平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2006年6月25日 すべては神様のものです

2006-07-24 00:04:22 | 2006年
歴代誌上29章10~13節
   すべては神様のものです

 「主の祈り」について、ずっと取り上げてきました。そして、最後の部分は、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」という言葉で閉じられています。
 しかし、この言葉は、マタイによる福音書にもルカにも、イエス様が教えてくださった「主の祈り」には、でてきません。これは、2世紀初めに書かれたといわれている「十二使徒の教訓」という使徒教父(使徒の後に登場した彼らの精神を継承していると思われていた指導者)文書のなかに見られるのです。
 ですから、確かに、聖書のなかには、でてきませんけれど、福音書が書かれた年代からあまりたたないで、この「主の祈り」の最後の部分が付け加えられたということになります。
 つまり、かなり早い段階で、初代教会の人々は、この「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」という文言を含めた形で「主の祈り」を祈っていたようです。
 しかし、こうした言葉が、聖書にまったくないかというと、そうではありません。例えば、詩篇145の10節から13節です。これはダビデの詩だと言うことです。「主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ、あなたの主権の栄光を告げ、力強い御業について語りますように。その力強い御業と栄光を主権の輝きを、人の子らに示しますように。あなたの主権はとこしえの主権、あなたの統治は世々に」。
 それから、歴代誌上29章の10節から13節をみますと、これも内容的に同じようなことを言っております。これもダビデの祈りです。
 「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの、まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となされることができる。私たちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を讃美します」。
 ダビデは、このとき神殿を作ろうとしました。それで、国家の財政からその資金を出し、ダビデ王自らも献金や献品を致しました。それから、ダビデは、家来たちにも献金、献品を勧めました。そうしましたら、彼らもまた王ダビデの勧めに従って献品をしたのです。そのようすをみて、ダビデはとても喜びました。
 しかし、このように言ったのです。「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したに過ぎません」と。ダビデという人物は、もともとは羊飼いでした。
 それが、次第に、サウル王に用いられるようになり、ダビデの手柄に対して、そのサウル王の嫉妬をかうようにまでなります。そして、ついには、その王とのいろいろな確執の末、王座にまで就いたのでした。彼は、幼い頃から神様を知っておりました。それゆえに、おごり高ぶることをしませんでした。王でありながら、謙虚でありました。
 彼が、イスラエルの歴史のなかで、それなりの評価があるのは、彼の時代とその息子のソロモンの時代に最も国が栄えたということもありますが、それよりは、彼が、間違いも致しましたが、やはり神様を畏れる者であり、神様を慕い、自分の身を神様に委ねていたことです。神様を讃える、いわゆる頌栄というのは、すべての栄光を神様に帰することです。ダビデには、この姿勢がありました。
 「主の祈り」の最後の部分は、これは信仰告白です。つまり、キリスト者たちは、何一つ、自分の所有するものはないと告白しているのです。「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」。であるなら、今、こうして、私たちが、いただいているものすべてもまた、神様からのものであるということになります。
 先ほど、子ども説教でA兄弟が、ご自分のことをお話してくださいましたが、私たちも同じように、健康も、学びの場も、職場も、そして、備えてくださった家族をはじめとする人間関係もすべては、神様からのものであると理解をしています。
 一般的な物の考え方は、世の人々は、自分で稼いで努力している、その結果、得た収入で自分や家族は、過ごせていると考えるのですが、私たち神様を知る者はそうではありません。働く体、その能力、職場、すべては神様からいただているもので、それによって生活が成り立っていると考えるのです。
 そして、すべてのいただいた恵みは、神様のものですから、すべてをお返ししなければなりませんが、神様は、それは一部でいいといわれるのです。それも神様は、私たちにくださったほとんどの部分を用いて、あなたがた自身の生活を営むようにと言われるのです。
 しかし、逆に恵みとはおよそ思われないものについてはどうでしょうか。災いとか試練とかいうものについては、どのように考えたらよいのでしょうか。結論は、それもまた、神様からのものなのではないかということなのです。そして、そのことについては、次のような聖書の箇所があります。
 先週も示された箇所ですが、ヨブ記の2章10節「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」。
 また、ヨハネによる福音書の9章1節からのところにあるお話です。弟子たちがあるときイエス様にこう尋ねたのです。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」
 そこでイエス様は答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」イエス様は、神様のご栄光が現れるために、その人が目が見えなくなっているとお答えになれたのでした。
 決して、何かの罰のようなもので、そうなっているのではないと語られたのでした。神様は、私たちを神様のご栄光を表そうとされて、いろいろな試練に遭わせられることがあります。それとても、しかし、いずれは、神様のご栄光につながるというのです。すべての栄光は、神様に属します。
 さて、イエス様の時代には、国というものをイスラエルはすでにもっていませんでした。もう700年も前に北のイスラエルは滅び、500年前には、南のユダ国も滅びて、主だった人々はバビロニアに捕囚として連れていかれました。彼らは、しばらくして帰ってきましたが、すでに国は滅んでありませんでした。かろうじて、エルサレムを中心として、ユダヤ教を守る共同体がそこにはあったに過ぎませんでした。
 それに、ユダヤ人のなかには、かつての場所にも帰らず、それぞれに散って行って、その先々で、ユダヤ教の信仰を守りとおして、自分たちユダヤ人としてのアイディンティティーを守る人々もでてきていたのです。どちらにしても、イエス様の時代には、とおに国というものはありませんでした。
 ですから、国が神様のものであるという理解は、複雑な思いではあったでしょうが、一方においては、とてもなじめるものだったはずであります。国というものは、そこに住んでいる住人が、自分たち民族のものという捉え方をしてできる場合もあれば、いろいろな外からの思惑で作られることもあります。
 しかし、一旦できると、この国は自分たちのものだと思うのです。これは、一歩間違うと、こわい意識となります。これが高じて、戦争にもつながります。しかし、それよりもこわいのは、もし、ある国に独裁者がいて、国は自分のものだと考えたらこれもまたたいへんです。その国に住む人々も、たまったものではありません。
 かつて、日本は、天皇を現人神として祭り上げましたから、天皇の国になってしまいました。それで、国民は戦争になったときに、天皇のために戦う、天皇のために死ぬ、そのように教育させられていったのです。
 しかし、聖書は、国というのは、神様のものであると言います。すべての国々が神様のものなのです。そう考えてきますと、自分の国さえよければいいという利己的な考え方から解放されます。むしろ、そこには他国を思いやる気持ちもまた生まれることでしょう。
 また、いかなる権力や力も、すべては神様のものだということになりますと、誰にも、それで誇ったり、威圧的に出ることなど、できなくなります。権力をもって力で民衆をねじ伏せようという国のあり方や、そのような強圧的な人を見たりしますと、滑稽にさえ思えてくるのです。
 また、私たちは、権力、その他の力がすべて神様のものであると感じるならば、私たちを脅かすあらゆるものから解き放たれます。
 それから富や繁栄もすべてが神様のものであるというのなら、何とか富を蓄積したいという欲望から解放されるでしょう。それらのものに確かさを置くという迷信から解き放たれるでしょう。
 あの愚かな金持ちのように、いくら多くのものをため、これで大丈夫と思っても、神様のご計画では明日お前の命は取り上げられることになっている、といわれるように、命もまた、神様から与えられているものですから、私たちはただ、すべてのことは神様にお委ねするしかないのです。私たちは、何も持たずに生まれてきました。そして、何も持たずに、神様のみもとへ帰るしかありません。
 このように考えてきますと、私たちの住む世界はどんなにか、それぞれが謙遜にさせられ、平和に満ちたものとなるでしょう。
 ところで、今日から神学校週間が始まります。献身というものを考えさせられるときです。献身というのは、何も牧師になるだけが、献身ではありません。神様に自分の身を献げるという思いがおありであれば、その方は、献身者です。
 教会のいろいろなご奉仕も、献身者としての振る舞いであることが望ましいのです。これはお互いに大切なこととして言うのですが、キリストのためにご奉仕するなら、教会に来られている方々を迎える姿勢一つおろそかにはできません。
 そして、おそらくキリスト者になると決心をした時点で、自分のために生きるという方向から、主イエス・キリストのために生きるという方向に生き方が基本的には変わったわけですから、(もちろん、そうでないといけないと言っているのではありません)、おそらく、そういう方向性に自ずとなっているということを言いたいと思います。ですから、すでにその時点で、キリスト者たちの多くは献身なさっているのです。
 そして、その中でも牧師としての召命に与った者は、先ほどの歴代誌上のなかで、ダビデが言っているように、「勢いと力は御手のなかにあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる」との御言葉に、より頼んだ者たちなのです。
 神様が自分を牧師としての職務に与れるように整えてくださるということだけを信じ、決断し、一歩踏み出した者たちであるのです。自分は足りない者であるけれども、勢いと力あるお方が、私に力を与えてくださる、そのことによって、何とかその牧師としての職務に与ることができる、そのことを信じたのです。
 すべての力は、神様からくるのです。私たちが保持しているものは何もありません。私たち一人ひとりに与えられている能力も、それはゆえあって、他でもない、あなたに与えられたものですけれども、それは、主の御業のために使われて、はじめて、生きるものなのです。ですから、それによって、与えられた者は、おごる必要もありません。これっぽっちかと嘆く必要もありません。すべては、神様が与えられたものだからです。
 しかし、与えられたものを与えられた分だけ、お返ししたらそれでいいとは聖書は述べません。1タラントンしか与えられなかったと言って、それを石の下に隠してはなりません。それを主のために用いて、増やすことを求められてはいるのです。つまり、神様のご栄光が現れるように私たちは努力するのです。
 「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」。私たちは、主の祈りの最後をこのように締めくくります。「なればなり」というのは、「だからです」という意味です。これは、それまでのすべての祈りのことばを受けていると考えます。

 つまり、「国と力と栄え」がすべて神様のものだから、そのような力のある方だからこそ、私たちは、このようにあなたに祈るのです、ということです。
 これにより、私たちは、自分が無であることを知らされます。そして、神様が、すべての主権を持っておられるお方であることを知ります。であれば、私たちは、私たちがいただいたものに対して、ただ感謝をするだけであります。
 そして、すべてのものと、すべての力とすべての栄えを持っておられる方ですから、私たちにそれらのものを惜しみなく分けて与えてくださることがおできになるのですから、私たちは神様に対して、精一杯の願いをもって臨むことができるのです。私たちが願い求めるお方は、すべての主権者たる神様です。

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