが、ともかくその”霊“)、すなわち「聖霊」「神の霊」(ともに3節)、が人間に与えてくれるものとしての「霊」のことを指していると思われます。

 7節は「“霊”の働きが一人ひとりに現われる」と語っていますが、そのような「神の霊」が人間一人ひとりに対して働く出来事のことです。パウロはおびただしい数の「霊」への言及をしていますが、そのなかではっきりとそれを「聖霊」と言い表わしているのは、ただの12回のみで(12章3節の「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」はそのひとつの箇所ですが)、あとはすべて、それをただ「霊」とだけ表示しています。しかしだからと言ってその「霊」が常に「人間の霊」を指しているというわけではなくて、7節以下のように“霊”すなわち「神の霊」を指す場合もあれば、人間の「霊」を指す場合もある、ということです。

 では、人間の「霊」とは何なのでしょうか。スイス・チューリッヒ大学神学部における私の恩師エドアルト・シュヴァイツァー先生は、ドイツ語の全十巻の膨大な『キッテル新約神学辞典』のなかで、「霊」(pneuma)についての項目(それは一冊の書籍になってもおかしくないほどの大項目なのですが)を書いておられますが、そのなかで先生は、この人間の「霊」とは、決して「人間は霊と肉とから成っている」というような、キリスト教以前から存在していた「霊肉二元論」が前提していますような、「もともと人間に具わっているものとして人間が所有している霊」を指しているというのではなくて、むしろ、人間の「霊」とは、すべて「神の霊」すなわち「聖霊」によって人間に与えられたものなのだ、という理解こそが、新約聖書における「霊」についての根本的な理解である、ということを明らかにしてくださいました。

 そしてそのような理解は、新約聖書学的には広く受け止められているコンセンサスだ、と言ってよいだろうと思われます。それは、さきほどふれました12章7節の「“霊”の働きが一人ひとりに現われる」という言い方のなかに明確に見出すことができる捉え方です。人間には「霊」のほかに「魂」(psyche)もあるとされますが、両者の関係などなどについては、またいつかお話できたらと思います。さて、人間の「霊」とは、もともと「神の霊」、すなわち「聖霊」によって与えられたものであったとしても、それが個々の人間に与えられてしまったものである限り、それは「神の霊そのもの」であり続けるということは残念ながらありえず、種々さまざまな「霊」となってしまうほかはありません。

 そのことは、パウロが第一コリント14章における「異言」と「預言」についての段落のなかで、とくに32節で、次のように語っていることから明らかです。「(神からの啓示をとおして)預言者に働きかける霊(というよりも、直訳すれば、岩波訳のように、「預言をする者たちの霊」と訳すべきでしょうが、そのような霊)は、預言者の意に服するはずです」(直訳すれば、新しい共同訳のように、「預言者に服従するものです」)。つまり、たとえそれが「神」あるいは「神の霊」をとおして与えられた「啓示」に基づいたものであったとしても、預言をする者がその「啓示」を神から受け取った瞬間には、それはその「預言をする者自身の意向、思い、願い、祈り、などなど」に「服従するもの」となってしまう、というのです。

 つまり預言をする者が持っている思いのほうが支配的になってしまって、その結果、神のご意志と人間の思いとがどうしても混然一体となってしまう、というのです。そうである限り、その「霊」は、決して「神の霊そのまま」ではなくなってしまって、私たち自身の意向や思いが、そこに分かちがたく入り込んでしまったものとなってしまうのです。ですからこそ、私たちが「霊を見分ける」ことをなす必要がどうしても生じてくるのです。

 「見分ける力」と訳されている原語はdia-krisisです。これは「徹底して」(dia)「識別する、判断する、さばくこと」を意味しています。krisisの動詞形はkrinoで、英語で言えばjudgeのことですが、それは、スポーツにおけるジャッジがそうでありますように、ストライクとボールを、アウトとセーフを、ゴールとノーゴールを「分ける、区別する、識別する」ということが常に根底にある行為です。そしてkrinoの形容詞はkritikosなのですが、それは英語のcriticalのことですので、その行為は常に「批判的」な行為ということになります。

 ここからしても、「批判」とは、言葉の本来の意味においては、常に建設的なもの、7節が語っている「全体の益となる」ことがらであって、決して「非難」を意味するわけではない、ということが明らかとなります。そこでさらに、「霊を見分ける力」がもたらしてくれるさまざまなことがらについてともに探求してみましょう。


青野太潮 協力牧師

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