使徒言行録8章1b節〜5節
緊急事態宣言の解除が先日なされました。あぁやっとかという安堵した思いと、いや、まだまだだという恐れや不安も同時に存在します。礼拝や集会の再開に向けて、今週土曜日の臨時執事会で話し合っていきたいと思います。ぜひ、これからのキリスト教会の再建のために、また地域が活力を持てるように心ひとつに祈っていきましょう。
さて、今日は使徒言行録8章です。最初にある「その日」、とはステファノが殉教した日でした。ステファノは信仰と聖霊に満ちている人(6:5)で神の教会の世話をする奉仕者でした。彼が無実の罪で捕らえられ、殉教します。
彼は裁判の席で説教を行い、これまでのユダヤ教を痛烈に批判します。「神殿などには神様はお住みにならない」「あなたたちはいつも聖霊に逆らっている」「神が遣わした預言者をいつも殺してきたし、神がお遣わしになったイエスをも殺してしまった」というステファノの説教(7章)は、ユダヤ教の当局者たちにとって許し難い神への冒涜(ぼうとく)でありました。そして、この出来事をきっかけに、教会に対して大迫害が起こっていったのです。
かろうじて、ヘブライ語を話す使徒たちはエルサレムに留まることが出来ましたが、ギリシア語を話す他の人々は、ユダヤとサマリアの地方に散っていきました。エルサレム近辺ではサウロ(キリスト教を世界に広めることとなったパウロの前の名)はそのユダヤ教の律法に対する熱心さのゆえ(ガラテヤ1:13)、家に存在していたクリスチャンコミュニティを破壊し続けました。
散って行った人々は、散らされ、バラバラにされ、迫害に押し出されて仕方なく逃げていきました。逃避は決して自分の意志ではありませんでした。「なぜこんなことが起きてしまったのだろう」と思いつつ、彼らは命がけで逃げていったはずです。しかし、彼らは命がけで逃れながらも、御言葉を伝えるために、その使命に忠実でした。「散って行った人々は福音を告げ知らせながら巡り歩いた」のです。
「福音」とは「御言葉」のことです。ここにはまず信徒が巡り歩き、伝えていったという感動と、御言葉を伝えた、という感動があります。どんな言葉だったのか知る由はありませんが、神殿で朗読された聖書の言葉や、あるいはイエスとの出会いによって与えられた「あなたの信仰があなたを救った」という言葉や、あるいは信徒がこの御言葉によって私たちは生きている、という福音(よき知らせ)だったことでしょう。大迫害によって紡がれ、語り継がれていった言葉がありました。
フィリポはサマリアの町に下って行きました。サマリアはユダヤ人にとって敵対する地です。フィリポが下っていった時、彼は疲れと緊張のままに逃れていたことでしょう。しかし、思いもしないサマリアの人たちの温かい出会いの中で、フィリポは気力と活力を回復し、そこでキリストの生涯を語ったのでした。
サマリアはイエスが生前尋ねられた地であり、ヤコブの井戸で女と出会い、生ける命の水を与えたところでした。このイエスと女の出会いにより、サマリアのイエスを信じるコミュニティが出来ました(ヨハネ4:39-42)が、今回フィリポが散らされたことで、イエスのその後の生が語られたのです。イエスが十字架に至るほどの愛を示してくださったこと、そして神がそのイエスを復活させてくださったことなどが語られたことでしょう。実に、すべてのことには意味がありました。
3・11後、福島の原子力発電所が爆発してから、未だに故郷に帰れず、避難生活を余儀なくされているすべての人々を覚えます。その方々には、もちろん軽々に「どんなことにも意味がある」とは言えません。それは津波だけでなく、地震や、あるいは豪雨や土砂崩れや疫病もそうです。災害だけでなく、身近な人との別れ、あるいは障害を負うこともそうです。それは自分の意図ではない、全く純粋な悲しみと痛みです。でも、わたしたちキリスト者がそのように、希望を持って寄り添い、ことばをかけることができるのは、どんな悲惨な局面にあっても、その悲惨を共に経験してくれる三つなる神(父・子・聖霊)がおられるからです。
実はパウロはイエスとの劇的な出会いによって回心させられた後に、このように言いました。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖(あがな)われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。…神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
ローマ8:22-24a,28。
この希望の言葉は将来起こることとしてあるのではなく、実際にそれはもうすでに起こった、という意味です。将来起こるであろう希望と、それはもうすでにそこにあるのだ、という大変な緊張感の狭間で、私たちもまた、聖書を、福音を告げ知らせながら巡り歩きたいものです。どんなことも、神が共におられるので、意味があります。あなたが生きて、神に生かされることに意味があるのです。
森 崇 牧師
どんなことにも意味がある
緊急事態宣言の解除が先日なされました。あぁやっとかという安堵した思いと、いや、まだまだだという恐れや不安も同時に存在します。礼拝や集会の再開に向けて、今週土曜日の臨時執事会で話し合っていきたいと思います。ぜひ、これからのキリスト教会の再建のために、また地域が活力を持てるように心ひとつに祈っていきましょう。
さて、今日は使徒言行録8章です。最初にある「その日」、とはステファノが殉教した日でした。ステファノは信仰と聖霊に満ちている人(6:5)で神の教会の世話をする奉仕者でした。彼が無実の罪で捕らえられ、殉教します。
彼は裁判の席で説教を行い、これまでのユダヤ教を痛烈に批判します。「神殿などには神様はお住みにならない」「あなたたちはいつも聖霊に逆らっている」「神が遣わした預言者をいつも殺してきたし、神がお遣わしになったイエスをも殺してしまった」というステファノの説教(7章)は、ユダヤ教の当局者たちにとって許し難い神への冒涜(ぼうとく)でありました。そして、この出来事をきっかけに、教会に対して大迫害が起こっていったのです。
かろうじて、ヘブライ語を話す使徒たちはエルサレムに留まることが出来ましたが、ギリシア語を話す他の人々は、ユダヤとサマリアの地方に散っていきました。エルサレム近辺ではサウロ(キリスト教を世界に広めることとなったパウロの前の名)はそのユダヤ教の律法に対する熱心さのゆえ(ガラテヤ1:13)、家に存在していたクリスチャンコミュニティを破壊し続けました。
散って行った人々は、散らされ、バラバラにされ、迫害に押し出されて仕方なく逃げていきました。逃避は決して自分の意志ではありませんでした。「なぜこんなことが起きてしまったのだろう」と思いつつ、彼らは命がけで逃げていったはずです。しかし、彼らは命がけで逃れながらも、御言葉を伝えるために、その使命に忠実でした。「散って行った人々は福音を告げ知らせながら巡り歩いた」のです。
「福音」とは「御言葉」のことです。ここにはまず信徒が巡り歩き、伝えていったという感動と、御言葉を伝えた、という感動があります。どんな言葉だったのか知る由はありませんが、神殿で朗読された聖書の言葉や、あるいはイエスとの出会いによって与えられた「あなたの信仰があなたを救った」という言葉や、あるいは信徒がこの御言葉によって私たちは生きている、という福音(よき知らせ)だったことでしょう。大迫害によって紡がれ、語り継がれていった言葉がありました。
フィリポはサマリアの町に下って行きました。サマリアはユダヤ人にとって敵対する地です。フィリポが下っていった時、彼は疲れと緊張のままに逃れていたことでしょう。しかし、思いもしないサマリアの人たちの温かい出会いの中で、フィリポは気力と活力を回復し、そこでキリストの生涯を語ったのでした。
サマリアはイエスが生前尋ねられた地であり、ヤコブの井戸で女と出会い、生ける命の水を与えたところでした。このイエスと女の出会いにより、サマリアのイエスを信じるコミュニティが出来ました(ヨハネ4:39-42)が、今回フィリポが散らされたことで、イエスのその後の生が語られたのです。イエスが十字架に至るほどの愛を示してくださったこと、そして神がそのイエスを復活させてくださったことなどが語られたことでしょう。実に、すべてのことには意味がありました。
3・11後、福島の原子力発電所が爆発してから、未だに故郷に帰れず、避難生活を余儀なくされているすべての人々を覚えます。その方々には、もちろん軽々に「どんなことにも意味がある」とは言えません。それは津波だけでなく、地震や、あるいは豪雨や土砂崩れや疫病もそうです。災害だけでなく、身近な人との別れ、あるいは障害を負うこともそうです。それは自分の意図ではない、全く純粋な悲しみと痛みです。でも、わたしたちキリスト者がそのように、希望を持って寄り添い、ことばをかけることができるのは、どんな悲惨な局面にあっても、その悲惨を共に経験してくれる三つなる神(父・子・聖霊)がおられるからです。
実はパウロはイエスとの劇的な出会いによって回心させられた後に、このように言いました。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖(あがな)われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。…神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
ローマ8:22-24a,28。
この希望の言葉は将来起こることとしてあるのではなく、実際にそれはもうすでに起こった、という意味です。将来起こるであろう希望と、それはもうすでにそこにあるのだ、という大変な緊張感の狭間で、私たちもまた、聖書を、福音を告げ知らせながら巡り歩きたいものです。どんなことも、神が共におられるので、意味があります。あなたが生きて、神に生かされることに意味があるのです。
森 崇 牧師