ヨハネによる福音書21章1節〜14節
新型コロナウイルス感染の拡大は続いており、いまだ終息の見通しは立ちません。福岡県だけでも、既に 600 人近い人が感染したと伝えられています。皆さんは、いかがお過ごしでしょうか。ほんの二ヶ月前には当たり前であった日常が、今は当たり前ではなくなりました。全国に「緊急事態宣言」が出され、多くの業種に「 休業要請」が出されています。私たちは、今後の見通しの立たないまま、生活の厳しい自粛を迫られています。街は静まりかえり、人々は不安と恐れ、そして様々なストレスと闘っているのです。
皆さんも、それぞれ不安な、厳しい日々を送っておられることと思います。しかし、今回の事態のもっとも大きな困難の一つは、そんな苦しさの中で人々が手と手をとって出会い、互いに慰め、励まし合うことが許されないということです。私たちがもっとも誰かの優しさや思いやりを必要としている時に、互いに会うことが許されないどころか、会うことで相手を感染させてしまうかもしれないのです。教会も、対面で集まることを避け、 苦肉の策としてインターネットで配信することにしました。しかし、インターネットへのアクセスがない方達は日曜日、どうしておられるだろうと思います。皆さんの上に、主の守りと支えがあることを祈ります。
さて、今日の聖書箇所は、イエスの弟子たちがガリラヤの地でイエスと出会うお話です。なお、この箇所、ヨハネによる福音書 21 章は、20 章の最後の結びの言葉に続いているところから、ヨハネの福音書の最初の構想にはなく、後で加えられたものだと考えられています。
20 章では、エルサレムでのイエスの顕現が描かれました。エルサレムでは、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけていたと書かれています。エルサレムは、弟子たちにとって、イエスを裏切り、イエス の十字架での死を経験した地でした。弟子たちは、この試練を経験して無力感と絶望感に苦しみ、どうしたら良いか行き迷っていたに違いありません。エルサレムで、すでに復活の主に出会ったにもかかわらず、彼らの心は晴れませんでした。
それと対照的なのが、今日の箇所 21 章です。ここでは、イエスや弟子たちの懐かしい故郷ガリラヤでイエスに出会う弟子たちの様子が描かれています。1 節にティベリアス湖とあるのはガリラヤ湖のことですが、この湖の周辺は水が豊かで、春には美しい花々が咲きます。湖の周りの丘も緑でいっぱいになります。2-3節では、そこにイエスの弟子たちが集まっていたとあります。ペトロが「俺は漁に行く」と言うと、仲間たちも「俺も行 く」「俺も一緒に行く」と言ってみんなで舟に乗り込んで、自分たちの本業であった漁をします。主イエスを失い、傷つき、迷っている弟子たちが、なんとか本来の自分を取り戻そうとしていたのかもしれません。
しかし、一晩かかって漁をしても、とうとう何も捕れないまま朝になろうとしていました。漁師である自分たちが一晩がんばったのに、何もとれなかった、また失敗だ。重苦しい気持ちが一同を支配していました。ところが、朝もやの中から、弟子たちの方に近づいてくる人がいる。誰だろう、こんな朝早くから。弟子たちは、肉眼で見ていても、それがイエスだとは分かりませんでした。(21:4)
そんな弟子たちに「何か食べる物があるか」(21:5)と声をかけられたのは、主イエスの方からでした。「ありません」と答えた弟子たちに、主イエスがかけられた言葉は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(21:6)という単純なアドバイスでしたが、まことに具体的でその時必要な言葉、漁師である彼らを生き生きとさせるに十分な言葉でした。また、食事のために炭火を起こし、魚やパンを焼くという、実際的な行動でした。(21:9) 魚でいっぱいになった網を引っ張って岸に戻って来た弟子たちは、もはや誰もあえて「あなたはどなたですか」とは尋ねませんでした。復活の主イエスと「出会った」時に、彼らには、心の底から、その人が主だと「分かった」からです。
13 節には、「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」とあります。ここでは、主イエスに声を掛けられ招かれた弟子たちが、主イエスと共に食卓について食事をする様子が生き生きと描かれています。弟子たちにとって、なんと大きな喜びだったことでしょう。 今、私たちは大きな困難の中にあります。しかし、復活の主は、このような困難な時にも、私たちに呼びかけ、傍に立ち、共に主の食卓につくようにと招いておられます。今は互いにお会いできませんが、共に主イエス・キリストに招かれている者として、この困難な時にこそ、互いに祈り、支え合っていきましょう。
才藤千津子 協力牧師
共に主の食卓に
新型コロナウイルス感染の拡大は続いており、いまだ終息の見通しは立ちません。福岡県だけでも、既に 600 人近い人が感染したと伝えられています。皆さんは、いかがお過ごしでしょうか。ほんの二ヶ月前には当たり前であった日常が、今は当たり前ではなくなりました。全国に「緊急事態宣言」が出され、多くの業種に「 休業要請」が出されています。私たちは、今後の見通しの立たないまま、生活の厳しい自粛を迫られています。街は静まりかえり、人々は不安と恐れ、そして様々なストレスと闘っているのです。
皆さんも、それぞれ不安な、厳しい日々を送っておられることと思います。しかし、今回の事態のもっとも大きな困難の一つは、そんな苦しさの中で人々が手と手をとって出会い、互いに慰め、励まし合うことが許されないということです。私たちがもっとも誰かの優しさや思いやりを必要としている時に、互いに会うことが許されないどころか、会うことで相手を感染させてしまうかもしれないのです。教会も、対面で集まることを避け、 苦肉の策としてインターネットで配信することにしました。しかし、インターネットへのアクセスがない方達は日曜日、どうしておられるだろうと思います。皆さんの上に、主の守りと支えがあることを祈ります。
さて、今日の聖書箇所は、イエスの弟子たちがガリラヤの地でイエスと出会うお話です。なお、この箇所、ヨハネによる福音書 21 章は、20 章の最後の結びの言葉に続いているところから、ヨハネの福音書の最初の構想にはなく、後で加えられたものだと考えられています。
20 章では、エルサレムでのイエスの顕現が描かれました。エルサレムでは、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけていたと書かれています。エルサレムは、弟子たちにとって、イエスを裏切り、イエス の十字架での死を経験した地でした。弟子たちは、この試練を経験して無力感と絶望感に苦しみ、どうしたら良いか行き迷っていたに違いありません。エルサレムで、すでに復活の主に出会ったにもかかわらず、彼らの心は晴れませんでした。
それと対照的なのが、今日の箇所 21 章です。ここでは、イエスや弟子たちの懐かしい故郷ガリラヤでイエスに出会う弟子たちの様子が描かれています。1 節にティベリアス湖とあるのはガリラヤ湖のことですが、この湖の周辺は水が豊かで、春には美しい花々が咲きます。湖の周りの丘も緑でいっぱいになります。2-3節では、そこにイエスの弟子たちが集まっていたとあります。ペトロが「俺は漁に行く」と言うと、仲間たちも「俺も行 く」「俺も一緒に行く」と言ってみんなで舟に乗り込んで、自分たちの本業であった漁をします。主イエスを失い、傷つき、迷っている弟子たちが、なんとか本来の自分を取り戻そうとしていたのかもしれません。
しかし、一晩かかって漁をしても、とうとう何も捕れないまま朝になろうとしていました。漁師である自分たちが一晩がんばったのに、何もとれなかった、また失敗だ。重苦しい気持ちが一同を支配していました。ところが、朝もやの中から、弟子たちの方に近づいてくる人がいる。誰だろう、こんな朝早くから。弟子たちは、肉眼で見ていても、それがイエスだとは分かりませんでした。(21:4)
そんな弟子たちに「何か食べる物があるか」(21:5)と声をかけられたのは、主イエスの方からでした。「ありません」と答えた弟子たちに、主イエスがかけられた言葉は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(21:6)という単純なアドバイスでしたが、まことに具体的でその時必要な言葉、漁師である彼らを生き生きとさせるに十分な言葉でした。また、食事のために炭火を起こし、魚やパンを焼くという、実際的な行動でした。(21:9) 魚でいっぱいになった網を引っ張って岸に戻って来た弟子たちは、もはや誰もあえて「あなたはどなたですか」とは尋ねませんでした。復活の主イエスと「出会った」時に、彼らには、心の底から、その人が主だと「分かった」からです。
13 節には、「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」とあります。ここでは、主イエスに声を掛けられ招かれた弟子たちが、主イエスと共に食卓について食事をする様子が生き生きと描かれています。弟子たちにとって、なんと大きな喜びだったことでしょう。 今、私たちは大きな困難の中にあります。しかし、復活の主は、このような困難な時にも、私たちに呼びかけ、傍に立ち、共に主の食卓につくようにと招いておられます。今は互いにお会いできませんが、共に主イエス・キリストに招かれている者として、この困難な時にこそ、互いに祈り、支え合っていきましょう。
才藤千津子 協力牧師