平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2017年7月30日 それでも神の愛が見える

2018-02-27 17:32:01 | 2017年
 人間は、最初の人アダムからして、神様の言いつけに背くこという罪を犯しました。言いつけに背くことをする際、そこに現れるのは、神様との信頼関係を壊すことを画策する者です。つまり、誘惑する者です。この誘惑する者を撃退することのできる者は、ほとんどおりません。ですから、イエス様も、主の祈りのなかで、「わたしを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ることを教えられました。蛇という誘惑する者によって、唆された女が、園の中央に生えている木の果実を食べてしまい、アダムにもそれを与えて、彼も食べたのでした。食べると死ぬと言われていた果実は、物理的にそれに毒があり即死するというよりも、言いつけに背くことをして、神様との関係が絶たれることにより、魂の死に至ることを述べているのでしょう。というのも、3章の22節には、「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」と神様は述べていますから、実際に取って食べたのは2章の9節にある「善悪の知識の木」であり、「命の木」の果実は、まだ食べておらず、神様は、これからこのアダムと女が、この命の木の果実を食べる恐れがあると考えておられるのです。そして、神様と同じように、永遠に生きる者となる恐れがあると考えられたのでした。神様は、人間を神様に似せて創造されたのですから、善悪を知る者となっても、永遠に生きる者となっても、いいのではないかと思いたいところですが、善悪を知るというのは過ちを犯さない完全な者、しかも永遠に生きる者になるというのですから、それはまさに神になるということでした。そのような人間を創造される意図は神様にはなかったと思われます。そのようにして神様に背いた二人に、神様は皮の衣を作ってくださり、命の木から遠ざけられた女を、「すべて命あるものの母」とされ、カインを与えられたのでした。 . . . 本文を読む

2015年7月16日 彼に合う助ける者を造ろう

2018-02-27 12:45:41 | 2017年
2章では、具体的に人が造られたときのお話がでてきます。「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。それから、その人を東の方のエデンに園を作り、そこに住まわせました。エデンの園には、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせました。そして、人がそこを耕し、守るようにされたのでした。そうやって造られた人を神様はずっと見ていたのでしょう。そして、お考えになりました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。他の動物については、このようなことはおっしゃいませんでした。神様は人に対しては、このように、助ける者が必要だとお考えになられたのでした。助け合って生きる、そのようなパートナーです。こうした一連の神様の御業のなかに、私たちは人に注がれている神様のなみなみならぬ愛情を感じることでしょう。そこで、神様は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を同じく土で形づくり、人のところへ持ってきましたが、人は、自分に合う助ける者を見つけることはできませんでした。それで、この人のあばら骨の一部を抜き取り、それで女を造られたのでした。そして、この女を神様が人のところへ連れて来られたとき、人は「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉、これをこそ、女と呼ぼう。まさに、男から取られたものだから」。人が、土(アダマ)から造られたので、人(アダム)と呼ばれたように、女(イシャー)は、男(イシュ)から造られたので、そう呼ばれたとあり、それは単なる語呂合わせであって、男が女より、だから優位であるというわけでもありません。人は、誰かと助け合いながら生きていくように造られています。この創造の秩序は、人が生きていくためには特に求められているのではないでしょうか。しかし、そうできなくする社会を作っていくことも、また人にはできるのです。 . . . 本文を読む

2017年7月9日 第七の日を神の日として聖別する

2018-02-26 12:32:10 | 2017年
ブラック企業(会社)という言葉は、2013年に流行語大賞になりました。労働量の割に賃金が低く、かつ長時間労働で休日もなかなかとれないとか、いろいろな劣悪な労働環境、条件があり、長く続けられるような会社ではないということなのでしょう。いわゆる先進国と言われる国々のなかで日本は劣悪です。ドイツでピアノを造っている会社に勤めている義息は、朝の7時頃からの労働ですが昼の3時には帰宅して、子どもの世話をしています。アメリカでIT関係の会社に勤めていた義息も同じように夕方の5時には帰ってきて、家族との時間を大事にしていました。それに比べ、日本で働いている息子や娘たちを見ていると、彼らは、会社勤めではありませんが、ブラック企業(会社)に勤めているのと同じだと思えてなりません。それ以上の可能性すらあります。日曜日も休めません。今が、特殊であるということもあるかもしれませんが・・。娘は、朝の6時前には職場に向かい、夜の10時から11時の間に帰ってきます。教員という職業は、やればきりがないと昔から言われています。おまけに、部活の顧問などをすれば、休日も練習や試合となります。息子は、週の勤務時間、残業時間などが決められているということですが、実際は、どうしてもその枠を超えて勤務せざるをえないところがあり、おまけにまだ経験も浅く若いということで、立場的には、土日の勤務は避けられないとのことです。神様は、第七の日に、ご自分の仕事を完成されたとあります。第七日までを含めて、神様のお仕事は完成されたことになっています。ただし、その第七日は、休息された日でありました。そうしますと、休息までを含めて、神様の創造の御業はなされたことになります。しかも、その第七日目は特に「祝福し、聖別された」とありまして、神の日なのです。この日、私たちは神様に礼拝を捧げ、神様に奉仕するのです。神様の創造の秩序に従いたいものです。 . . . 本文を読む

2017年7月2日 「光あれ。」こうして、光があった

2018-02-25 13:30:11 | 2017年
創世記1章の天地創造の物語は、まず、動植物が生息できる環境がどのように創造されていったかが書かれています。次に、その環境が整えられた結果、そこに生息する動植物が、神様の恵みの業によって、創造され命を与えられていったかが描かれています。そして、最後に人間が神様の似姿として、創造されたことが記されています。これら創造のみ業については、単なる神話であって科学的にはどうかという人々もおりますし、「光あれ」とは、つまり宇宙の始まりのビッグバン(巨大爆発)を指していて、科学的にも辻褄が合っていると言う人々もいます。サルから人間は進化してきたという進化論を否定するか否か、これもまた議論のあるところです。言えることは、聖書は信仰の書だということです。さて、天地を創造されたときの初めの地の状態は、「混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。地は、混沌、闇、水、こうしたものに覆われておりました。これらの状態が、神様の「光あれ」という一言から始まる創造の御業によって、秩序ある、命に満ちた世界に変えられていきました。ヨハネの黙示録21章で、新しいエルサレムが訪れたとき、海がなくなったとか、夜がなくなったといった表現がありますが、混沌、闇、海(水)というのは、否定的なものとして扱われています。それが、神様の「光あれ」というお言葉によって、状況が一変したのでした。私たちの人生には、混沌として先が見えない、希望が見えないといったことがあります。闇に覆われていて、気持がとても落ち込むことがあります。海のなかにひそむ得体のしれない悪しき力を思って、心配にかられることがあります。そして、私たちは、そのような人生の中に光を求めてさ迷うのですが、光は神様の方から与えられるものであることを、今日の御言葉は教えています。「光あれ」。まさに、神様のお力(御言葉)によってのみ、事は成就するのです。 . . . 本文を読む

2017年6月4日 聖霊があなたを変えて下さる

2018-02-23 12:07:40 | 2017年
かつて植木等が歌っていたスーダラ節のなかに「わかっちゃいるけど、やめられない」という一節がありました。パウロは、ローマの信徒への手紙12:1-2で「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえしるようになりなさい」と教えています。この箇所を読みますと、異論はありませんとほとんどのキリスト者は答えることでしょう。しかし、実際、それがわかれば実行に移せるかと問われると、これまたほとんどのキリスト者たちが、できません、と答えるのではないでしょうか。私もそう答えざるを得ません。それじゃ、これを説いているパウロはどうかというとローマの信徒への手紙7:19で、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」そのように言っています。わかっているけれど、実行に移すとなると、そう簡単ではないのです。しかし、牧師の務めとしては、聖書にはこう書いてあると伝えることは、恣意的に曲げられるものでもありませんし、パウロも神様からいただい使信を変えることはできなかったと思います。ですから、パウロも神様からいただい旧約聖書の御言葉や使信を自分の理解したところに従って、自分の限界を知りつつ語りました。しかし、私たちは変りうるのです。それは、自分自身の力ではなく、神様のお力によります。「心を新たにして自分を変えていただき」とありますように、神様、聖霊のお力によってのみ、変わりうるのです。 . . . 本文を読む

2017年5月28日 救いはあまねく行き届く

2018-02-21 17:22:24 | 2017年
パウロは、異邦人伝道に自分は召されたと信じています。そして、その召命観に従って、宣教活動を展開しました。しかし、パウロは、かつてキリスト者たちを迫害していたユダヤ人であったという自覚を持っています。ユダヤ人の救いはいったいどうなるのか、という問いは、おそらく頭から離れることはなかったと思われます。実際、ローマにいる異邦人でキリスト者になった者たちのなかには、ユダヤ人への軽蔑を露骨に口にする者たちもいることを耳にしたのでしょう。それで、パウロは、そのことについてここではっきりとユダヤ人たちへの救いについての自分の考えを述べることにしたのでした。それは、パウロが、こうして異邦人伝道に力を注ぐことが、ひいてはユダヤ人たちの救いになるのだといった確信に満ちた内容でした。それは、パウロの伝道によって異邦人が神様との和解に入れば入るほど、つまずいたユダヤ人がねたみを起こし、奮起して自分もまたイエス様の救いを受け入れるといったことになるのだと、いうことでした。ですから、安心してパウロは、異邦人への伝道に励むことができたのでした。また、異邦人が救われたことについて、接ぎ木のことを例にとって説明しています。それは、ある枝が折り取られ、野生のオリーブである異邦人が、その代りに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったという話です。これはどういうことかと言えば、キリストにつまずいたユダヤ人は、「不信仰」のゆえに神様の民から切り離され、それまで神様の民に縁のなかった異邦人が「信仰」ゆえに神様の民に加えられたという話です。神様の民に属するかどうかは、民族によってではなく、信仰によって決まります。ただ、これらのことは神様の慈しみの不思議な働きなのであって、決して異邦人キリスト者が誇り、高ぶることはできません。こうして、いつかはあまねく救いの出来事は全世界に行き届くことになります。 . . . 本文を読む