平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2018年4月15日 キリストの土台の上に家を建てる人

2018-04-25 21:34:46 | 2018年
 まず、私たちが、イエス・キリストの福音を伝えられるのは、私たちが、一生懸命勉強し、努力した結果だというのは、違うということが書かれています。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」とパウロは、述べています。彼は、当初、ユダヤ教のニューリーダーとして、ガマリエルという学者から教えを受け、その道では、それこそ「熟練した建築家」のような存在でした。しかし、今はキリストを宣べ伝える者として立っております。それでも、それまでの旧約聖書に関する知識に精通し今や、イエス様の福音との違いを捉えている彼は、他のキリスト者たちよりも、もっと明確に福音の本質を理解していたと思われます。そういった意味では、さらに熟練した建築家のように、イエス・キリストという土台をコリントの教会に据えることができたのでした。しかし、それらは、彼の努力の賜物ではなく、神からいただいた恵み以外の何ものでもないことをはっきりと述べています。そして、「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」、とパウロは述べています。そして、「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます」とあり、終末時における裁きが語られ、それぞれのこの世でのキリスト者としての歩みが問われるというのです。しかし、それであっても、「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われる」のです。パウロは、一方では、キリスト者としてのこの世での歩みが厳しく問われることを言いながら、それでも、一方では、すべての者に及ぼされる恵みの救いについて語ります。 . . . 本文を読む

2018年4月8日 復活の約束に生きる

2018-04-20 22:38:47 | 2018年
 キリスト教信徒は、イエス・キリストの復活を信じているところが他の宗教の信徒たちと違うところです。しかし、イエス・キリストと同じように、人は死んで三日目に復活するわけではありません。死んだ人が生き返ることを願っても、私たちの見ている目の前で、生き返ることはありません。キリスト者であってもなくても、病気で死んでいく人がいます。キリスト者であっても、事故で死んでいく人がいます。キリスト者であっても、自然災害で死んでいく人がいます。キリスト者であっても、耐えられてないことがあって、死んで行く人がいます。それは、キリスト者の場合、ありえないということは一つもありません。そして、死んだ人が、私たちの目の前で、生き返ることもありません。もし、信じても信じなくてもそこらは何ら変わることがないというのなら、イエス・キリストを信じることに何の得があるというのでしょうか。イエス様を信じたら病気にならない、イエス様を信じたら、事故に遭わない、自然災害にも遭わない、仕事もうまくいき、人間関係もうまくいく、そうであれば、多くの人々が、イエス様を信じることでしょう。キリスト者であってもなくても、人は災害や事故に遭い、病気になり、人間関係につまずくことがあり、間違いを犯すことがあります。死というものは、必ず誰にでも訪れるものです。これだけは、時間的な差はあるにしても、必ず誰にも平等にやってきます。死から免れる者は、誰一人としていません。しかし、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」とコリントの信徒への手紙一の15章の20節にありますように、まず、イエス様が、すべての人間を絶望のうちに支配している死から復活されたことで、人もまた死から解放され、復活させられて永遠の命に生きるものとなることを約束されたのです。私たちは、まさにこの約束に生きているのです。死んで約束は履行されます。 . . . 本文を読む

2018年4月1日 あの方は復活なさって墓にはおられない

2018-04-17 17:40:22 | 2018年
 イエス様の時代の墓は、岩をくり抜いて作ったものでした。アリマタヤのヨセフは、イエス様の遺体を十字架から降ろして、亜麻布で巻いて、墓の中に納め、墓の入り口には、石を転がしておきました。ふたとして用いられたこの石は、非常に大きかったとあります。イエス様が十字架におかかりになったときに、幾人かの婦人たちが遠くから見守っていたとあり、その中に、ガリラヤからイエス様と弟子たちのお世話をするためにつき従ってきていた、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そして、サロメがいました。そして、イエス様が墓に葬られたときにも、マグダラのマリアとヨセの母マリアは、遺体の納めた場所を見つめておりました。それから、安息日が終わると、これら3人の女性たちは、香料を買いに行き、週の初めの日の早朝に、墓にイエス様に香料を塗るためにでかけて行きました。彼女たちは、イエス様が復活されるという話を、生前、弟子たちから聞いていたと思います。少なくとも、弟子たちは、イエス様から三日の後に復活するという話は、何度か聞いておりました。しかし、彼らはそれを確かめることをしませんでした。信じていなかったと思われます。それなら、これらの女性たちは信じていたかと言いますと、そうではなかったことがわかります。彼女たちもまた、そのことを確かめるために墓に行ったのではなく、香料を塗るために行ったのでした。しかし、途中、いったい誰が、あの大きな石を転がしてくれるのだろう、と思っておりました。墓に着くと、石は既にわきに転がされてあり、中に入ると、そこには白い長い衣を着た若者が座っており、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言い、行って、弟子たちとペトロに、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と告げるように言われたのでした。しかし、彼女たちは、恐怖で、何も言いませんでした。 . . . 本文を読む

2018年3月25日 信仰を告白する

2018-04-14 11:25:19 | 2018年
マルコによる福音書15章33節~47節 信仰を告白する  イエス様が十字架におかかりになったのは、午前9時でした。そして、昼の12時から午後3時まで、全地は暗くなり、そして、午後3時に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われ、ある者が酸いぶどう酒を飲ませようとしたときに、再びイエス様は大声を出されて息を引き取られました。そのとき、百人隊長がイエス様の方を向いて立っていて、 . . . 本文を読む

2018年3月18日 裏切るユダと逃げる弟子たちと私

2018-04-13 11:16:21 | 2018年
マルコによる福音書14章43節〜52節 裏切るユダと逃げる弟子たちと私  ユダが、どうしてイエス様を裏切ることになったのかは、わかりません。ヨハネによる福音書では、彼は、金入れを預かっていて、つまり、会計の仕事をしていて、そのお金をごまかしていたとありまして、お金でイエス様を売ることになったのも、ユダが欲深くお金に目がくらんだからだ、ということになっています。とても、わかりやすいのですが、マルコに . . . 本文を読む

2017年3月11日 キリストにとって良いことを成す

2018-04-12 15:15:56 | 2018年
マルコによる福音書14章3節〜9節 キリストにとって良いことを成す  いよいよイエス様が、捕えられ、裁判にかけられ、十字架刑に処せられる場面へと進んでまいります。14章1節「・・祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕えて殺そうと考えていた」とあります。こうした道行の物語として、このベタ二ヤで香油を注いだ女性の話がでてまいります。  ところで、どうして、祭司長たちや律法学者たちは . . . 本文を読む

2018年2月25日 主がお入り用なのです

2018-04-11 23:03:10 | 2018年
マルコによる福音書11章1節~11節 主がお入り用なのです  イエス様が、エルサレムへ向かったとき、おそらくずっと付き従ってきた群衆たちだったのでしょうか、自分たちの服を道に敷き、野原から葉のついた枝を切って来て道に敷きまして、イエス様の前を行く者も後に従う者もこう言って叫びました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きとこ . . . 本文を読む

2018年2月11日 なぜ怖がるのか

2018-04-11 17:56:45 | 2018年
マルコによる福音書4章35〜41節 なぜ怖がるのか  自分の命にかかわることでは、不安になり、恐れを抱きます。たとえば、病気になって死に至るまでの痛みなどを考えると、私などは耐えられそうにありません。また、死んだあとのことを思うと、神の国があることを信じていますが、楽しみよりも不安の方が正直まだ若干上回っているかもしれません。命にかかわることには、人は、当然のことですが、恐れを抱きます。まして、事 . . . 本文を読む